神楽坂建築塾修了制作展 論文

神楽坂建築塾日記

時森幹郎(静岡県・建築設計)


 

#01:
1999年5月8日(土)

 神楽坂建築塾は光照寺にて平良塾長の基調講演でスタートした。
 講演が始まると一斉にメモを取り出すといった熱気の中、講演は続いた。

 建築は、「時間」「空間」といった普遍的なものの上に成立するとし、均質な建築、世界中どこでも成立する建築を目指したインターナショナルスタイルなどに代表されるモダニズムが主流となり、どこにいっても同じような町並みができてしまった。建築はある特定の場所に建てられるものであるにも拘わらず、その「場所性」が欠如していた事が問題であると指摘し、「場所性」を取り入れた理論で風景、景観を造ることが大事だ。と主張されていた。そうして雑誌『造景』を創刊されたという事であった。

 講演の後は場所を変えてちょっと離れたアユミギャラリーで懇親会だそうだ。
 道々ちょっと考えながら歩いていた。
 そういえば話はポストモダンにも触れていた。ポストモダンはモダニズムの均質性を批判し装飾や様式を復興させた。しかし、「場所」には戻らなかった。それはその装飾や様式を元々あったところから切り取り、全く関係無いところに貼り付ける「引用」という手法によるものだった。

 それによって装飾や様式はその本来の意味を失ったのである。ポストモダンは「場所性」を伴っていたものをも場所から切り離されてしまった。現在の町並みはモダニズムによって記憶喪失となってしまい、ポストモダンでさらにその病状が悪化してしまったように思える。

 アユミギャラリーに着いた時には既に懇親会は始まっていた。
 うなぎパイ係だと言う事で、僕が静岡からこっちに来る時に買ってきたうなぎパイもさっそくお皿を飾っていた。

 こういう場合うなぎパイの場所性はどうなるんだろう?
 うなぎパイは正確には浜松のものだが、静岡の「おみやげ」で通っている。静岡の名物だから静岡で食べないと意味無いのか?

でも、これはそもそも「おみやげ」としての物だからこうして外の人に食べてもらった方がいいのだろう。そうでないと商売あがったりだ。

 と言う事で、僕はポテトチップスを食べることにした。ポテトチップスを食べながら思う。ポテトチップスはもう日本のどこにでもあるものだが、そもそもはアメリカものらしい。日本の日常も随分アメリカ化してしまっている。

 アメリカの歴史は200年ほどなのに、今や世界を牛耳っている。その当初は、広大な荒野に、ヨーロッパでないところにヨーロッパを造ろうとしたのであるが、その土壌がないところでの創造なので、それを否定するのにもさほど抵抗は無かったのだろう。この変化に対する抵抗の無さ、それまでのものへの執着のなさは、歴史の無さ故なのかも知れない。

 最近DNAにはロングタイプとショートタイプ2種類のタイプがある事が分かったと言う。ロングタイプは革新的で先進的。ショートタイプは保守的で安定的なのだそうで日本人の約70%はショートタイプに対してアメリカ人の約50%はロングタイプなのだそうだ。考えてみれば、どんなところかも分からない未知の大陸に移住しようなど考える人の集まりなのだから当然とも言える。そうすると最も革新的な集団は西の果てまで行った事になるが、今世界を支配するコンピューター産業が西海岸にあるのは偶然であろうか?

 そうしたアメリカの土壌、つまりフロンティア精神や自由主義が後のモダニズムそしてポストモダンへの変化を生み出したのではないだろうか?そしてそれを強力に推進したのが経済だったのだ。むしろ、近年は−ismといった思想の影は薄く、単なる経済主義によっていると感じるのは僕だけだろうか?

