神楽坂建築塾第二回公開講座
対談「建築評論の地平」
〜1950年代を焦点に〜

 1999年12月12日 於・アユミギャラリー高橋ビル

戦後の世相と建築の概観【立松氏講演】

たてまつひさよし氏 略歴

1931年 東京に生まれる
1955年 早稲田大学文学部卒業 
1955〜64年 彰国社勤務
1964年 立松編集事務所設立
『建築文化』『国際建築』『建築年鑑』の編集に携わる。
1975年に月刊『住宅建築』の創刊に参加。
83〜91年まで同誌編集長。
現在『住宅建築』顧問。

今日は1945年から1961年までを視野に入れ、特に50年代の建築と建築評論に焦点を当ててみたい。

まず、戦後の歴史を概観する。どういう時代を背景にして公共建築や住宅がつくられたのか、関連して考えることが大切だと思うからだ。たとえば、前川国男の神奈川県立図書館音楽堂は、村野藤吾の広島平和記念聖堂は、どんな背景で建てられたのか、その時はどんな住宅があったのか。世相は、人々の意識はどうだったか、そこまで考えたいのだ。

 

◆1945年。敗戦。労組法制定。外食券がないと食事できなかった。「りんごの唄」が流行る。奈良に日吉館という学生旅館があって、米二合を持って行かねば泊まれなかった。とにかくモノを見ようと思った。これから時代がどうなっていこうとも、モノを自分の目でしっかり見ていこうと決意した。

◆46年、1月『新建築』復刊。一方古建築指向の雑誌として4月に『建築文化』が創刊。田辺泰(早大)・太田博太郎(東大)・蔵田周忠・服部勝吉らが顧問。ただしこの雑誌も、暗い時代には新しい明るい対象をということか、やがて新しい建築を扱うようになるが。5月メーデー復活。世相の「竹の子生活」とは売り喰いをせねばいけていけなかった庶民の生活のこと。

◆47年、日本国憲法施行の年。6月にNAU(新日本建築家集団)が結成されて、建物がやっと建つようになる。前川国男が新宿に木造の紀伊国屋書店を建てた。これは注目を浴びた作品だった。この年、疎開先から戻った浜口隆一が『ヒューマニズムの建築』を発表。彼は丹下と同期。インフレが激しく、学校給食が始まった年だった。太宰治の『斜陽』。

◆48年はベルリン封鎖、全学連結成。初の鉄筋鉄骨住宅高輪アパートが建てられ、谷口吉郎藤村記念堂を、また前川慶応病院を設計。レイテ戦記を主題にした大岡昇平『俘虜記』が出る。

◆49年、下山・三鷹・松川事件が続き暗い時代だった。2月に新制作協会に建築部が発足。10月に中華人民共和国成立。そんな中で建築家がつくる作品といえば殆どが自邸だった。だって誰もカネを出せないんだから。NAU全造船会館新日本文学館を設計。「青い山脈」が流行。

◆50年。6月に朝鮮戦争勃発。『国際建築』復刊。日共系の農村建築研究会に同行して地方を訪ねたことがあった。農家の実態を調べつつ生活改善を訴えていったのだが、釜でメシを炊く生活はひどい、「炊飯の苦労からの解放」を唱えたわれわれに対して、ある農婦は泣きながら反論した。「こうして薪で火を起こしている時間だけが、私が座っていられる貴重な時間なんです」と。農村の疲弊はわれわれの想像以上だった。女性建築家のバイブルといえる浜口ミホの『日本住宅の封建性』が発表されたのも、こういう時代の中でのことであった。

◆51年にイトヘン景気といって、紡績を中心に好況が続く。坂倉準三が鎌倉に神奈川県立近代美術館を建てた。コルビュジェの元で修業した彼はここでモデュールに沿った作品に仕上げる。一方レーモンドリーダーズダイジェスト東京支社を設計。

