神楽坂建築塾修了制作展 論文

山手・関内地区の近代建築の
保存・再生・活用について

南雲 ゆか(神奈川県)


 

 山手・関内地区の近代建築の保存・再生・活用の現状と問題点について、今現在の自分の目線から、
  日頃気になっていた事柄や、この論文作成のため歩いてみた山手・関内地区の様子などをまとめてみました。

1章 山手・関内地区の近代建築

 1.山手地区の洋館
 安政6年(1859)に横浜は開港され、急ピッチで建設工事が行われた。建設工事の増 大とともに、横浜に来る外国人建築家・技術者の数も急増し、また交易の為に外国人商人も多くやって来た。これらの外国人は、山手の緑の多い恵まれた環境が、住宅地としてふさわしい条件を揃えているとして、この地区に住宅を建てるようになった。現在も山手地区には、旧居留地の骨格がそのまま残されている。現存している洋館のほとんどは、大正12年(1923)の関東大震災後に建てられたものである。この時代は、近代主義や機能主義の建築を指向していたので、神戸や長崎の西洋館がもっていた様式偏重の傾向より、合理主義的なスタイルのものが多く建てられた。
 山手地区の特色は、ミッション系学校などの文教施設が集まり、教会や塔屋の象徴的景観、ゆとりある敷地と緑と洋館などによって豊かな雰囲気のある空間を持っていることである。そして、W.M.ヴォーリズ設計の横浜共立学園本校舎、J.J.スワガーのカトリック山手教会聖堂、J.H.モーガンのセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールのベーリックホール,横浜山手聖公会,山手111番館、A.レーモンドのエリスマン邸など外国人建築家の手によるものが残されている。
 昭和47年(1972)には、山手地区の眺望あるいは、景観が中高層マンションによって破壊されることを防止しようと、”山手地区景観風致保全要綱”が制定され、新しく建てられる建築物については、周辺の環境にも調和するようなデザイン調整が進められた。
 現在、港の見える丘公園にはイギリス館、山手111番館、元町公園にはエリスマン邸、山手234番館、山手イタリア山庭園にはブラフ18番館、外交官の家が保存、 公開され市民に利用されている。