 「場所性」の喪失はアメリカによるところが大きい。アメリカは自国の理論を主張し正論化し世界の盟主たらんと走りつづけた。約半世紀に渡って冷戦によって対立してきたソ連もしかり。しかし、ソ連は崩壊し、世界の覇権を勝ち取ったアメリカはやや傾きながらも強引に勝ち続けている。


#02:5月9日(日)

 快晴。気持ちのいい朝だった。
 神楽坂の町に「辺境」を捜して歩く。

「辺境」とは中央に対する地方、都市に対する田舎を指すのだろう。それを地方や田舎と言わずにことさら「辺境」と言うあたりが事態の深刻さを物語っている。経済至上主義による支配は極僅かを残しほとんどを制圧しているのである。日本は今、全人口の半分が3大都市圏に、さらにその内の半分は東京を含む首都圏内に集中している。今後、人口は減少に転じ必然的にそれは辺境から始まり、全人口に対する都市部の占める割合はさらに大きくなるのである。

 「辺境」には、経済至上主義の魔の手から今のところ逃れているものがある。その辺境的なるものをこの東京の真ん中神楽坂で見つけようというのである。

 神楽坂通りから裏に入り路地を散策する。たしかに、広くて真っ直ぐな道よりも、こういった狭くて曲がりくねった道の方が歩いていく度にその風景は変化していって面白い。「辺境」はそれでもまだ捜せば有るものであった。そして、何故かそこには不思議と決まったように猫がいて、毛繕いをしていたり、昼寝をしていたりしていた。

 「場所性」を論ずる時にしばしばゲニウス・ロキというラテン語が登場する。日本語では一般的に「地霊」と訳されるようであるが、いまひとつ分かりにくい。ふと、急にある思い付きが頭をかすめた。ひょっとして猫はゲニウス・ロキの化身ではあるまいか? 猫はわがままで気まぐれであるから居心地の悪い所には行かないし、夜になれば集会を開いたりして地域のコミュニティーを形成していると言う。「ゲニウス・ロキ」は姿、形を変えて現れる事としよう。「場所性」の有るものに「ゲニウス・ロキの化身」有り。思い付きにしては当らずとも遠からずであろう。これから、こういう猫を「ゲニウス・ネコ」と呼ぼう。
 喜一さんはスケッチしようとみんなに呼び掛けていた。
 ところで、「最近漢字が書けない。簡単な足し算引き算が暗算できない。」などの事が判明して愕然としているのであるが、以前、工事現場で職人さんに「設計屋さんは鉛筆より重いものは持たないからいいよなあ。」などとからかわれた事を思い出した。もっともその頃は鉛筆ではなくシャープペンシルであったが、今やそのシャープペンさえも握る事は無く、全てはパソコンでやってしまうのだ。どうやら便利は脳神経のシナプスを破壊しているようだ。シナプスを再生させるには、まず手を動かす事が肝心のようだ。生物としての人間の五感を維持する意味においてもスケッチという行為は有効で、そのスケッチの対象を脳裏に焼き付けるのに効果的である。その事によってスケッチをしたまちとその人との間にある種の関係が生まれるのである。これも、「ゲニウス・ロキの化身」の一種か?「ゲニウス・ロキの化身」は媒介者として「場所性」の促進にも働くのである。これは「ゲニウスケッチ」と呼ぼう。
 「場所性」の喪失とは、拡大解釈すれば、あらゆるものの関係が断絶されていく事を意味するのではないだろうか?それは人間を含めて生物の組成にまでおよんでいるのであり、その「関係」を紡ぎ直し、修復する事が重要なのである。


#03:6月12日(土)

 登録文化財制度は1996年に始まった制度で、このねらいは「登録」の数をどんどん増やしていって、その登録された文化財を手掛りとして点から線へ、線から面へと歴史的文化的美しい町並みを造っていこうという事である。だから、従来の「指定」文化財のように文化財となる事で持主が不自由なる事を避け、改修などは自由に出来て今まで通りに住む事、使う事が可能なゆるやかな制度としているのである。身近な歴史的なものを利用しながら後世に残し、まちづくりの核としていこういう訳だ。
 ここでポイントとなるのは「所有」の概念ではないだろうか?今の日本においては「これは、私のものだからどうしようと私の勝手だ。」という考え方が普通のようであるが、それではこの制度は立ち行かなくなる。つまり、登録文化財となりそうな建物の持ち主がその意味や価値を理解し景観に寄与しようという意志が必要なのである。特に不景気な昨今、その持ち主が企業である場合に、近隣住民が保存を訴えても経営悪化を理由に取り壊されたりする事が目立ってはいないだろうか?閉じた個人から解放された広い視野か求められている。それにはある客観性が必要であると思われるが、第3者による視点ではなく、鏡に写った自分を含めた自分をとりまく様々を見るような視点であるべきではないだろうか?そこに立脚し社会と個人、行政と個人の関係を取り持つのがNPO(民間非営利組織)なのである。こういった場所性を生じさせる「ゲニウス組織」の活性化を願う。さんざん悪者にしたアメリカであるが全就業者の7%がNPOに就業していると聞く。