◆52年に針生一郎らが『美術批評』に登場。5月には「血のメーデー」事件。前川国男日本相互銀行本店増沢洵最小限住宅広瀬鎌二SH−1が建つ。

◆テレビ放送が始まった53年には、日本国際美術展が開幕。レーモンドカニングハム邸丹下健三自邸増沢洵コアのあるH氏の住まい。7月に朝鮮戦争休戦。

◆54年、丹下健三・大江宏・吉阪隆正らが「例の会」を結成。伝統論争が起こる。池辺陽が『住まい』を発表。前川の秀作神奈川県立図書館音楽堂清家清私の家。黒沢明の「七人の侍」。

◆55年には『リビングデザイン』が発刊されて、リビング(L)という言葉が市民権を持つ。住宅公団はこの年設立。浜口隆一らが不安感論争を展開。当時はだれかが論文を出すと、それに対する批判が往復書簡の形をとって発表される―という論争が盛んだった。今は「論争」など見ることもないが……。建築雑誌各誌が「戦後十年」を特集した。谷口吉郎集団週末住宅村野藤吾広島平和記念聖堂前川らの国際文化会館が建ち、大江宏法大55年館をもって市谷法大キャンパスの画竜点睛とした。増沢洵の新宿風月堂も話題となった。世相は神武景気。

◆56年は、フルシチョフのスターリン批判がなされた。11月に建築家協会発足。青年将校というべき大谷幸夫らを中心に五期会を結成。山口文象RIAが精力的に住宅設計を展開する。堀口捨己自邸を発表。その頃、「縄文的なるもの」を白井晟一が、丹下健三が「現代建築の創造と日本建築の伝統」を提起した。

◆57年、三会(建築学会・建築士会・建築家協会)でコンペ基準を発表。光琳宗達展でようやく「日本のいいものにも目を向けよ」という雰囲気が生まれる。生田勉・宮島春樹栗の木のある家丹下東京都庁舎村野読売会館・そごうが建てられる。三島由紀夫『美徳のよろめき』、映画は川島雄三の『幕末太陽伝』。

◆58年、東京タワーが建つ。池辺陽の住宅シリーズ(No.XX)が次々と世に出る。菊竹清訓のピロティ型スカイハウス吉村順三自邸丹下香川県庁舎前川晴海高層アパート八田利也「小住宅ばんざい」。「有楽町で逢いましょう」がヒット。

◆59年、現天皇の結婚でミッチーブーム。ル・コルビュジェ国立西洋美術館伊藤ていじ・二川幸夫『日本の民家』上梓。

◆1960年には新安保条約が強行採決、批准。新橋から日本橋までの通りを民衆が完全に埋め、国会前の衝突で樺美智子さん死亡。浅沼刺殺事件もこの年。「武器なき斗い」に描かれた共同印刷争議。吉田五十八紀尾井町の家をつくり、広瀬鎌二SH−30では鉄骨のジョイントを見事に表現。前川京都文化会館槙文彦名大豊田講堂が建っている。そんな中で、丹下が「東京計画1960」を発表。『建築年鑑』がスタートする。一方では建物がどんどん建ち安定しているように見えながら、社会的状況としては暗い閉塞した時代であった。山谷事件。

◆61年、建設省は400万戸を整備する住宅建設五カ年計画を策定。ベルリンの壁が8月に完成した。東大に都市工学科が設けられる。林雅子が混構造の家で注目を集める。内田祥哉自邸前川東京文化会館が建てられた。大谷幸夫が市街地再構成計画を発表。歌「上を向いて歩こう」。

 

以上、時代の世相とその中で建てられた建築をおおまかに概観してきた。この中から住宅を抽出すると、・立体最小限住居(池辺陽・1950)、・最小限住宅(増沢洵・1952)、・SH−1(広瀬鎌二・1952)、・丹下自邸(丹下健三・1952)、・私の家(清家清・1954)、・栗の木のある家(生田勉、宮島春樹・1957)、自邸(吉村順三・1958)・スカイハウス(菊竹清訓・1958)……あたりを覚えておいて欲しい。

 

『キネマ旬報』が1989年に「戦後映画ベストテン」を選んだ。「七人の侍(54年)」「東京物語(53年)」「浮雲(55年)」等、なんとその内の8本が1950年代の作品だった。

