神楽坂建築塾 第二期 修了論文

計画によって誕生した都市空間
―都市計画学会の計画設計賞受賞場所を訪ねて―

  AC−0002 板野康治

全体構成

はじめに

9.川崎駅東口周辺の都市活性化事業

1.香里住宅団地計画

10.ベルコリ―ヌ南大沢

2.岡山市中心部の再開発

11.遊びと創造の都市「日立駅前地区」

3.松戸常盤平住宅団地の計画

12.自然尊重型都市公園「21世紀の森と広場」

4.駒沢公園計画

13.ファーレ立川

5.坂出市における人工土地方式による再開発

14.恵比寿ガーデンプレイス

6.広島市基町長寿園団地計画

15.川崎市新百合丘地区の農住まちづくり

7.多摩ニュータウン

おわりに

8.世田谷区桜ヶ丘

計画設計賞受賞リスト

  

はじめに

「計画によって誕生した都市空間 ―都市計画学会の計画設計賞受賞場所を訪ねて−」をテーマに選んだ理由

 ここで云う計画とは、広い意味での都市計画という意味である。都市計画と一言でいっても実際の都市における空間形態への影響・あらわれ方は様々な局面があり、おおざっぱに分類して規制・誘導・事業に分けられる。

 規制・誘導は、ルールによるやり方で建築基準法による集団規定や都市計画法が代表的なものである。日影規制による道路斜線制限や区域区分による建物用途規制が建物や都市を形づくりプロセスで目に見えない形で影響している。またルールには、上からかぶさってくるものだけでなく、自分たちの環境を自分たちで守り育むための「建築協定」や「地区計画」がある。

 より直接的に都市空間の形成にかかわる都市計画として事業というかたちがある。事業には、田畑だった土地や自然発生的にできて細く不整形な市街地を、道路や街区を整形にして効率的な市街地基盤に仕立てる土地区画整理事業や、不良住宅の密集地域や整備が必要な場所における市街地再開発事業などがある。今回のレポートで取り上げるのは、この直接的な事業という方法によって、過去30年近くの間に世に生まれ出た幾つかの都市空間である。

 ふつうに考えれば、「複数の建築物やその他様々なものやヒトの集積によってできたもの」が都市空間といえるが、それとここで云う「都市計画によって誕生した都市空間」とは何が違うのかを、最初にはっきりさせておきたい。「都市計画によって誕生した都市空間」とは、複数の関係主体による合意形成を経たという(1)プロセスと個々の事情としての経済力や権利関係により限定された自己完結性の強い偶発性による力でなく、〔計画〕という将来を先取りした(2)意志があってできあがった都市空間であるとする。

 そして今回事例として取り上げたのは、(社)日本都市計画学会による学会賞の計画設計賞を受けた都市空間の幾つかである。世の中に数多くある都市計画事業の中で、これらを選んだ理由は2つある。

 1つは、自分以外の評価の目が入った都市空間を再度自分で、第三者的に再評価・再点検してみたいということ。特に都市計画に関心を持つ専門家の集まりである学会がどのようなモノを評価したきたのかということを通して、学会がどのような都市空間を良しと考えてきたのかを知り、日本の都市像をどう捉えているのかも知りたいと思ったからである。

 もう1つは、ある時点で評価された都市空間が、時間の経過をへて現在どうなっているか点検してみたいということ。益々魅力を増して、周辺の環境に良い影響を与える存在になっているのか、反対にかつて評価が一時のものに終わり、周辺の環境に何ら貢献しないものに成り下がっているのかどうか、日本で行われきた都市計画事業の成果を自分の目で確かめたいと思ったからである。

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〈No.1〉 (2000/12/26)

■香里住宅団地計画

【香里住宅団地概要】

香里住宅団地は、昭和30年に日本住宅公団が発足して、日本での本格的ニュータウン建設の第1号として、大阪府枚方市につくられた。枚方市は大阪市の東北10Hの位置にあり、急激に人口が増加した市である。香里住宅団地ができた場所は、もとは旧陸軍の火薬製造所であった。その土地を、国からの現物出資として受け、これに一部国有地および民間地をあわせて約151haの地区について区画整理事業による宅地造成が行われた。団地は、自然樹林をなるべく残し、また水源池周辺には、日本庭園(設計・故重森三玲氏)もオープンな場所として周囲にとけ込んで設けられている。