2.関内地区の代表的な近代建築
 関内地区の近代建築といってまず思い浮かべるのは、「キング」「クイーン」「ジャック」と名の付く塔がある3つの建物だろう。喜ばしいことに、まだどれも現役である。 
 「キング」は神奈川県庁本庁舎で、大正15年、公募により当選した小尾嘉郎の案をもとに県庁舎建築事務所で設計され、昭和3年に竣工(1928)した。外観は石張りの地下と1階、スクラッチタイル張りの2〜4階、5階はコーニスで一度区切られ上部がやや引っ込んでいるという、クラシックの様式建築に通例の三層構成となっている大変重厚で存在感のある建物である。
 「クイーン」は横浜税関で、大蔵省営繕管財局の設計により昭和9年(1934)に建てられた。外観はスペインのイスラム建築の意匠であるムーリッシュ,ロマネスク,クラシック,を混ぜ合わせたような意匠であり、イスラム寺院風のエキゾチックなドームをもつ塔がある。この建物を海側から見ると、左右対称になった建物の中央に塔が立ち、海に正面を向けていることがわかる。横浜税関は何度か取り壊しの噂が流れているが、建物の所有権は国側にあるので、市としては手をこまねいているようである。
 「ジャック」は横浜市開港記念会館で、開港50周年を記念して市民の寄付によって建てられた。設計は公開競技設計により一等当選した福田重義の案をもとに市の営繕組織が担当し、2年9ヶ月かけて大正6年(1917)に竣工した。フリー・クラシックスタイルで、白い花崗岩 と赤い煉瓦のコントラストが華麗である。関東大震災でドームや屋根が壊れ、内部も焼失した。昭和2年に復旧されたが、屋根は簡略化された陸屋根だった。平成元年(1989)、ドームや屋根が創建当時の姿に復元され、 国の重要文化財に指定された。平成11年6月に1階の正面玄関から2階に続く階段の天井の一部が崩れ落ち、現在修復工事中である。横浜で最も愛されている建物の一つである。 
 ドームを持つ建物で忘れてはならないのは、神奈川県立歴史博物館である。この建物は旧横浜正金銀行本店で、明治32年に妻木頼黄の設計で5年の工期を要して37年(1904)に竣工した。本格的な石造建築で、ルスティカ積みの地下、コリント式大オーダーのピラスター、大きな三角ペディメント、ドームといった構成で、凹凸も激しく力強いダイナミックな造形である。ドームは震災で焼け落ちたが、昭和41年(1966)に復元された。42年に博物館として再活用され、44年には国の重要文化財となった。
 横浜を代表する近代建築は他に、横浜海岸教会、横浜開港資料館旧館がある。横浜海岸教会は、雪野元吉の設計で昭和8年(1933)に建てられた。高い塔や三葉形アーチを頭にもつ極端に細長い窓など、プロポーションはゴシックである。横浜開港資料館は、昭和6年(1931)にイギリス領事館として建てられた。昭和54年に横浜市が買い取り改装され、56年に開港資料館となった。建物のデザインの中心は、玄関まわりにある。独立して立つ大きな2本のコリント式円柱、弓形の一部が切れたイギリスバロックとも呼ぶべきダイナミックな造形をしている。この横浜開港資料館の南側にあったロータリ交差点は集約化され、開港広場として整備されたことにより、隣接する海岸教会の美しい外観がみられ、歩行者にも便宜が図られるようになった。
 そして忘れてならないのは、赤煉瓦倉庫こと横浜港新港ふ頭煉瓦倉庫である。妻木頼黄の率いる大蔵省臨時建築部が設計し、1号は大正2年(1913)、2号は明治44年(1911)に竣工した。日本の代表的な煉瓦造建築の一つである。港の近代化とともに役割を終えた倉庫はそのまま残され、平成6年から2年かけて保存工事が行われた。そして平成8年には、公園として整備された赤れんがパークが公開されたが、赤煉瓦倉庫自体の活用はまだ未定なので、倉庫の内部に入ることは今のところ出来ない。

3.銀行建築
 関内地区には、銀行建築が多く残されている。神奈川県立博物館は横浜正金銀行、警友病院別館は露亜銀行、日本火災横浜ビルは川崎銀行であった。本町通り沿いには、 さくら銀行のイオニア式の円柱、東京三菱銀行の同じイオニア式の大オーダー、富士銀行のトスカナ式のオーダーの付柱、横浜銀行のバルコニー部分のトスカナ式の円柱とみごとな古典主義様式の銀行建築が続いている。そして、この通り沿いに横浜銀行集会所もある。他の銀行建築とは違い、シックなデザインをしている。ポーチは水平の庇を一本の支柱で支える斬新なもので、柱形の頂部や上壁部の中央及び左右端などに配されたテラコッタの装飾が印象的である。
 嬉しいことに今でも現役なのは、さくら銀行(旧三井銀行),富士銀行(旧安田銀行)の横浜支店である。富士銀行の近くに東京三菱銀行(旧第百銀行)がある。ここは三菱銀行と東京銀行とが合併した際、交差点を挟んで目と鼻の先にもう1店舗出来てしまい、その後もしばらくは営業していたが、結局閉鎖されてしまった。現在も、鉄の扉が固く閉ざされたまま建っている。さくら,富士,東京三菱の三行の中に入ったことがあるが、どこも非常に天井が高く、歴史の重みを感じられる空間である。銀行という場所柄ゆえ、キョロキョロしたり長時間居ることが出来ず、この雰囲気を十分堪能できないまま出なくてはならないのが残念である。とにかく、昭和初期の銀行のスタイルのまま内部が残され、その中に一般の人が入れるというのは、大変貴重なことに思う。
 東京三菱銀行の行く末が気ががりでならないが、私個人の希望としては、他の銀行の支店として復活するか、創業当時に再現し銀行博物館のようなものになって欲しい。この建物が壊されることのないよう、つまらない使われ方をしないよう願わずにはいられない。また、警友病院別館として使われていた旧露亜銀行も、警友病院の移転に伴い、現在は空きビルとなっている。この建物もだいぶ傷んでいるので、取り壊されたらどうしようとやきもきしているのは私だけでは無いと思う。すでに壊されてしまった横浜銀行(旧第一銀行)は、平成7年に一部移築復元のため解体され、現在はバルコニーのある半円プラン部分のみ工事現場の中に残されている。
 このように関内地区には、手を加えられたり別の施設になっていても、実に7棟もの銀行建築が残されている。これは本当に凄いことだと思う。