建築の世界だけでなく文化としても50年代とは高揚した時代であったのだろう。しかし、つかまえどころのない、だが志だけは高揚した時代だった。【第一部終わり】

 


『ヒューマニズムの建築』をめぐって【平良氏講演】

たいらけいいち氏 略歴

1926年 沖縄に生まれる
1949年 東京大学第一工学部建築学科卒業
『国際建築』『新建築』『建築知識』『建築』『SD』等の編集者を経て
1974年 建築思潮研究所設立 『住宅建築』創刊
1993年より相談役 現在『造景』編集長
1997年 日本建築学会賞受賞

私は終戦時に19歳だった。立松さんは……14歳。浜口隆一は29歳、丹下健三が32歳、前川国男は40歳だった。右往左往しつつ夢中で生きた時代だった。旧制高校に入ってみると都心出身の学生は哲学・文学を声高に論じていた。カルチャーショックだった。東大の藤島亥治郎の『桂離宮』を見て、私は建築の道を選んだ。

敗戦を迎え東京の実家に戻ってきたが食い物がない。買出しに農村に行く。サツマ芋も手に入らず、駅前の露店で何だかわからぬ異様な食物を食べていた。焼け野原でやっと生きていた時代だった。49年まではろくな仕事はやっていなかった。焼け跡に建てるべき住宅政策もなかった。

ところが、1950年に朝鮮戦争が始まった。米軍がらみの仕事がどっと来て活況を呈するようになる。それまでも進駐軍の仕事を請けていた事務所が多かった。50年代前半日本は、未曾有の好況で復興を遂げたのであるが、それは朝鮮戦争の特需によるものであった。建築がどんどん建つのは喜ばしいことではあっても、その背景を考えるとなんとも情けない。他国の戦争をバックアップすることによって日本は、建築を含めて潤ったのだということを忘れてはならない。

北海道に避難していた浜口隆一が、前川国男にも呼ばれて帰京し東大の助教授になる。1947年に『ヒューマニズムの建築』を世に問うた話はさっきも出ていたが、ここでは機能主義が強烈に提示されていた。「徹底的に機能以上のものはやらない」ということだ。

それまでの建築史の主流はモニュメンタルなもの――墳墓・寝殿・寺社など――であり、様式を踏まえて論ずるという傾向があった。庶民の住宅とは無縁だった。それに対して浜口は、「厳粛や壮麗といった様式というものは機能を超えたもの。だから排除すべき」とした。

 

では浜口は、戦中にどういう立場を取っていたのか。

当時、大東亜共栄圏の思想が擡頭し、激しさを増す戦争と超国家主義のもと「時局の要請とは何か、建築はどう受け止めるべきか」が問題となっていた。

上野の帝室博物館のような伝統的な大きな屋根を被せた日本的な様式が幅を利かせていた。コルビュジェのもとから帰国した前川国男は「日本趣味ヲ基調トスル」という同博物館コンペの条件を敢えて無視し、インターナショナルスタイルでの案を提出、落選した(1931年)という話は有名だ。近代建築派にとって不利な状況が続いていた。更に1943年の在盤谷日本文化会館(日タイ文化会館)コンペは重要だった。「日本の国威発揚」を目的とする建物が求められた。こういうものに近代建築派の前川さんも丹下さんも応募するわけだ。丹下一位、前川は二位という結果に終ったが、インターナショナルスタイルとはまるで違って、寝殿づくりのモチーフであった。そんな中で浜口隆一は、1944年つまり敗戦の前年に「日本国民建築様式の問題」を『新建築』に発表する。丹下・前川らの伝統的木造和風建築のプランを擁護する論陣を張ったのであった。

 

浜口の理論的バックボーンはいかなるものであったか。

彼は当時、建築学科の講義に満足せずに、美術史や美学の教室に通っていたらしい。19-20世紀の美学上の大家ベルフリンの『美術の基礎概念』や、リーグルの『美術史』などに影響を受けていたようだ。リーグルが提示した「芸術意欲・芸術意志」という用語を「建築意欲」に置き換えて、「建築意欲の現れこそが様式の歴史だ」と展開したわけだ。