#04:6月13日(日)

 ここで、ある疑念が降って湧いてきた。登録文化財制度は、今現在は築50年以上の建造物がひとつの基準であるので、明治以降の日本における近代建築が主な対象となる事となる。その中には、それまでの日本にはその歴史がないヨーロッパ建築の様式を模倣した建築やインターナショナルスタイルによる建築が含まれているのである。
 さらに、ものによっては日本独自のものと折衷させる事もしているが、これはポストモダンで言う「引用」に似てはいないだろうか?これらの「場所性」とはどう考えるべきであろうか?
 文京区東大とその周辺、文化財が数多く残る町を歩く。「さかえビル」(1934年竣工)は3階建の1階がコンビニになっていたが登録文化財なのだそうで、利用しながらの文化財の実例である。その2軒隣りの「本郷教会」はゴシック様式の近代建築でこれも登録文化財である。内部は幼稚園としても使われていて近隣住民に慣れ親しまれているのを感じた。恐らくは竣工当初には場所性を伴った建物ではないと思われるが、長年使われ続け、親しまれてきた事でゲニウス・ロキが生じてきたのであろう。ポストモダン建築にも時間と共にゲニウス・ロキが生まれてくるのであろうか?


#05:7月3日(土)#06:7月4日(日)

 日本における建築の「場所性」とは何かを考えるには、まずその原点に回帰する事であろう。
 大石さんは日本に本来あるべき建築の姿を指し示された。その真髄は「内」と「外」との融合という「和」の視点である。合わせる、併せる、会わせる、逢わせるの「和」であり、これが日本の原点なのであろう。
 ここまで「場所性」には何かと何かの関係を繋ぐ事が重要であるとして、その媒介者を「ゲニウス・ロキの化身」と呼んできたが、「和」の視点とは、あるものとあるものを関係づけるというよりは、「内」と「外」というの一見背反する、正反対のように見えるものを、一体化するのである。そして「和」の建築は自然そのものと成るのである。ちょうど表裏一体なメビウスの輪のように。
 僕が建築の思想というものに触れた最初が芦原先生の授業であった。そこで「内」と「外」との境をあいまいにする日本建築の特徴について教わった事。それによって日本人には「隠れた秩序」が備わったという話が思い起こされる。境があいまいで、具体的には部屋を仕切るのは障子紙一枚であったりするので、物理的には中の話は筒抜けであるが、「聞こえても聞こえない。」のである。また、歌舞伎の舞台では黒子がいる訳であるが、「見えても見えない。」のである。
「和」の視点の素養は「隠れた秩序」そのものなのだろう。


#07:8月14日(土)