2章 横浜市の取り組み

 1.都市デザイン
 昭和46年(1971)、横浜市企画調整局に都市デザインの担当セクションが設置され、57年以降都市計画局に移り、計画指導部都市デザイン室となった。横浜の都市デザイン活動は、横浜のシンボルともいえる歴史ある都心、関内地区の復活を目指した活性化策としての役割を持ち、初期の10年間はこの地区を集中的に活動した。 その後は、周辺にもその活動を広げていき、その活動目標が6つ掲げられた。そのうちの一つに、「地域の歴史的遺産を大切にし、文化的遺産を豊かにする」とある。この都市デザイン活動の取り組み方は、まずそれぞれの地域の地理的・歴史的・文化的遺産を発見する。次にこういった資産を生かしたそれぞれの地域のデザイン目標や原則を構築する。そして、デザイン目標や原則に沿って行政各部局間、あるいは市民の方々、企業の方々と密接な関係を持って総合的に街づくりを進める、ということである。
 昭和63年(1988)、歴史的資産が取り壊される件数が増えたため、保存のための取り組みも積極的に進めていくことが望まれ、”歴史を生かしたまちづくり要綱” が発足された。これは市が歴史的な資産を大切にしていくとともに、所有者の方々の保全の努力に対し、助成などの支援をしていこうというものである。特に重要な価値のあるものを”横浜市認定歴史的建造物”として認定している。この第一号は、あの日本火災横浜ビルである。この制度と同時に”横浜市文化財保護条例”が施工された。 近代建築の第一号指定となったのは、横浜共立学園本校舎である。
 これらの制度発足を機に、歴史的資産や都市デザインに関するセミナーの開催や、情報誌「歴史を生かしたまちづくり横濱新聞」や、都市の記憶シリーズとして近代建築などの写真集を発行している。平成4年に”ヨコハマ都市デザインフォーラム国際会議”が行われ、都市の意味、都市のデザインの意義や都市との関係、公民の協力、市民参加のあり方、横浜の今後などが議論された。平成10年には2回目の会議が行われ、まちづくりに歴史的資産を生かす視点でも議論がされた。また、歴史的建造物を中心とした夜景の演出”ライトアップヨコハマ”も行われ、関内の歴史性を継承しながら、歩行者にとっての魅力ある都市づくりを展開している。このように市は、近代建築は都市の貴重な資産であり、それをどう都市デザインに取り入れていくかという捉え方をしているようである。

