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[『住宅建築』2002年10月号にて発表] 鈴木喜一 |
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興津の柿澤邸を最初に訪れたのは1999年のことだった。清水市の伊藤家住宅(登録有形文化財・1999年11月号本誌掲載)の改修工事のさなかだったかと思う。 東海道筋に鬱蒼とした樹木が繁り、大正時代から連綿と続いている古い住宅があった。聞けば、佐藤春夫にゆかりのある家らしい。こんな質実で落ち着いた家があったのかと知ってうれしくなった。「これは貴重だ。当然、登録文化財 ! 」と言った記憶がある。 以来、その家のことはすっかり忘れていたが、小杉茂夫さんからある夜、突然電話があった。 翌日急遽、柿澤邸を訪問した。そこには、古民家再生のいくつかの手法が展開されていた。端的に言えば、創る部分、残す部分、活用する部分が80年という時間の幅で混在している。「ここは残す」「ここは新築する」「ここは移築する」という具合に各棟各要所で多様な判断がとられている。その理念は新築部分にも随所にちりばめられていて、解体した材料を有効に再構成するということも試みられていた。 玄関に入ると、戦後に建てられたという主屋は鉄骨3階建ての現代和風住宅に様変わりし、「吟味された材料が使ってあった」という方丈の茶室は土台ごとクレーンで吊り家され、方形のむくり屋根を新設して海に面して佇んでいた。 石田正年さんとは山崎晏男さんを通じて、横寺の家(拙宅・1996年4月号本誌掲載)で2001年の春に会ったのが最初だったと記憶している。その時に「蒲原で古い家を曳き家して……」というような話を聞いたことがある。 40分程で車は片瀬邸に着いた。二間半曳き家したという落ち着いたファサードを眺める。なるほど、いい佇まいである。しばらくして、隣地境の路地のような道を海に向かって歩いていく。庭から新築部分(離れ)の南面ファサードを見ていると、家の中からおばあさんがにこやかな挨拶を投げかけてくれる。 この家は施主家族と石田さんが約1年をかけて何度も練り上げたプランだったというが、実は結局、改修前のプランに近いものになったという。要するに昔の家のプランの良さをみんなで検証する作業だったのだろう。 片瀬邸は大別すれば曳き家後改修部分と解体後増築部分になるのだが、三和土風なモルタルの土間空間が新旧の建物を結んで違和感なく見事に馴染ませている。そして3世代が中庭を囲んでほどよい隔たりの中で日常の暮らしを営んでいるのである。 私は常々「まちと建築を再生する」ためには、身近な歴史的建物の再生は欠かせない要素だと思っている。これからの時代を担うべき存在だとひそかに確信している。 そして何より、人が家を大切に住み継いでゆくこと、それを実際の生活の中で心地よく実践していくことは人間本来の智恵を長く受け継ぐための尊い行為だとも考えている。 昨日新しかったことが、今日はもう古いとされる。先に走るモノを、はあはあと追いかける。成長が暴力的に強制され、狂気と化して走り続ける現代の中で、人が住むという源と先人たちの誠実で確かな技能をもう一度みんなで時間をかけて見つめ直し、新しい時代のほんとうの目的地を見いだすことは、まさにこれからの緊急な課題である。 (すずききいち/建築家)
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