【印象記】

志の高さを感じさせる計画住宅団地である。この団地では、近年再開発が行われた地区もあり、その建て替えられた新しい高層集合住宅には、注意深さは感じられるものの、当初計画の配置計画や色彩等にみられる志の高さは感じられなかった。また思ったことは、住宅団地として開発された場所であるので、基盤整備がしっかりされていて、建物更新による再開発が行われるのは、それだけこの場所に居住地としての価値があるからなのだろう。しかし駅と団地を結ぶ1.5Hの道路は、道幅が狭いのに交通量が多く、そのため歩行者用の空間はなく、もっぱら自動車利用が中心となっている。地域単位で考えると、同じ投資を道路基盤の整備を含め、沿道開発の部分で行い、住宅団地内人口をこれ以上増やすような立て替えはしない方がいいのではないかと思った。しかし現実の社会は、それぞれの土地に権利者がいて、それぞれの考えと経済力でほとんど動いている。全体からみた開発優先性というのは、考えられないのだろうか、誰が全体の責任をとっているのだろうか。本当の意味での都市の土地利用の長期的・総合的計画の必要さを考えさせられた。

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〈No.2〉 (2001/01/04)

■岡山市中心部の再開発

【防火帯建築計画】

 1960年に始まった岡山市表町1丁目商店街の北寄り約1/3(当時の上之町、中之町)を防火建築帯建設による再開発事業である。当時としては大規模(3〜5階建て、12棟、延面積約2.2ha)かつ1年6ヶ月という急速に実施された点で、全国的な注目を浴びた。しかし実現した防火建築帯の間口延長は、商店街両側延長約660mのうちほぼ40%にあたる260m程度で、かつ小規模共同ビルの集合というものだった。また裏宅地がそのままであること、防火建築帯への裏側からのサービスも不可能であるなど限界もあった。この計画のつづき建築学会への委託研究で岡山市広域型、長期展望にたった再開発計画案もつくられたが、それが現実に大きな影響を与えることにはならなかった。

【印象記】

 特に主張していない、街の中に溶け込んでいるというか、存在感の薄い一群である。しかしこの時代の日本はまだ新市街地の形成に関心が集中する前の既成市街地の再開発に関心が強かった、その時代の成果であり、もしこの規模の防火建築帯がその後の日本で浸透していれば、今の日本人の市街地像は、違っていたような気がする。

 

〈No.3〉  (2000/11/26)日曜日

■松戸常盤平住宅団地の計画

【常磐平団地の建設】

 千葉県松戸市にある常磐平団地は、戦後の大都市圏への人口集中で、住宅不足が社会問題になる中で、東京周辺での大規模な宅地として、昭和30年に発足した日本住宅公団により開発され、昭和35年に第一次の入居が始まった。常磐平は、公募で選ばれた名称で、もとは松戸市金ヶ作地区の名であった。住戸92戸に過ぎない畑とヤマと呼ばれた雑木林の樹林地が大半を占めた約51万坪の土地であった。そこに戸数4839戸の4階建て中層公団住宅や学校、商店などの施設をようした街が開発された。歴史の中で忘れられている部分もあるが、農民による反対も強かった。

【印象記】

 表参道に負けないぐらい立派に育ったケヤキ並木が時間の経過と地域の成熟を感じさせる。また主幹線道路でだけでない並木群が、計画者の心意気というか志の高さを伝えている。またかつて首都圏のグリーンベルトとなること期待された土地を開発してしまったが、そこが今、成熟した緑豊かな団地になっているのとは対照的に、その後開発された緑の少ない周辺地域の状況は、皮肉な結果であると思う。つまりグリーンベルトに穴を開けたその場所だけグリーンが残り、当初グリーンとして残っていた場所が今日見る影もないという逆転現象がおこっている。ただし後述する「21世紀の森と広場」は至近の距離にある。