 2.日本火災横浜ビル
 日本火災横浜ビルは、川崎銀行横浜支店として矢部又吉が設計し、大正11年(1922)に竣工した。ドイツルネッサンス風の重厚な外観を持ち、隣接する県立博物館と相まって独特の景観を形づくっていた。この建物が取り壊されることになったのは、昭和61年のことだった。ビルの建て替えをするにあたって、多くの人の知恵と努力と施主の英断により、ファサード保存を行うことになった。昭和62年より行われた改修工事では、組積造外壁を一旦解体撤去し、外装石材を新ビルに張り直し、馬車道及び弁天通り側の二面のファサードを保全した。そして平成元年(1989)、総ガラス張りの高層ビルの腰部にルスティカ積みの石のスカートをはかせた格好のビルが出来上がったのである。ファサードを継承しつつ、高地価に耐える床面積を増加するデザインの結果なのだろう。この建物は、完成以来各方面から注目を集め、保存手法や街並景観への理解が評価を受け、第4回まちづくり功労賞、日本建築学会文化賞、建設大臣功労者表彰などを受賞した。
 この時代の近代建築は、使われ続けるか、従来の保存をされるか、壊されるかの運命にあったと思う。だから建物を全て残すということをあきらめて、その外観だけでも残そうというファサード保存は、確かに画期的であっただろう。「横浜の歴史的な資産を現代にいかに蘇生させて有効利用を図った良い例で、馬車道のランドマークという位置づけをして、観光の名所となりつつある」という意見もあるが、大方の意見は違うように思う。私はこの生まれ変わった真新しいビルを初めて見た時のことを、はっきり覚えている。石積みの部分は真っ白で、上部はブルーのミラーガラス、そのコントラストが何とも言えずおもちゃっぽく感じられた。なんだか違和感があって、ちょっと異様なものを見てしまった気分であった。現在、石積み部分が風雨にさらされだいぶ落ち着いてきたものの、私の目には未だに回りの風景と馴染んでないように思える。この辺りを歩くと、よく博物館をスケッチする人を見かけるが、この建物を描きたい思う人は、どの位いるのだろうかとつい思ってしまう。このファサードを残すために、多くの人が努力したはずなのに、いまひとつ愛されていないことを淋しく思う。

3.歴史を生かしたまちづくり要綱
 昭和63年、歴史を生かしたまちづくり要綱が発足されて以来、横浜市認定歴史的建造物は、平成11年までに37件となった。
 平成元年にこの要綱に基づいて内外とも改装された横浜指路教会は、大正15年の創建時に近づくような形に修復された。同年横浜海岸教会も認定され、美しい外観全体を守るため、隣接する開港広場と道路に面した外壁二面を中心として、現況のまま保全していくことになった。カトリック山手教会聖堂、横浜山手聖公会も歴史的建造物に認定されている。これらの教会建築物や山手の洋館は、ほぼそのままの姿で大切に保全され、今も大切に使われている。
 しかし、認定された近代建築が全てこのように、創建当時の姿のままで保存再生されているわけではない。平成2年、歴史的建造物に認定された横浜第2合同庁舎は、生糸検査所として遠藤於菟の設計で、大正15年(1926)に竣工した。赤タイル張りの大オーダーの柱形が、リズミカルに並んでいるのが印象的な建物である。この建物は耐震耐久性に問題があるとし、平成2年に一旦取り壊された。そして出来る限り創建当時の状態に復元し、新築、再生が図られ、地上96m、23階建ての高層棟とそれを囲む低層棟で構成されたビルが、平成5年(1993)に竣工した。この低層部分が生糸検査所を復元したもので、解体時にはすでに焼失していた遠藤式ルネッサンスの特徴を示す要素の一つである柱頭飾りが往時の姿に再現された。この建物は、構造体を含めた保存を断念し、景観的観点を重視した”再現保存”されたのである。
 平成5年に認定された綜通ビルは、旧本町旭ビルのファサードを保全活用して新たに建設されたもので、平成7年(1995)に竣工した。旧本町旭ビルは、鉄筋コンクリート造の表面にテラコッタを張った典型的な昭和初期のオフィスビルで、このファサードを独立の壁体として保全する手法が取られた。ビル解体時に、ファサードのタイルを一枚一枚全て打診し保存部位を確定し、復元タイルとあわせて活用したという。実際に綜通ビルに行ってみると、旧本町旭ビルのファサードが衝立のように建っていて、その少し後方に新しいビルが建てられていた。近代建築のお面を着けたビルといった感じであった。
 平成11年には、旧横浜商工奨励館と旧横浜地方裁判所が認定された。旧横浜商工奨励館は昭和4年(1929)に横浜市建築課によって建てられた。クラシックな骨格にアール・デコ風の意匠がみられる建物である。昭和52年からほぼ空きビルの状態になっていたので、行く末を気にしていたところ、その後ろにある昭和4年に建てられた横浜市外電話局と繋がり、日本大通りに面した建物の主要部分を残し、新たに建築する高層棟を増築し、横浜市情報文化センター(仮称)として平成12年に完成するという。旧横浜商工奨励館の隣にある三井物産横浜ビルも、これらに合わせてファサード保存の工事中である。ここの入口部分はすでに使われていたのだが、鉄の扉風の真新しい自動ドアには違和感を持った。雰囲気を出したいということからだろうが、何か違うのではと思わずにいられなかった。日本大通りを挟んで向かい側にある旧横浜地方裁判所は、昭和4年に大蔵省営繕管財局によって建てられた戦前横浜の官庁建築の代表で、左右対称の日の字形のプラン、スクラッチタイル張りの外壁を持つ堂々とした存在感のある建物であった。現在全て取り壊されている。横浜地方・簡易裁判所として外壁三面が忠実に復元され、後方に高層棟を持つビルに建て替えられるのだ。この横浜地方裁判所も含めてすべてが完成したとき、この通りは果たして歴史を感じられる通りになるのだろうかと疑問に思った。”歴史を生かしたまちづくり要綱”の主旨は「歴史的建造物の外観などの保存や活用により、横浜の景観の継承を図る」というものである。そういう意味では、これらの近代建築の扱い方は、この要綱に沿ったものと言えるだろう。そしてもしこの要綱がなければ、これらの近代建築は完全に壊され、何処にでもあるようなビルになってしまったかもしれない。しかし、それでも本当にこの方法しかなかったのか、これで良かったのか、雰囲気だけでも残ればよしとするべきなのか考えてしまう。保存し活用することは、必ずしもその建物にとって良い状態を保つものではないのだと思った。