本来建築は「物体的・構築的要素」と「行為的・空間的要素」の二面性を有している。その統一体である。

前者は視覚的にはっきり見えることであり、欧州の建築においてはこちらがより重視されてきた。一方「行為的・空間的」とはよりファンクショナルな面を指し、日本の建築においてはこちらの方が大切にされてきた。建具を外したら柱だけのスカスカな空間となり、そこで行われる行為の方が重要だ、というように。しかるに、丹下・前川の案は、まさに「行為的・空間的」な視点に貫かれている、だからこれこそ「日本的なもの」「国民建築様式といえる」と強調したのであった。理論としてはなるほどという気もするが、そんな理論を使ってでも前川らを擁護しなければらなかった戦時中の状況と切り離しては考えられない。国家主義的・民族主義的な表現が建築に要請されたということ、またそれに対して建築家が主体的に、時には「先行して」応えようとした時代、そうであったからこそ、浜口はこういう論理で丹下・前川を擁護したのだろう。

ところが、その浜口がわずか三年を経て、正反対というべき『ヒューマニズムの建築』を発表する。理論形態としては両者は無関係にも見える。だが、時代の中では、浜口も前川らも、近代建築のスジを通すことはできなかった。やむなくということはあっただろうが。その「屈服」の感情が、後の「ヒューマニズム建築」の極端な論旨に微妙に繋がっているのではないだろうか。

更に43年の当選案を見ると、このデザインは現代の和風にも繋がっているようにも私には見える。もちろんこれは国家の記念的建築だからわれわれが身近に接する和風とは違うが、外国から輸入した様式建築と様式軽視のモダン建築、という対比で考えると、どうも繋がっているように思えるのだ。

私も『新建築』にいた時代に川添登宮内嘉久らとともに「伝統と近代」を連続・統一させる潮流を創造することに積極的に参加してきた。日本は侵略戦争をやって負けたのだ、アメリカに占領されたのだという状況だったが、占領以後アメリカ文化を輸入してメリットもあった。一方、植民地化されていたアジア・アフリカ諸国で民族独立解放戦争が勝利し、積極的なナショナリズムの時代でもあった。ぼくらが伝統論争を起こすに当たって、とうとうと入ってきたアメリカ文化を学びながらも、アメリカ文化への抵抗でもあったと思う。日共の文化運動はデザイン論上では「反米」を打ち出しはしなかったが、政治路線から言うと米の圧力は帝国主義的であり、民主化闘争としても抵抗せねばならない、文化の上でもしかり、と考えていたのではないか。私にはそのような意識があった。日比谷の米文化局の図書館にみんな通って向こうの雑誌を読み米デザインを学びつつも、抵抗を志向するというアンビバレントな状況だったといえよう。なお、住宅の規模は日米ではまったく違っていたのだが、合理的構成を学ぶということに主眼を置き、同時に日本人の建築家は「小住宅」というものにこだわり続けた、という面があったように思う。

 

 

機能主義の本質と変遷

 

さて、ふたたび浜口の機能主義について。彼は「機能主義によって完璧なものをつくろう」というラディカルな理論を提示した。

だが、建築における美とは、さまざまな価値を包摂したものであるはずだ。バウハウスの機能主義とは本来、たとえばテーブルならば、何かよけいなもの・装飾をつけるのではなく、その「テーブル」という命名されているモノそれ自体の中で完璧なものをつくろう――という精神であった。それなのに機能主義はいつしか「実用的な機能」ばかりを強調し、人間の感覚に訴える「シンボル性」を排除していくもの、という理解がされるようになってしまったのではないか。

それでも、「完成品を目指す」という機能主義はいつまでも残ると思う。椅子は安定するだけでなく、心地よくなければならないのだから。晩期の浜口は、その機能主義の「範囲」をどんどん広げていって、やがて地域主義にたどり着くことになる。民家の歴史をサーベイして下の方の流れも見てくると、機能的とはどういうことか、が、支配的な建築史の流れとは違って、もう少し豊かに把握できるのではないかという気がする。

