神楽坂建築塾修了制作展 論文

日本の暮らしと建築と

小楠 菜穂子(東京都)


 

はじめに

 どんなものに興味をもつかで、その人間の美意識の方向がわかる。私の場合、幼い頃より、古いもの、日本的なものが好きだった。なぜなのかはわからないがずっと興味をもちつづけ、また、なぜ自分が興味をもつのかを折にふれて考えてきた。建築塾に参加する気になったのも、そうした自分の基本的な関心とかかわるところがあるだろうという期待があったからだ。「建築」そのものについては、こちらはあくまで受け手であり、なにかを生みだすことはできないが、十ヶ月の座学とフィールドワークをとおして、受け手なりに考える機会を与えてもらった。つれづれながら、そんな考えをまとめてみたい。


暮らしたかった昔の日本

 これは本郷信楽町に住んでゐた頃の話である。当時は帝大の前を電車が走つてゐたと書いても電車も帝大も戦後まであることはあつたのだからそれだけでは時代を示したことにはならない。それならば日本で戦前とか戦後だとか言ふやうなことになるとは誰も思つてゐなかつた時代といふことにして置かうか。兔に角帝大と電車が出たのだからこれが文久三年と言つた大昔でないこと位は解る筈である。どうもその頃はその電車が通つていゐる道も砂利道だつたやうな気がする。
   (中略)
 砂利が敷かれたばかりとだだの泥道の中間位が砂利道の見どころである。その辺ならば道は一応平たくなつてゐて歩き易くてその上を懐手をして行けば天気の日にはまだ土から頭を出してゐる砂利の灰色が土の茶色とこっちの眼に馴染みの配合をなし、それが雨の日か雨上がりならば砂利も泥も妙な具合に光つて雨の道の概念を完成する。もしその辺の当時は勿論木の電信柱に自転車が立て掛けてあつたりすればそれで文句なしに雨の日の東京といふものが出来上つて筆太に書いた下駄屋の立て看板とともにここは東京だといふ思ひに人を誘わずにゐなかつた。それは夜泣き蕎麦の笛の音や羅宇屋の汽笛や晴れた日に空を舞ふ鳶と同様に東京の一部をなしてゐたので人口が何百万だとか東京市がいつの間にか東の京都に変つたとかいふ泡沫の現象と違つてかういふものが東京であり、その為に東京が東京といふ町だつたのでその空を舞ふ鳶がゐなくなつたのならばその代りになるものが出来ない限り今の東京は東京でもなければどこの町と呼べる程のものでさへもない。 

                         吉田健一『東京の昔』より

 上記に引用した小説を読んだのは自分が二十代前半のころ、そして時代は八十年代中頃だった。昭和のごく初期の設定であるらしいこの小説には、建築のことはあまり出てこないが、主人公(独身)が住んでいたのが貸間で、また、当時はたいていの人が貸間や貸家に住んでいた、ということははっきり書いてある。その下宿住まいの主人公とそのまわりの人間の交流は、淡々としていながら、生活の喜びにあふれている。どんな場所で飲み食いしたかについてかなり細かい描写があるが、飲み食いの内容や場所にこだわるのはグルメでもいじきたなさでもなく、生活を大切にしていることのあらわれであると思う。この小説の中では、町は人間の生活のためにあるということが強く感じられた。それがほんとうに昭和初期の東京の姿だったのかはわからない。しかし、そんなに大昔でない時代に日本人がこんなに豊かな生活をしていた時期があった(らしい)ということは、日本好き古いもの好きの自分にとっては、たいへん心強く感じられ、しばらくの間、この小説は私の理想の生活を表したお手本となっていた。
 この小説を読んだからばかりではないが、その頃(今も)都内のいろいろな町をよくうろついていた。町歩きをしていておもしろいのは、ほんの横丁ひとつ越えただけで、ちがう町があらわれることだ。同じ牛込の地域でも、ここまではお屋敷町、ここから先はちょっと庶民的な商店街…といった具合で、町の様相が変わるのがみてとれる。「晴れた日に空を舞ふ鳶」にあたるものも、見つけられそうな町もある。そのように表情のある町を構成しているものはなんだろうか。