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〈No.4〉  (2000/12/23)土曜日

■駒沢公園計画

【駒沢公園概要】

 駒沢オリンピック公園は、昭和39年に行われた東京オリンピックの第2会場として誕生した。もとは旧駒沢ゴルフ場跡地で、昭和17年に全面積が防空緑地に指定され、東京都が用地を買収した。その後いくたびかの変遷をへて、昭和26年以降、東京都駒沢総合運動場となっていた。オリンピック開催を契機に公園整備事業を行いその中に各種競技施設を設けるかたちになった。施設は競技場的(観る施設)と運動場的(参加する施設)のバランスも考えられ、将来の利用も考えられていた。また敷地は、公園と周辺道路との結びつきのため買収された面積も含め、約412,000Fである。

【印象記】

 近所に欲しい都市公園の好例ではなかろうか。ちょうど土曜日の午前中ということもあり、老若男女様々な人々がゆっくりした時間の流れの中で過ごしていた。子供と凧あげをしている人もいれば、野球をやっている集団、2人でテニスの練習をしていたり、別の場所では、ジョギング、サイクリングを楽しむ人々がいた。駒沢公園のもっとも見せ場だと思ったのが、駒沢通りから中央階段をのぞみ、左に体育館、右に陸上競技場、そしてその間の空間には、ほとんど何もないかつての路面電車の敷石を敷いた中央広場とその奥に芦原義信設計の管制塔(記念塔)がみえる光景だろうと思う。道から階段の間に何もバリアのない、都市と公園がまっすぐにつながった空間が公園を身近に感じさせてくる。

 大きな公園の宿命といえるかもしれないが、陸上競技場裏で緑地に隠れる場所に浮浪者の段ボールハウスやテントが設営されているのには、驚いた。「よくみつけたなぁ、こんな棲息しやすい場所を、みつけにくい公園の中で」と思った。

 もう一つ難点をいえば、売店がつまらない店であったこと。既得権で守られているのでだろう、街町中ではとても続きそうにない、魅力のない店であったことである。公園という良い環境には、他にはないロケーションと一体になった名物店があればどんなに楽しいだろうにと思うと残念な気がした。

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〈No.5〉  (2000/12/29)

■坂出市における人工土地方式による再開発

【事業計画の背景】

「人工土地事業は、もともと住宅地区改良法による事業として、市街地中心部にある不良住宅を改良しようと計画したのが始まりであるが、表側の商店街をそのままにしておくと、裏宅地に当たる改良住宅が早晩鉄筋スラム化する怖れもあり、商店街との均衡と調和を考え、表側の商店街を更に防災建築区造成法により併せて計画し、住宅と商店ともども改良したらどうかということが人工土地方式の導入に発展したいきさつであった。」らしい。

【印象記】

 駅前の区画整理と商店街の衰退などで、坂出という町自体があれている感じであった。人工土地の複合建築は、駅から近い場所に位置している。表側といわれた商店部分は、いくらか空き店舗もありやや寂しいものの、非常に都会的な感じがする空間であり、これが代官山あたりにあっても違和感の無い感じである。実際にみる前に人工土地の1階部分の救い難さといろいろ聞いていて先入観があった。確かに1階の商店からみて裏側にあたる部分での駐車場は、暗い感じであったが、工夫次第で何とかなると思った。つまり人工土地という方式それ自体全くダメであるということではないのがわかったことが収穫であった。

 残念ながら再再開発の必要性があるように感じた。住み手の住まい方がいかに建物の生命の重要なものであるか再認識させられた。丁寧に作られた建物であることはわかるが、やや荒廃しているところもあった。

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〈No.6〉  (2001/01/03)