こうしてローカルな地域主義の視点、或いはアノニマスな建築に対する愛情を持つに至った浜口であったが、その「芽」が実は、超国家主義の戦中の時代に近代建築派を擁護するために組み立てた理論の中に胚胎していたといえるのではないか。

私自身、ずっと伝統の問題を手放さずにいたつもりだ。伝統とは、目に見える形ではなくて、それをつくってきた目に見えない力が可視的なものになっていくものに他ならない。複雑で底が深いものなのだ。

最後に景観論について。ある外国人が、「日本人は風景を観賞するすばらしい能力があり、また景色をつくりだす能力もある。それなのに醜いものに対してどうしてこんなに鈍感でいられるのか」と言った。その通りだ。心地よい、美しい風景の中で住みたい――という力。醜いものを作り替えていく力。それが風景論の力である。都市理論・環境理論の再構築のためにも必要であろう。【第二部終わり】

 


本物の評論家よ、出でよ【対論より】

 

立松 戦後、耳目を集めた論争はいくつかあったが、それらは決着したのだろうか?

平良 決着はついていないだろう。論争が雑誌上のものに終始したことも一因かもしれぬ。大学等のアカデミズムが距離を置いてしまったこともある。あいまいなままでムードに乗ってしまうというという日本の特質もあるだろう。

立松 「哲学」「歴史」そして「批評」の三つを具有せよ、と言いたい。モノと関わるときに、あなたはそれをどう思っているのか、良いのか、悪いのかという判断だ。これらを合わせて持っていないと、歴史を把握することは出来ないだろう。伊藤ていじは「哲学などと言わずに独自性(オリジナリティ)でいいよ」と言ったが……。
 今は作品についても建築家同士が互いに仲間褒めの記事をかくことでよしとする風潮がある。

平良 建築史の研究者の記述のあり方と、実際の条件の中でものをつくっている設計者の理論展開は別だと思う。評論家の理論と方法はまた更に別ものなのだ。建築家という主体があり、資本主義的な場がある。その中で苦闘しながら彼らがつくっているものを評価、批判し時には介入する「主体としての」評論家とはどんな主体なのか? 建築史家でもなく運動家でもない専門の評論家は、はたして今までいたのだろうか? 真の評論家よ出でよ、と言いたい。論争は他者とのつきあい方でもある。

立松 学生の頃、東大の矢崎美盛先生に連れられて宮本武蔵の絵を見に行ったことがある。左右一双にそれぞれ伸びた枝が描かれていた。「君はどちらが好きか?」。「この左向きのが好きです」と答えた。すると「いい目をもっているね。私もそう思う。きっと武蔵は右利きだったと私は思う。右利きは慣れているから『上手く描こう』と思ってしまう。それが表われて勢いがない。だが、この左向きの画にはそれがない。利き腕ではないから邪念なく勢いをつけて描かねばならない。それが結果として価値の高い動きのある絵となっている」と矢崎さんは言った。
 とにかく皆さんにも「実物にあたれ」ということを強調したい。絵は必ず本物を見よ、建物はそこまで行って見よ、ということだ。見れば、「わかる・わからない」を超えられる。逆に、見ていなければ他者に答えることすらできない。更に、建築だけでなく、建築家その人に会うべきだ。設計した建物を事前に見ておいて、「あなたの○○と○○を拝見しました。一度逢ってお話を聞きたい」と連絡すれば、ほとんどの建築家は時間をつくってくれるだろう。ただ「見せて下さい」では断られるね。

平良 私は、「見る」ことに加えて、嗅覚や触覚も重視せよ、といいたい。20世紀モダニズムも、ビジュアルなアートからスタートしたが、やがて触覚を含めて全身体的経験に基礎を求めていったといえよう。フィンランドの建築家アアルトも、バウハウス的なパイミオのサナトリウム(1932)から、大地の感覚・足の裏の触覚というべき風土性を重視したスタイルに変わっていったのだ。【了】

 

(c)神楽坂建築塾1999

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