タイムマシンと町づくり

 いつ頃か忘れたが家族旅行で木曾へ行ったことがある。木曾には江戸時代そのままの町並が残っていると何かで知って、連れていってもらった。今考えるに、これは疑似タイムマシン経験をしたかったからではないかと思う。たとえば教科書に「江戸時代の人はこれこれの家に住んでいてこんなふうに生活していました。」と書いてあっても、それではただのお話である。でも実際に江戸時代の現物を見たり触ったりできるなんて!タイムマシンで江戸時代にでかけるのと同じではないか。
 以上はこどもの時の話だが、大人になった今でも町歩きをしていて、古い建築物(家)があると、「そこにほんとうの昔が!」とドキッとする。生きている、まだ現役でいる古い建物は、町並みの中でも浮き上がってみえる。外見上異なっているせいばかりではない。最近建てられた最近のメーカー製の家は、現在の住人だけのために存在している。古い家は何世代か、何世帯かの住人のために、存在しつづけてきた。その家の経験してきた時間の厚みが違うということだ。
 子どもにとって、また、多くの大人の日本人にとっても、「昔」というものは今とても遠い存在になっていると思う。かつては「昔」をしのぶよすがが今よりあった。家族の中に年寄りがいてかつ尊敬されていれば年寄りの昔話を聞くチャンスも多かったろう。なにより、何代も住んできた家があった。そういった環境にいれば過去とのつながりは自然に感得できていたことだろう。タイムマシンなどは不要だったのだ。


「昔」のきびしさ ―民家について―「昔」のきびしさ ―民家について―

 大橋富夫氏の写真は衝撃的だった。あのような美を目前にする機会は、今後おそらくまれだろう。自然の力に対し人間が素手と素手で作った道具とでもってつくしてつくりあげたスタイルは、その土地と時代に固有のものであり、使われている自然素材の種類の豊かさも含め再現することは不可能だと思われる。厳しい自然環境と社会情勢の中、もてる力と知恵を出し尽くしつくりあげた自分たちの家を、当時の人々はどう見ていただろう。現代人のように、自分の好みで見かけを選んだわけではない。それでも、たとえば雨仕舞のためにさまざまな素材を使って工夫がこらされている萱葺き屋根の棟部分には、単に必要や必然からだけでうまれたとは思えない造形美がある。あれらの家に住んだ人たちは、どんなに生活がきびしくても、美を感じたときがあったと私は信じる。「こうして薪で火をおこしている時間だけが唯一私が座っていられる時間なんです」と言ったという一九五〇年代の農家の主婦も、かまどで火の世話をやきながら、ふとみあげた我が家の天井の梁材をつくづくみつめ、その形や風合いを無意識のうちに鑑賞することもあったと思う。また、民家園で実物をみた「押板」は、最低限の衣食住目的ではなく、そもそもが「飾る」とい---うことが目的の場所である。つましい生活の中でも美をみいだそうとしたのだ。ノスタルジックでない、生活の厳しい「本当の昔」にも、そのときだけの必然の美があり、日本人の心に、その特有の美はひきつがれてきたはずだ。


少し前の「今」から学ぶー三島由紀夫の家

 こんどは「今」について考えてみる。「今」がいつからとするかについては、ここでは、人々が自分のうまれた場所から抜け出すチャンスをつかんだ時代以降、ということにしておく。どこに住むか、どんな家に住むか、選べる時代といってもいい。
 『東京の昔』の時代は、昭和初年と思われるが、まさに気軽に住む場所を選べた時代だったのだろう。私事になるが、ちょうどその時代と思われる頃東京に住んでいた祖父は、夏だから海辺に住みたいと思い、後輩にたのんで物件をさがさせ、一夏だけ鎌倉に住んだことがあったそうである。生活の中で季節を楽しむことを容易に実行していたわけで、うらやましいような話である。ここで、付録の「登録文化財架空申請書」でとりあげた、三島由紀夫の家についてコメントしておく。
 三島由紀夫は日本を代表する文学者である。死後三十年ほど経った今では、文学や文化に興味のない大多数の日本人にとっては、ハラキリをした人でしかないかもしれない。それすら知らなくて名前だけしかきいたことのない人もいるかもしれない。しかし、「日本」というテーマを考えるにあたっては、いろいろなヒントを与えてくれる人物であり、一部の文学ファンにまかせておくには惜しいと思う。そのヒントの一端が、彼が建てた自邸にあらわれている。
 幼い頃から歌舞伎にしたしみ、日本の古典文化にも造詣深かった三島が建てた家は、きわめて西洋的な様式にのっとったものだった。往時の写真をみると、靴をはいて応接間でダンスパーティーをしている。作家仲間や俳優や画家などを招いてのクリスマスパーティも恒例だったそうだ。絵に描いたような「西洋式」生活である。なぜここまで徹底したのか?こんな三島の姿勢は、「近代化」をはたすため、西洋近代建築に真剣に取り組んだ明治の人を思いおこさせる。しかし、三島が「西洋式」を選んだのは、明治時代人のような西洋コンプレックスからだけではないと思う。日本伝統文化とひとくちにいってもその内容はさまざまだ。三島は、「日本のすべての伝統に興味があったわけではなく、無視した部分が非常に多い。絵画、彫刻、陶器、茶の湯、華道、日本庭園―。要するに川端康成氏が好きなものがみんな嫌い」(Dキーン氏による)だったそうだ。川端的伝統にしたがうなら、茶室のある純和風の家をたてればよい。しかし昭和三十四年当時、そんな三島の志向にそったタイプの日本建築様式というものはなく、ならばいっそというので本人の言によれば「ヴィクトリアン王朝風のコロニアル様式」というものを選んだのではないか。いずれにしても、自身と「日本」の距離を考えた上で、美意識をもっての選択だったのに違いない。