3章 山手234番館

1.アパートメントハウス
 登録歴史的建造物の山手234番館は、昭和2年(1927)に山手に建てられた横浜でも数少ない外国人向けの民間集合住宅で、当初は商社に務める単身の外国人などが住んでいたと思われる。この建物は4住戸からなる木造2階建で、正面中央部に4つのドアを持つ主入口があり、その周りは二連の円柱を建てた意匠で飾られ、この玄関ポーチを挟んで、同形の住戸が対称的に向かい合い、上下左右に重なる構成になっていた。また、向かって右隣の山手89番館(えの木てい)と、開口部や煙突の形状など意匠上の共通点が多い。
 このアパートメントハウスを横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得したのは、平成元年だった。その後、10年近く放置されていた。私は閉鎖されていたこの建物の前を通るたび、ここがどんな風になるのか、中はどうなっているのか、とても興味を持って見ていた。

2.平成8年度まちづくりアドバイザー
 平成8年度まちづくりアドバイザー活動のテーマは”古民家洋館保存と活用ーいかにして守り活用するか”というものであった。活用例現状把握のために、古民家、洋館を見学する際、改修前の234番館も見学し、アドバイザーメンバーは、「この貴重な建物を保存し活用したい」との思いを強くしたとという。この活動のグループ提案の中にも、234番館の具体的な活用案が盛り込まれ行政側へ提出された。その内容は、古民家・洋館の保存する必要性と現状、そして保存・活用の課題を提示した上で、「市民」「所有者」「行政」を結ぶネットワークセンターの設置を提案している。そして234番館に、このネットワークセンターや各洋館を結ぶ総合案内所の機能を持たせ、かつ洋館の雰囲気を満喫し、昭和初期のアパートの生活を体験出来るような空間にしたいというものであった。

