自分の住む町 石岡

 

現状

  私は、21年石岡に住んでいるにもかかわらず石岡という町があまり好きにはなれませんでした。それは、石岡に住む人のプライドが高かったり、不親切な人がいたり敷居の高いイメージがあったからです。また、市政も一環性がなく、しかも、市民も市政に対する関心が薄いことと、保守的な考えを持つ人が多数いて、特に中心市街地は、10年前と道があまり変わっていません。

 

 中心市街地(駅前附近)は半数以上の店がシャッターを閉め、町全体は暗く、車が素通りするだけの道になっています。(日曜午後撮影)

 

都市部のように密集していないため、以前は歩いて買い物の出来る場所が密集して商店の建並ぶ駅中心附近となっていましたが、一家に2台以上車を持つという車社会の中で、駅前に駐車場をとるスペースがないために、買い物する人が少なくなり逆に駐車場も広い大型店舗へ行くようになりました。小学生のうちにそうなってから育った私は、もちろん、駅前附近を歩くのは石岡のお祭り(常陸総社宮大祭)以外あまり印象がなかったというぐらい駅前というものが稀薄に感じていました。

        

常陸総社宮大祭9/14・15・16       

 

 神楽坂建築塾の講師でいらっしゃる寺田先生を通して石岡でまちづくり運動が行われている事を知り、はっと気づかれかせました。産まれてからこれまで住んでいて、ちゃんと説明もできない。自分の住んでいる町をよく理解しようともせずに、愛着が湧こうともしなかったからです。

では、一体今まで石岡という町がどのような時間を経てこのようになったかを振り返ってみようと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石岡市の歴史

 

石岡には63以上の遺跡が発掘されています。そもそも石岡は常陸国と呼ばれ人口22万~24万人の国の中心地だったそうです。特に奈良時代から平安初期の国衛の鉄・銅製品を製作する大規模な工房跡(鹿の子遺跡)からは、貴重な戸籍や稲を貸しつけた出納帳(漆塗文書)が発見された事が有名です。また、数多くの寺がありますが茨城寺、国分寺、国分尼寺、常陸総社宮、府中城などが規模の大きなものです。 国分寺(741年)には七重の搭があったというから相当立派なお寺だったのでしょう。しかし、これらは度重ねる火災により現在ほとんど残っていません。

国分寺           

 府中城(国衛跡)は現在石岡小学校が建っており、父の年代の人は決まって陣屋門をくぐり学校へ通った話を懐かしそうに話します。陣屋門は文政11年建設された門で県文化財に指定されています。そんな門を通り学校に通った人を羨ましく思いました。昭和48年石岡市民会館創立により小学校敷地内に移動され、現在の小学校生は門を通る事はできませんが、民族資料館、城があったことを思わせる土塁が残り歴史を感じる事ができます。

 

 

 

私も小学校の遠足に古墳でお弁当を食べた少し変わった経験がある事を思い出しました。また、市の小学生は1日かけて市内歴史スポット周る授業が今でもあるようです。石岡の小学生は昔から身近で歴史に触れながら育ってきた事が分ります。

 石岡小学校の一角にある民俗資料館の1日の利用者は10名が平均ですが、団体では小学校の見学、東京からのツアー(今年に入り2回程)や歩く会の人、歴史研究家も年に数回訪れるそうです。資料館は貴重なものがあるとは思えない館内ですが、古墳時代の物に、700年代の食器には文字までもが綺麗に残っていて、漆塗章書つまり奈良時代の書物、今はみることのできない国分寺の仁王門の写真などが展示されていました。これらは、保存状態もよく、特に古墳時代の物が思っていたよりも現代的な事に驚きました。古代から有力者が住んでおり、確かに大きな町があったのです。こういった資料の良さを引出す施設となっていないことはとても残念に思いました。

 その後も霞ヶ浦、恋瀬川に囲まれるこの町には、六井の清水(明治から昭和にかけてほとんどが枯れ、現在は石碑が建つ)もありこの地でとれる粒の大きい米を使い酒造りが有名でした。しかし度重なる火事により、寺、町のほとんどが燃えてしまいました。昭和初期に建て直した看板建築は当時、目新しく良い物のように感じられましたが、2001年を迎えた今アケードをかぶった姿はいささか古めかしく映り、逆にそれ以前に建っていた伝統的な建物の方は趣きあり新鮮に感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

現代の石岡を歩いてみて

 日曜の午後だというのに、歩いている人は100m先にお年寄りが1人いるかいないかという状況で、一見車通りが激しいように思われるが、道が悪いための渋滞で信号が変わればまた、静かな通りになってしまいます。

 その一方で、蔵を再生したギャラリー兼喫茶店、若者が建物をそのまま利用しているバイク店もあります。また、歴史を感じさせる土蔵や赤レンガがポツリポツリと残り注意して歩いてみるとなかなか目の魅く建物がいくつもありました。

 

 