■広島市基町長寿園団地計画

【基町地区再開発】

 この敷地は、もとは軍用地であったが、敗戦後の戦災被害者の応急住宅が建設されたり、困窮者が太田川河川敷の不法建築に住んでいた。次第に荒れた居住地となり「原爆スラム」といえる不良地区化していた。ここは中央公園予定地でもあり、強制代執行なども行われたが、原住者も収容する形での再開発として、大高正人氏設計で高層・高密度の住宅建設と公園整備がなされた。

 基町地区に改良住宅として1,899戸、公営住宅として1,060戸(そのうち220戸は改良住宅扱い)、長寿園地区には、改良住宅694戸、公営住宅486戸が建設された。(その他住宅公団、住宅供給公社による422戸)。特徴としては、「く」の字型の住棟形式、大規模広場の確保、人車分離の交通計画、屋上の利用があげられる。。

【印象記】

 いいわるいは別にして、計画の力強さ感じる。東京・墨田区の白髭防災拠点に似た感じがする。白髭でもそうなのだが、大勢の人が暮らしているにもかかわらず、団地の中に人の気配はあまり感じらず、暗い雰囲気があった。それから1階がピロティになっていて、それらがほとんど駐車場につかわれているのも、車時代にある意味で対応できる形に結果としてなったのかもしれないが、雰囲気の悪さの元凶になっていると思う。やはりここは、都市中心部に近い場所であるが、この一帯は都市ではなく団地である。しかし団地とはいったい何だろうか。

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〈No.7〉  (2001/01/11)

■多摩ニュータウン鶴牧・落合地区の緑とオープンスペースの構築

【鶴牧・落合地区】

 多摩センター駅よりつづく住区。この住区は初期に開発された諏訪永山などの地区の反省にもとづき、新住法の範囲内であるが、業務系施設や都市型サービス機能を取り入れて開発された。この住区のまちづくりの基本的な理念は、全体の空間構成を重視し住区計画の軸としてオープンスペースを基幹空間としてつくり出そうとするものであった。

【受賞理由】

 児童公園や近隣公園など複数の公園を連続的に配置して、その間を歩行者道路のネットワークで繋いでいる。そして基幹空間として軸を富士山に向けた富士見通りは、桜の並木道になっていて、地域のシンボル、原風景となる名所的空間になっている。

【印象記】

 非常によく出来た歩行者専用路と公園のネットワークで、多摩センター駅からかなりの距離を自動車交通と遭遇すくこと無しに歩ける。近隣住区論の優等生といえる完成度はあると思った。冬の訪問であったため、富士見通りの桜並木の見事さは、想像するしかなかった。また残念ながらお天気の曇りのため富士山は見えなかった。ぜひ富士山の見える春に来たい場所である。春だけでなく春夏秋冬、朝昼晩、晴れ曇り雨など様々な状況で様々な表情をみせる空間・〈景〉に鳴っていると思う。

 この富士見通り軸の公園はランドスケープ・アーキテクトの上野泰氏が手がけたものである。もう一つ同じネットワーク上にある公園では、人工的に大きな丘をつくったものがある。ここでは子供達がそりで下って遊んだりしており、生活の舞台・背景として存在していた。

 もうひとつよくできていたのが、富士見通りをはじめとする道沿い住宅の街並みへの配慮である。無表情なコンクリート塀などは一軒もなく、生け垣が道と住宅の緩衝となっていた。

 全体的によくできた空間環境と思う。郊外か市街地か好みの選択で、判断は難しいが、郊外の新開発の住宅都市としては、すばらしく良くできていると思う。一つの生活環境としては、到達点になっていると思う。

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〈No.8〉

■ 世田谷区における桜ヶ丘区民センター広場をはじめとする一連の都市デザインプロジェクト

【世田谷の都市デザイン】

 世田谷区は、東京の南西端に位置し、人口約80万人の主に住宅市街地となっている区である。昭和54年基本計画にもとづき、高齢化社会をみすえた環境整備も含めて、「福祉社会をめざすヒューマン都市世田谷」の実現をはかってきた。その一環として「住民参加の都市デザイン」を探っていく試みがなされてきた。