3.平成9年度洋館活用検討会
 平成9年に洋館活用検討会[プログラム234]が、中区広報で公募された市民も参加して行われた。この活用検討会は、都市デザイン室が進めている234番館改修計画を前提に、234番館の活用案を提案するというものであった。その内容は、古くから山手に残されている貴重な洋館を「その洋館の歴史を踏まえ、洋館を生かしながらこのように活用したい」という夢のある方針をまず話し合うのではなく、どんな建物になるか具体的にはわからないまま「これから整備されるある建物」の「使い方」 のアイデアを出し合うという検討会だったという。そして、都市デザイン室からの234番館改修工事の説明内容は、図面配布とともにごく簡単に”建物の補強工事にお金がかかり、内装は「新しい材料」でつくりました”ということであった。実際工事が終わってみると、プランも含め内装の仕上げ、形状とも以前の姿をとどめるものは、 ほとんどなかったという。

4.平成10年度234番館実験活用
 平成10年、中区主催で7月から9月まで234番館を暫定オープンして、実験的に活用してみるという[アクションリサーチ234]が進められた。公開にあたり、洋館の特徴をすべて取り払われた空間を、少しでも洋館らしい雰囲気の部屋にして、来館者に楽しんでもらいたいというスタッフの思いがあった。そこで唯一フローリングの部屋に「当時の暮らし」を再現出来ないかと、市民に協力を求めその時代の家具や調度品を集め、展示することになった。
 公開中に私も行ってみたが、その変わってしまった姿に大変失望した。アパートだったのだから、どういう風に4戸に分かれていて、個室が何個あって、キッチンやバスはどんな感じだったのだろうと思っても、見ているだけでは中はどの部屋も同じ表情だし、どこに何があったかの面影も表示もないのでさっぱり分からなかった。ただフローリングの部屋だけ、ここには居間があったのかなと思える空間になっていて、すこしほっとした。 
 この建物の改修にあたって、中央2カ所の入口からそれぞれ2階まで一直線に伸びていた急勾配の階段を勾配の緩やかな折り返し階段にし、2階の一部をギャラリーに使える一般的なスペースにしたという。改修前の間取りと比べてみると、壁がかなり壊され、キッチンが無くなり、バスがトイレになっていて、1戸の単位で見ることは難しくなったように感じた。この234番館の最大の特徴で最大の価値は、昭和初期に建てられた外国人向けのアパートだったというところにあったはずなのに、どうしてこんなに何もかも取り払われてしまったのだろうか、何故一戸分だけでも当時のアパートの暮らしぶりが分かるように残せなかったのだろうか、このことが残念で仕方なかった。234番館を出た時、この建物は死んでしまったような気がした。

5.現在
 平成11年7月、本格的に山手234番館はオープンした。2階のギャラリー、レクチャールームなど貸し出しスペースは市民に人気があり、よく利用されているようである。このことは、良かったと思える唯一のことかもしれない。
 今年になって再び行ってみたが、その味気なさに淋しい思いがした。この建物を洋館と呼んでいいのだろうか、何のために10年近くも保存されていたのか・・・と思う。ここを訪れた人の中にも、何故洋館らしさがほとんど残っていないのかという意見があり、小学生も古いところがない、中が明るすぎるといった感想を持ったと聞く。また、ここがアパートだったということにも気づかず、外国人の家だから大きいのだと思う人すらいるらしい。私はそう思っても無理のないことだと思う。ただ同じ内装の小さな部屋と同じドアが一杯あり、何だか迷路のような空間になってしまっているのだから。
 この建物は、昭和27年に写された写真を元に復元された。改修作業が全て終わった後、市の方から創建当時の写真が出てきたという。それにはベランダもテラスも、復元された列柱も無かった。本来の姿を知って欲しいということで、234番館のリーフレットにはこの写真が載せられている。
 この234番館を活用するにあたって、平成8年にはまちづくりアドバイザーから 意見を出してもらい、9年の検討会には全体の1/5程度とはいえ、234番館を魅力的なものにしたいと考えていた市民が参加したにもかかわらず、その意見がほとんど行政に届かなかったことが、残念でならない。何故こんなにも中途半端な建物にしてしまったのか不思議にさえ思う。