私は、開館日である図書館が閉まっていたので、前に少し覗いた事のあった土蔵の喫茶店へ入ってみる事にしました。2階のギャラリーを見学し、下に降りて止まっていると、そのオーナーらしきおじいさんが声を掛けてくれお話を聞く事ができました。ギャラリーは無料で貸しており、おじいさん(川村さん)は住職さんであるらしいのです。運送会社を経営していたが辞め、大学に行き卒業後東北で厳しい修行をしてきたそうですが、会社を経営しているころから美術品が好きな事もあって無料でギャラリーを貸していたそうです。現在も芸術が好きで、羅漢を彫る人を全国からお寺に集め、地元の彫刻家の指導を受けながら好きなように彫るということをしているそうです。その数500体を超えるというので驚きました。感心していると、川村さんは無言で、額に指を差しました。見るとなんと白い毛が1本だけ生えている!仏の慈を表現する眉間白毫相と同じ毛です。話をしている時に見せる柔らかい表情は心がとても温かくなりました。その雰囲気と場所が合っていて、初めてここに座ったにもかかわらず心地よい空間に酔っていると、後の席から「今日は本当によかった。」というお客さんの声を聞きました。その理由は50年ぶりの再会の場面でした。その方は、今は東京に住んでおり、仕事でたまたま地元石岡へ来たところ、店ののれんをしまう川村さんと目があったそうです。お互い近所の鼻たれ小僧でよく幼いころは遊んでいたそうですが、2人は50年一度も会うこともなかったそうです。しかし、一目でお互いが分ったというのです。その話を聞き私は感動してしまいました。とても貴重で不思議な一日でした。

町の中は華やかではないけれど、おもしろい場所がたくさんあります。

2階ギャラリー

しかし、実際、関心のない人はその良さを知ることができないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石岡まちづくり計画

 そんな石岡が少しずつ変わって行きそうな運動が起きています。

 この計画は、市民参加型、つまり市民からアンケートをとり、市民での話合いを開き意見し、それを役所がまとめ、市長へという流れです。何回にもわたっての話合いで、今年1月まちかど情報センターがついに開館しました。

 

まちかど情報センター          左と同じ場所から

                       (昭和初期)

 

 情報センターには何度か足を運びました。センターを運営するのは、比較的若いボランティアの方々です。時には会議に参加し意見をぶつけ、情報センターで町の様子、町の人の声を聞きながら、常に何をしたら良いのかと考えています。そういう人たちの話や様子をみるだけでもとても勉強になります。

センターに訪れる人の中には、「こんな事しているから駄目なんだ。」と反対する人もいました。しかし「こんなに石岡がすばらしいと思わなかった。今日はここへ来てよかった。」と言ってくれた人もいました。その人は、「知り合いに楽器を弾く人がいるから頼んで音楽鑑賞会を開きたいです。また、月に数回ボランティアもしてみたいです。何か石岡はきっと変わって行く気がします。きっと変わっていけると思います。」と目を輝かせながら言いました。このような出会いが起きるのも情報センターのすばらしい所で確かに少し前進しているように感じました。

中心市街地活性化を主に目的とするまちづくり「ひまわりネット」には62名のメンバーいます。例えば、中心市街地活性への提言書1つに置いても各地からの講師を招き勉強会を行い、市街地を歩いて現地調査を行い、10数回の議論を重ねてやっと書類が1つ出来上がります。

そうやって、膨大な検討の時間とメンバーの知恵と労力を結集させ今少しずつ進んでいる最中です。

音楽会や、歴史ツアー、新しい案内パンフレットなどは実際のこととなりました。また、アーケードを取り外すという工事も進行しています。

次々意見がでて、使用していない赤レンガの倉庫を清掃して夕市や、フリーマッケットのようなものをする話、バスの本数を増やす話もあるようです。しかし、良いアイディアのものでも現実的に予算や、交通面いろいろな問題がでるため、思うように順調に進むのは安易な事ではないようです。

町づくりというのはただ、開発をし、発展することが全てではないように感じました。けれども、火事になってほとんどの歴史的建築物を失ってしまった町に歴史に関する施設ばかりでは一部の人しか集まらないように思うのです。しかし、歴史を知ることは町を好きになる要素になります。何故なら、石岡に住む人には必ず石岡に歴史的思い出があります。そして、周りの人を見て石岡での思い出を話す表情は、例え文句を言ったとしても、家族に接する態度のようにどこか温かさがあるように少し前から感じていました。

 

まだ、市民の気持ちは、戻る余地があるのではないでしょうか。

 

 

まちづくり運動や会談と言ってしまうと少し気がひけてしまうのかもしれませんが、自由な気持ちで参加していいのかもしれません。

一人一人が、大型店舗にはない町中の良いところ発見し、何故か自然と足が町に向くような町へとなっていけることが重要な課題なのです。

 

 

神楽坂建築塾、石岡探索の感想

 

建築塾に入ってから、町を歩くことをして、今までにない感動を覚えました。当たり前に思っていた事が発見に変わったりする。でもそれは、他の土地ならで感じる新鮮さからなのでは?という疑問もありました。

実際に歩いてみて私は夢中になり、楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。ただ、ちょっと違うのは、町の人に声を掛けると必ず「どこから来たのですか?」と尋ねられ、「石岡です。」と答えるとしばらく考えてから「古木さん?知っている気がするなぁ。」ときてしまうのが少しつまらない所でした。しかし、それが地元の良さなのかも知れません。

自分の住む町を歩き、思った以上に多くの人に出会い、話を聞く事ができました。また、町づくりという視点から考える人の意見と建築塾で学んできたこととの共通点がいくつもありました。

フィールドワークでいつも人に見せる勇気がなく描かずにいた、苦手なスケッチもしてみました。後からその絵を見るとその時みた風景だけでなく、気候やその日一日のことを思い出し、味わったことのない充実した気持ちになれました。

この1年間、頭では半分解っているもりでも実体験を通して感じることの貴重さをいろいろな場面で感じることができました。

きっと塾に入らなければ、町を歩くことの楽しさも、知らない人に話かけることもできなかったと思います。それは、形として残っていなくとも

私にとって、とても意義のある1年でした。