現在の選択―「買う」家ではないもの

 もっと最近の「今」、現在の私達が美意識をもって選択するとどうなるだろうか。民家がうまれた時代、最大のしばりとなったのは圧倒的な自然の力だった。素材といい手段といい必然的にきまってきた。
 現在、ただ家をたてるのなら住宅メーカーのカタログから選択するだけである。商品として「買う」だけだ。どんなタイプでも(欠陥住宅でさえなければ)住めるのであって、住み手がなにか工夫をしたりする必要はない。
 「買う」家は消費される。消費のためにつくられているので、素材は工業製品だ。大量につくれてコスト計算が容易なもの。外見的な様式も、数年単位でかわる不思議な無国籍風で純日本式でもなければ西洋式でもない。こういった住宅がつくられてはこわされる。こわされた家は産業廃棄物となって地球環境悪化の一因となる。―しかし、このことこそが、現在におけるしばりになるのではないだろうか。
 とはいえ、エコロジー運動がはじまってある程度たった現在でも、かつて古民家の時代に人々が自然の猛威を感じていたようには危機感の共有はされていない。つまり企業はまだまだ大量消費でイケルと思っており、コストや金利以外に事業をしばるものはないと思っているのだ。しかし、そんな企業からただ「買って」いるだけで、住み手はしあわせだろうか。


温故知新は少し前の「今」を参考に

 現在、少しでも生活における美に意識的な人ならば、最低限、住宅メーカーのカタログは避けたいと思うだろう。ではたとえば建築家に依頼するとして、いったいどのような内容で依頼すればいいのか?つまり、自分で住みたい家とはどんなものなのか?それを自覚している人は少ないと思う。三島のように思いきってひとつのスタイルを選択することもむずかしい(それに、ほんとうにあの家で彼が落ち着いていたかどうかはわからない)。機能や便宜を選ぶ時ですら、実際は、メディアから受身で与えられた、「必要なはず」「あると便利なはず」だがほんとうはその人にはいらないもの、も含まれている可能性がおおいにある。
 そこで、温故知新である。といっても「ほんとうの昔」と現在は、諸条件が違いすぎる。少し前の「今」にはいろいろなヒントがあるはずだと思う。登録文化財は最低五十年たった建物に適用されるが、その、新しめの登録文化財になるような建築物なら、現在の生活様式とくらべても、違和感が少ないのではないか。そのうえ、日本の伝統的な美についても継承している点が多くあるだろう。良いと思う点を、なんらかの形で現在に適用してゆきたいものだ。


おわりに
―受け手からの提案―和のホスピス

 古いものと日本的なものがなぜ好きか、の理由は、結論が出せるようなものでもないし、今回この論文をまとめるにあたってもあまり大きな前進があったともいえない。とはいえ、建築塾講師の方々のいろいろな話をきき、いろいろな建築をみることで、私自身はいろいろな刺激をうけることができた。そこで、最後に、受け手の側から提案をしてみたい。それは、「和のホスピス」である。
 現在日本にあるホスピスはキリスト教系病院が運営していたりして、どちらかといえば洋風なインテリアのものが多いのではないかと思われる。ホスピスは、終末期にあるガン患者などが、最後の日々を静かにすごすためにある施設だが、痛みをおさえるために投薬するなど医療行為もおこなわれる。そのような機能を満たしつつも、患者の居室は和の空間とするというのはどうだろうか。ベッドや車椅子を使う都合上、畳の床はむずかしいかもしれない。けれども障子を通したやわらかな光のあたる部屋で、広縁ごしに日本庭園を眺められる、というくらいは可能であり、また、患者がなごむにも適していると思われる。建築塾の塾生で、ホスピスでなくても医院や病院の施工に携わる方がいればぜひ考えていただきたい。
                         
                        (二千年 三月十二日記)


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