4章 山手・関内地区の現状

1.山手地区の現状
 神戸の北野地区のような観光地化はされず、住宅地としての好ましい条件を保持する山手地区だが、現存する洋館は54棟になってしまったそうである。これ以上減ると、まちなみとして保てないところにまで来てしまった。洋館は所有権が個人にあるので、地区全体を保存していくのは難しいものがある。しかし、各地で起きているまちなみ保存のような運動が、この山手地区にも広がれば、少しでも減少に歯止めがかけられるのではないかと思う。残念なことにそのような動きはみられることなく、自分の家である洋館を大切に住まう方たちのみで守っているのが現状である。ここがただのお金持ち住宅になってしまう日は、近いのだろうか。

2.関内地区の現状
 近年、企業などが桜木町、横浜方面へ移転するようになったため、関内地区に空地が目立つようになり、活気が無くなっている。今年2月、市から出版された「横浜の近代建築(1)」に載っているこの地区の近代建築が、どの位残されているか実際に歩いてみた。行ってみた52棟の建物のうち、この本に載せられた当時の状態からみて、消失してしまったものが7棟、まるで違う雰囲気になってしまったもの1棟、イメージ保存されたと思うもの2棟、現在閉鎖されているもの3棟、何らかの保存のために壊されているもの又工事中のもの6棟であった。この本に掲載された時点で、すでに3棟が何らかの保存がされ、創建時と異なっているので、52棟のうち22棟は、姿を変えたり閉鎖、消失されたということになる。そうであっても、関内地区は歴史があり、その生き証人とも言うべき近代建築がまだ残されている。それにもかかわらず、この地区の全体的なイメージ,顔といったものが無いなと、歩いていて感じた。これは点の保存をしてきた結果であろう。
 点から面へ展開していこうとする動きはあるようだ。平成10年に「関内の魅力倍増、まちづくり100の提案つくります」というプレフォーラムが開催され、市民も参加し資料づくりが行われた。また、まちづくりや歴史的資産に対する市民の関心も少しづつ高まってきている。横浜の行政側も、市民参加の都市デザインを内外にアピールしている。こういう活動を通しての市民の声が、どの程度反映されるのだろうか。 行政側のポーズで終わらせないで欲しいと思った。

3.私が感じた問題点
 近代建築は国・県・市・民間・個人とその所有が様々で、それぞれの意向がある為、保存・再生・活用は簡単に行えるものではないのが現実である。横浜市は近代建築を資産と考え積極的に保存・再生・活用し、それなりの効果が上がっている。しかしそれは、経済最優先の保存ではないだろうかと思う。近年のファサード保存や再現保存などの方法は、内部空間はおざなりにし、景観のみを考慮したものである。建物の外観さえ守れば、保存・活用の問題が解決するという傾向にあるように思える。それでは、保存していく本当の意味を見失ってしまうのではないだろうかと危機感を覚える。
 近代建築を生き生きした状態で残して行くためには、保存の問題を広く市民にも関心を持って貰うことも大切である。そのためにも、まちづくりや近代建築を含む歴史的資産の保存・再生・活用に関することに対応できる独立した窓口があり、市民も気軽に相談、問い合わせが出来るような環境が必要だと思う。そして、近代建築を心から大切に思っている市民の保存のあり方を含めた意見を、拾い上げ検討し活用できる体制が欲しいと思った。


●参考書籍類

 「都市の歴史とまちづくり」 大河直躬著 学芸出版

 「都市のクオリティ ヨコハマ都市デザインフォーラム

            国際会議 1992 公式記録」 横浜市

 「都市の記憶 横浜の近代建築(1)」 横浜市

 「都市の記憶 横浜の近代建築(2)」 横浜市 

 「歴史を生かしたまちづくり 横濱新聞」 横浜市  

 

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