〔都市デザイン事例〕

@梅丘区民センターと界隈づくりA梅ヶ丘中学校前歩道B用賀プロムナードC馬事公苑前けやき広場

〔仕組み・啓発事業〕

@都市美委員会の設置A「せたがや百景」選定B「せたがや界隈賞」選定C「都市美シンポジウム」開催D「都市美せたがやし」等の出版

【受賞理由】

 地域に密着した基礎自治体として、住民との協同して、まちづくり事業を行い、景観という視点での都市デザインを導入し、成果をあげたこと。また行政内での都市デザインのための機構整備と区内専門家の協力体制の確立をおこなうなど指導力を発揮した点。

【印象記】

 ハードの整備から時間の経過し、いくつかの場所で、メンテナンス不足なのか、荒れた面もみられた。(例えば、用賀プロムナードの水道の蛇口がなくなっているなど。)また馬事公苑前ではせっかくアーバンデザインで公共空間を整備しているのだが、私的建築郡が広場に向かって意識されていないため、空間環境としては、十分活かされていない感じがした。

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〈No.9〉  (2001/02/22)

■アーバンデザイン手法による川崎駅東口周辺の都市活性化事業

【川崎市のアーバンデザインの背景】

 川崎市は東京都と横浜市の挟まれた人口約120万人の神奈川県の政令指定としである。京浜工業地帯として臨海部に工場が多く立地し、昭和40年代になると公害問題が発生し、都市のイメージは悪かった。昭和50年代になると全国的に街並み、景観に関心が広まった時期で、また第3次産業の発展には魅力的な都市環境・イメージが不可欠であるという情勢から、川崎市でも昭和55年からはじめられた。

【受賞理由】

 比較的短期間のうちに市が主導してアーバンデザイン手法に基づき都市活性化と地域環境の向上に成果をあげた。市長が指導性を発揮して、事業推進に対して積極的に取り組んだ。地方自治体とアーバンデザインの一つの望ましい姿を示した例として評価できる。

〔主なアーバンデザイン関連事業〕

川崎駅東口広場

京浜急行高架修景

市役所通り、富士見通りなどのモール

地下街アゼリア

三菱電線工業跡地再開発

〔川崎市アーバン・デザイン委員会〕

 学識経験者と市の関係部長による構成。組織間の横の連絡とつくる、事業部門と企画部門とを結びつける役割をはたした。川崎市では条例や要項でなく、任意のマスター・デザインを作成し整備の方向性をしめすやり方がとられた。

【印象記】

 アーバンデザインに本当に必要なものは何か、それは“メンテナンスの仕組み”であることを、今回プロジェクト型の事業が行われ、既に10年近く経つ川崎駅東口周辺を訪問して思った。例えば東西自由通路など空間の骨格になる部分は、時間経過をへてもあまり大きな変化は感じられず、よく使われていて役に立っている空間であった。しかし稲毛公園などは、清掃が行き届いて無く、不潔な感じで、浮浪者や競馬新聞を読んでいるおじさん連中しか利用していない、できない空間になっていた。また川崎市のアーバンデザイン事業は、80年代末に終息したため、今日大きな課題となっている駅前にあふれかえる自転車の駐輪対策が出来ていないのも、仕組みの継続があれば、現状の事態にはなっていないだろうと思うと残念である。

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〈No.10〉  (2001/01/06)

■ベルコリ―ヌ南大沢におけるマスター・アーキテクト方式による景観形成

【ベルコリ―ヌ南大沢概要】

 東京の都心から西南約30Hの丘陵地につくられた多摩ニュータウンにある。ニュータウンは、多摩、稲城、八王子の3市に跨り、面積約3,000ha、計画人口31万人で、昭和41年以来の都市計画決定以来20数年を経ており、現在の人口は計画の約半分の15万人となっている。

 その中でベルコリ―ヌ南大沢は、ニュータウン西部に位置し、都心から約40Hで、面積約66ha、約1,500戸の15住区として開発された。

【受賞理由】

〔マスター・アーキテクト方式の導入〕

 ベルコリ―ヌ南大沢の開発では、一開発単位として個々の多様性と全体の統一性のある景観を形成するべく、マスター・アーキテクト方式が導入された。個々のブロックの建築設計は複数のアーキテクトが担当するが、その上に各種デザイン・コード等に責任をもつ「マスター・アーキテクト」を置く。(マスター・アーキテクトは、内井昭蔵氏)