 ところで、いつもながら講師の方々の情熱には頭が下がる。今回の講師である中村さんはいろいろな和紙をわざわざ持ってきて下さった。なかでもコンニャクで水に強くしたという紙と紙布は印象深かった。
 おもむろに和紙を取出し、水を汲んだバケツの中に和紙を入れて雑巾のようにぎゅーっと絞る。
「ほら、破れない。」
パンパンと引っ張っても破れない。その紙が塾生の間を回っている。
「どれどれ、パンパン!本当だ破れない。」
ビニールだったら伸びちゃうし、ゴムと言うよりもしなやかだ。鹿かなにかの皮に近いような感触だが、水を含むってところがやっぱり紙なのか。これの優れている点はこれほど強くても、そもそも自然のものだから、これは自然に帰るという訳で、生態系に組み込まれている事を意味する。この繋がりにも「場所性」を感じ取る事ができる。
 紙布は漉いた紙を糸のように細く切り布のように織込んだものであるが、この細かさが尋常じゃない。職人さんの手仕事によってできたものに触れるとその職人さんの心意気が伝わってくる。
 とにかく実際手で触って実感する事は大事だ。これは五感で感じ取るという点でスケッチなどと通じるところでもある。
 多分、日本の近代建築がヨーロッパの模倣したものであり、日本土着のものではないにも拘わらず親しまれるのは、職人さんの丹精込めた手仕事によって造られたからであろう。それは端的にはいろいろな装飾になど現れていて、そういったものに触れて使っていくうちに職人さんの気持ちが乗移ってくるのだろう。和洋折衷型の近代建築とポストモダン建築との違いは「丹精込めた手仕事」があるかないかであり、それはゲニウス・ロキが宿るかどうかの瀬戸際ではないだろうか?そういった職人の業こそ「ゲニウス・ワザ」なのである。


#08:8月15日(日)

 「風の魔術師」高田さんは彫刻家であるから今回の講師陣の中にあっては最も芸術肌が強い。芸術家というのは、作品の独自性が肝要であるから自分の作家性、作品性を強調し、主張する事となるが、ともすれば独善的で排他的になりがちである。そうなっては回りと繋がる事はおぼつかなくなり「場所性」は途絶える。しかし、その作風の所為なのかそんなところは感じられない。むしろ、回りとの調和に絶えず気を配っているようだ。その作風とは建築と共にあって景観を形成していること。そこに来る人々との関係に依って成り立つ人の傍らに生きる彫刻である事である。
 空気の動きや風といった目に見えないものを、見えるように変換している。 
 空気と人間との媒介としての彫刻。
 人間と建築との媒介としての彫刻。
 建築と場所との媒介としての彫刻。
 いろいろなものを関係づける風の彫刻。それは正に「ゲニウス・アート」と呼ぶに相応しいのではないだろうか。


#09:9月11日(土)#10:9月12日(日)

 丹呉さんと山辺さんの話は、とても身近なそして局所的なことが、直接に地球規模のことと包括的に繋がっている。
 風土の中で培われてきた日本の伝統的民家は極めて合理的であった。実は、身近な手に入り易い自然の材料である木や藁、紙、竹、土などで造った建築だったからというのは驚きであった。高温多湿な日本にあって、木は開放的な空間を可能にしたり、藁や紙や土には調湿作用が備わっていたりという具合にである。中村さんの和紙の話にもあったが、自然の材料であるから当然自然に帰る。つまり将来に渡ってゴミにならないのである。生態系的に合理的であると言えるのです。
 とするならば、モダニズム建築の特徴としてその合理主義が挙げられ、それが批判の対象とされる事が多いのであるが、実はその合理性もあやしいらしいという事になる。合理的なのはその閉じた空間においての人間工学的機能性が合理的なだけなのだ。
 場所性とはそれぞれの地域に拘る事であるがそれによって閉鎖的になってしまっては、その周りのものと繋がらなくなってしまう。地球環境が問題となっている現代にあっては、場所性はある地域の景観というある限られた範囲だけに止まるのではなく地球規模で繋がる意識を持つ事も必要であろう。
 しかし、いくら伝統的民家がいいと言っても、そのまま現代に当てはめる事は不可能である。それは昔の村のような共同体もなければ、職人も非常に少なくなってきているからである。材料となる木も日本にあるのに経済が国内の木材の流通を衰退させ南洋材の伐採へと駆り立てた。今や日本は世界最大の木材輸入国となってしまい、それは地球環境悪化の要因ともなってしまっている。経済活動は拡大し地球規模で行われているがこれは経済至上主義という極めて狭い固定化した閉鎖的視点である事が問題なのである。閉鎖的視点は他者と繋がっていかないという「場所性」欠如の根源である。
 丹呉さんの運動はそれをも修正しようとして具体的行動をしている。山辺さんとの木構造勉強会、大工塾、建前学校、などであり、特に国産杉の産直システムであるモクネットは建築や林業といった枠に捕らわれない視点の上に実現したのであるのだ。