【印象記】

 景観、色彩というある意味わかり易いところで、共通性と多様性の見えざるルールに支えられた特徴ある地域である。周辺の類似団地群とは一線を画する環境の質の高さを感じる。ただし団地の域を超えてはいない。では団地と都市は何が違うのか。都市とは、自立的発展性が感じられる空間であると思う。ベルコリ―ヌ南大沢は、緩やかな統一性をもつ景観を獲得してはいるが、(南イタリアの山岳都市というイメージがいいか悪いかは別として)それは開発側のデザインのままであり、住民を中心とした地元のコンセンサスから生まれたものでない感じがまだするから都市としての成熟性なり自立性を感じなかったのだと思う。しかし、この規模のルール・デザインコード化を既存市街地でも展開できれば、日本の街並みにも未来に残せる価値あるもの生み出せるかもしれない。しかし既成市街地での応用・展開への方法としては難しいと思う。

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〈No.11〉 (2001/01/06)

■遊びと創造の都市「日立駅前地区」

【日立駅前開発整備事業】

 JR常磐線日立駅に隣接する日本鉱業(株)(現・日鉱金属)荷扱所跡地を中心とした約12.5haの区域において、日立市が商業・業務・文化・情報・福祉など多様な都市機能の集積をはかり、茨城県北部広域圏の都市拠点をつくるためにおこなった。

〔事業内容〕

土地区画整理事業
日立新都市広場の整備(約1ha)
日立シビックセンター(ホール、科学館、プラネタリウム、図書館等)
民間施設の立地誘導(ホテル、イトーヨーカドー、商店街等)

【受賞理由】

〔新広場の整備による都市拠点の創出と景観形成の配慮や事業手法〕

設計コンペ、事業コンペの導入
日本では珍しい新都市広場
都市デザイン委員会の設置、地区計画の導入

【印象記】

 広場の完成度は低いと思う。広場東縁側が道路で分断されているため、広場が建物に囲まれた内部的空間になっていないのは残念である。またイトーヨーカドーやシビックセンターにしろ広場と接している施設が賑わいや連続性を生み出せていない。飲食店が広場に表出して一体感を形成していない点などが惜しい。一般道に接しているわけでないので、そういう演出効果を出せるチャンスはあったはず。市民の広場利用についても、今回の訪問が何も催しのない普通の日だったため、特別な日の状況はわからないが、広い約1haの広場中央に人はだれもいなく、隅の方で若者がスケートボードや自転車の曲芸乗りをしているぐらいだった。(どれくらい、どんな催しが行われているのかも知らないが。)

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〈No.12〉 (2000/11/26)

■自然尊重型都市公園「21世紀の森と広場」

【21世紀の森と広場の概要】

 東京の都心から約20H、江戸川をはさんで東京区部に接する千葉県松戸市にある総合公園である。松戸の自然環境の特徴であり、下総台地によくみられる傾斜樹林に囲まれた、起伏に富んだ谷津の地形を活かした自然尊重型公園である。園内の面積約50haを「自然」「レクリエーション」「文化」の3つのテーマに分けたゾーニングで構成されている。

〔誕生までの経緯〕

 松戸市は、首都圏近郊に位置していたため、昭和40年代の急激な人口増加による都市化がおこり、スプロール市街地化、緑地の著しい減少など生活環境の悪化が問題になっていた。この問題にへの対処として、昭和52年に、21世紀初頭を想定した「松戸市長長期構想」が策定され、そこでのまちづくりのテーマ「都市と自然との協調」を具現するものとして計画され実現されてきた。

 公園の立地場所は、長期構想で松戸市市域を地域特性ごとに3つに分けた中央部にあたる。

 昭和56年に総合公園として都市計画決定され、種地となるべき公有地がまったく無い状況から、用地確保が行われた。平成5年のみどりの日に約80%にあたる40haで開園された。

 なお、この地域一帯は昭和45年の都市計画の線引き時に地元の営農意向を反映して、市街化調整区域に指定されていたために、開発が抑制されていた場所である。

〔ゾーン分け〕

「自然ゾーン」は、その中でも3つに分けて考えられていて、日常的利用は控え、自然の林として育てる「樹林保全型」と観察園路を整備する「樹林観察型」、レクリエーションに利用される「林内利用型」となっている。

「レクリエーションゾーン」は、斜面緑地に囲まれて開放的な公園中央部の芝生広場「光と風の広場」になっている。

「文化ゾーン」は、屋内施設として「森のホール21」や「松戸市立博物館」があり、その他にイベント対応型の「つどいの広場」や農業環境を展開する「みどりの里」がある。

【受賞理由】

 市域中央部という絶好の立地に質の高いデザインで、自然の保全と新しい自然環境の創出した大規模な公園を市レベルでほぼ作り出した実績。

【印象記】

 都市民にとっての里山的自然としては、いい場所だと思う。休日ということもあり、大勢の人が思いも思いに楽しんでいる姿を見ると、この公園は松戸市民に愛されていることを感じた。

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〈No.13〉

■業務核都市立川における街とアートが一体となった都市景観の創出:ファーレ立川

【ファーレ立川概要】

 ファーレ立川は、立川基地跡地に関連した約5.9haの再開発事業である。立川市は都心から30km圏にあり、八王子市と並び多摩西部の商業、文化の中心都市として発展してきている。また第3次首都圏基本計画で「業務核都市構想」が打ち出され、このファーレ立川でもホテル、百貨店の他に業務系オフィスが、就業人口9,000人の計画で多摩地区の事業活動の拠点として、また新宿のバックオフィスとして建設された。

【受賞理由】

 大規模再開発プロジェクトによる業務系都市空間の中にパブリックアートを積極的に導入したこと。建物外壁、車止め、ベンチ、排気塔などの街の機能をアート化するということ。芸術作品を静的な鑑賞対象としてでなく、日常的に触れることができ、さらに、様々なイベントや地元活動に組み入れることを可能としていること。世界36カ国92人の優れたアーチストによる作品を取り入れることで、国際的な芸術文化活動にまでひろげていること。そしてこの作品が法定都市計画事業という、権利者調整や合意形成の複雑で困難な作業の中で完成させていること。

【印象記】

「パブリック・アート」って本当に必要なのだろうか。「彫刻公害」という言葉があるそうだが、ファーレ立川のすべての作品がその公害であるとは思わないが、本当にこんなに密度高くアート作品が存在する必要があるのだろうかと思ってしまった。確かに記号性、物語性の無い場所は退屈であり、焦点の合わないぼんやりした空間になっていることは多いと思う。しかしファーレ立川はなんだか取って付けた感じがする。(実際取って付けたのだが。)時間の経過が、また見慣れた日常への埋没がいい意味で作品を定着させてくれるのだろうか。こういうやり方が好きか嫌いか聞かれたら、私は嫌いであると答えると思う。必要な工作物・街の機能施設のアート化といっても「やりすぎ」な感じがした。

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〈No.14〉

■ 恵比寿ガーデンプレイスにみる大規模土地利用転換による都市複合空間形成への取り組み

【恵比寿ガーデンプレイス概要】

JR山手線恵比寿駅に近いサッポロビール工場跡地の再開発で平成6年10月開業。
敷地面積約83,000F、延べ床面積480,000F
住、商、業務、文化等を含む複合都市開発で、住宅1030戸(内510戸はサッポロビール建設)、恵比寿三越、ウェスティンホテル東京、オフィスタワー、写真美術館等がある。
供給処理施設として、地域冷暖房、中水道施設、ごみの真空集塵システムを採用
1,900台分の地下駐車場を設置
敷地全体の60パーセントを空地(公園・緑地含む)としてデザイン