#11:10月9日(土)

 淵辺さんは首都高速道路都心環状線をモチーフにしていろいろなポイントから見た環状線をスケッチされていて、そのポイントは環状線を一巡していた。
 スケッチとはふつう「いいなあ」と思ったものをモチーフとするのが普通であるが、今回のスケッチは違っていた。なにも高速道路がすばらしいと思ってスケッチされている訳ではないようであった。ではなぜ?
 実はこの辺りに現代の抱える問題が象徴的に表出しているのである。高速道路に代表される高度経済成長の産物は歴史を断絶して造られてしまった為、当然「場所性」には立脚しておらず、良い景観、美しい風景というように感じる人はいないであろう。
 しかし悪しきものだからといって壊してしまう訳にはいかず、だからといって有効な解決策が見当たらない。悪しきものの中からなんとかして何か良いものを、手掛かりを見出そうとする態度なのである。


#12:10月10日(日)

 品川のまちを歩く。この辺りは武蔵野台地が海岸に最も近づいているところで江戸時代から現代までの急激な変化が圧縮された地である。旧東海道から南の路地に入る。神楽坂同様に狭い入組んだ路地には生活感がある。路地を貫けるとそこは海。のはずが、埋立てられた、スケールアウトした現代が突然現れた。さらに天王州アイルまで歩く。何も無い埋立地から建築されたのでそれなりに計画されている。ここまで来ると、先程までのショックはどこへやら妙にキレイになってしまって味気無さはあるものの段々違和感を感じなくなっているのを覚える。
 ところで「隠れた秩序」は日本人の倫理観であったのであるが、現代においてその倫理は見る影もなく、何か妙なところに噴出しているように思える。
タバコ屋さんの軒先に赤電話があった頃はまだその倫理観は生きていた。その電話での会話はやはり聞こえても聞こえないものであったし電話する方も絶えず回りに気を使っていた。これが「隠れた秩序」である。それが、子供部屋なるものができ始め、公衆電話がボックスで覆われた頃からすこしづつおかしくなったようだ。昨今世間で指摘されるような携帯電話のマナーの悪さには「隠れた秩序」はもういない。代わりに見えても見えないという事なかれ主義に形を変えて世の中に蔓延している。日本中に張り巡らされた電線と電柱。そして日常生活で出るゴミは道端のその電柱の回りに置かれるのであるが、これはどう見ても醜い。が、都合の悪いものは見えても見えない。と言う感覚が定着してしまっている。
 次第に慣れてしまって、「こうゆうもんだ」と思って何も問題だとは思わなくなってしまってはいないか?感性が鈍化しているのである。


#13:11月13日(土)
#14:11月14日(日)

 吉田さんは、まちづくりにおいては、立場を捨てる事が大事だと説いておられた。これは登録文化財においても、丹呉さんの建築と林業の関係などにおいても同様で「場所性」を獲得する為に必要不可欠な視点のようだ。古河のまちでの小学校から外構が繋がって歴史博物館に至る景観などはそういった視点がなければ実現しないであろう。
 また「なぜするのか」といった事を自問し言葉によって表現しなければならない。そしてその言葉による理論でものづくりをし、その最終目標は「美」でしかないというお話があった。この「言葉」や「美」が立場を越えて人々を繋ぐ拠り所となるからであろう。「言葉」は登録文化財の「ゲニウス組織」「美」は高田さんの「ゲニウス・アート」とも繋がる事だと思う。
 また民家は構造体として残すべきと主張されていた。民家の核心は構造体であると言う。現代の住宅が30年足らずで建替えるのが当たり前のようになっているが民家では架構はそのままで間仕切りを可変させる事で生活スタイルの変化に対応できるのである。


#15:12月11日(土)

 平倉さんの作品はいろいろな「繋ぐ」を意識されていることが分かる。ウチとソトを繋ぐ。個人と住宅を繋ぐ。住宅と社会を繋ぐ。そしてミクロからマクロまで連続することを念頭においている。住宅という個人的ものに関わりながら、社会を見渡す視点は丹呉さんにも共通するのではないかと思われる。
 「あかりの交番」では街全体をひとつのインテリアに見立て、そうした時に交番はひとつの照明器具に相当するとの考え方であった。尺度の変換と言うべきであろうか?ウチとソトが入れ子状態にあるのがイメージされる。「ゲニウス・スケール」と呼ぼう。
 常盤台の家では、厚さ30cmの板状のラーメン構造が内部を区切らないように間隔を空けて3つ並んでいるというように、主な構造は非常にシンプルである。目的を固定しない空間を作っておいて、中を雑壁で仕切りる事により間取りに可変性を持たせ将来に渡って対応するのである。この事によって時間的に繋がるとの事であるが、この考え方は民家とも似ていながら、方法はインターナショナルスタイルに近いように思われるのがおもしろい。


#16:12月12日(日)

 平良さんと立松さんの対談は50年代を焦点としていて東京オリンピックまでで終わっている。それ以後の高度経済成長の話をしなかったのは多分、その話をすれば、いろいろものを失った話、破壊の話になって問題提起はできるが今さらするに及ばずというところでもあるし、お先真っ暗で重苦しい空気が漂うのは目に見えているからであろう。初日の立松さんの言葉「おもしろくないと長続きしないからおもしろくやろう。」が思い起こされる。どうやら50年代は戦後復興の中で、どうあるべきかをみんなで考えようという気運に満ちた時代であったようだ。
 モダニズム建築が世界を席巻した事が「場所性」喪失の原因とされているが、今日本に大勢を占めているのは経済至上主義建築である、例えばマンションビルなどでの合理性は経済的合理性である。つまり限られた容積率の中でどれだけ多くの戸数が確保できるのか、それによって採算が合うのかが第一である。採算が合わないとなれば、少々使いにくい、住みにくいという事は当然無視される。逆に居心地が良いようでは長く住み着いて回転が悪くなるなどの声も聞かれるほどである。50年代の感覚に戻ろうという事なのだろう。


#17:2月12日(土)

 民家の美しさは心地いい。この感覚は大橋さんの写真の所為だろうか?民家は自然に則しているからなのだろう。屋根のいろいろな造形は自然物そのものと言っても過言ではない。
 熱帯魚のあの美しい模様は海の波によるのものだと聞いた事がある。吉田さんの言う必然性のある「美」の意味が分かるような気がする。ポストモダン建築が心地よくないのは必然性を切り離す手法の為だろう。


#18:2月13日(日)

 戸張さん、伊郷さんと、川崎市立日本民家園にて民家を実際に見る。控え目で真摯な職人さんの手仕事に触れた。中村さんの和紙の時と同じ感覚が蘇る。
 良く柱や梁に番付があるのは新築する時というよりも解体し再び組上げる時の為のものだという事である。吉田さんの話にもあったが、民家の真髄は架構でありその間を具合いいように仕切って使う事により間取りに可変性が生まれ長く使えるという訳で、これは現在においても有効であろうと実感する。
特に江戸時代において、人々がそれぞれの国から自由に出入りできないという状況と連帯責任を強いられるという極度に閉鎖的な運命共同体で地域に根を張って生きるしかないという外的要因の中で民家が生まれたという側面を見た時に、この閉じた社会にありながら大自然と融合しようという感覚、つまり、「内」なる地域に生きながら「外」なる自然界と一体化しようとする「和」の視点がここにもあるのではないだろうか。


 国際日本文化研究センター教授の川勝平太氏は海洋史観を唱えている。海から陸を見返すという歴史観だそうである。「日本は島国であるということは誰もが認識しているところであるが、本州や北海道で生まれた人は自分が島の出身であるとは思わないであろう。地球は青かったはガガーリンの言葉であるが、地球は水の惑星であり水が生命の源である。大陸と言えども小さく見えるようにみんな島だ。地球は海と多くの島でできている。」と言っている。

 場所性の復活には極めて身近な事を見ながら、地球規模までに至る繋がりを意識する事ではないだろうか?「ゲニウス・ロキの化身」をちりばめて繋いでいこうと思う今日このごろであった。

神楽坂建築塾は
まだつづく。
神楽坂建築塾第1期1999-2000修了論文

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