【受賞理由】

 東京の中心部における大規模土地利用転換による再開発において、一民間企業による開発にとどめることなく、都市計画的位置づけを認識し、官民パートナーシップを実現した。
 第一に、道路をはじめ各種の公共施設と民間の敷地開発との、公と民の領域の積極的な統合を果たしていること。
 第二に、大規模開発と周辺市街地との調整をなしているだけでなく、周辺の街並みと一体となった新たな都市景観の創出をはかっていること。
 第三に、JR恵比寿駅との関連など、新しい交通環境の形成を果たしていること。
 第四に、複合開発における一体的な都市経営モデルを実現したこと。
 第五に、都心居住への貢献をなしていること。

【印象記】

 受賞理由では、周辺の街並みとの一体化といっているが、何をもって一体化と考えるかという評価のもつ多面性を感じた。私自身の感想は、周辺とはスケール感が違う異物挿入の感がする。また空地が面積的に多ければ、よい都市外部空間であると安易に考えることはできない。実際に体験して、確かに自動車交通にわずらわされる事無く、歩ける空間は十分ありそれはそれでいいのだが、なんとなく各建物がバラバラに配置してあって建物同士の関係性が希薄な感じがした。つまり全体の大きな敷地の中につくられた建物とその他の空間という感じで、建築と建築の間に発生する包み込まれるような一体感のある外部空間の形成はうまく出来てないと思う。ただしいくらかそのような都市における広場空間をつくろうとしていて、外部空間の見せ場として掘り込み式の広場がありそこは、意図どおり広場になっている。そこにはカフェも設けられ演出も感じられるが、惜しむらくは敷地内の見せ場という自己完結型の配置でなく、周辺との連続性をもてる場所に配置してもらいたかった。今の配置では、自然発生的、偶発的変化の起きる可能性のない(都市経営としては成功なのだろうが)管理下の広場の感が強い。日本のような、周辺環境もそれぞれの事情で日々勝手に変化、建て替えがおこなわれる状況では、周辺環境を信用できないということなのかもしれない。アークヒルズと根っこの部分では同じ発想だから出てくる都市空間の性質も似ていると思った。

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〈No.15〉  (2001/01/11)

■パートナーシップによる川崎市新百合丘地区の農住まちづくり

【まちづくりの経緯】

 新百合丘地区は面積約46.4ha、の区画整理が行われた地域である。川崎市の北端に位置し、戦後の人口増加で、市街化圧力の強まった地域であり、農家である地主を中心にスプロールによる無秩序な市街化を防ぐため、計画的開発を30数年来すすめてきた。

まちづくりの流れ

昭和43年(1968年)

(財)協同組合経営研究所・理事長の一楽氏による構想の発表
「近郊農村の村づくり−協同組合による農住都市の建設」この構想の理念は、@土地所有者である農民が、自主的に結集して、集団的に取り組むこと。A宅地を求める社会的圧力は時代の要請であることを認識し、積極的・計画的にそれを受け入れ、良好な住環境をつくること。B地元の住民と新しく入ってくる住民とのさまざまな交流を通じて、新しい地域社会を創造することの3つであった。

昭和47年(1972年)

「農住柿生百合丘土地区画整理組合準備会」設立
68年の小田急多摩線延伸を契機に研究会、座談会、研修会をへて、地権者を中心に設立。

昭和49年( 1974年)

「(社)地域社会計画センター」発足
農協組織による専門知識、ノウハウの蓄積のシンクタンクとして。
同年:「百合丘南部地区総合開発協議会」結成
計画実現のため地元と行政のパートナーシップ体制をめざして、、地権者、小田急電鉄、市の関係局長を構成員として結成される。

昭和52年(1977年)

以後7年をかけて区画整理事業がおこなわれる
「大都市地域における住宅等の供給の促進に関する特別措置法」による組合施行の区画整理(これは現地換地を原則とする従来の換地手法に対して、土地所有者の土地利用の意向に基づく目的換地の手法を導入することによって、土地所有者の生活設計を容易にすることをねらったものである)

昭和55年(1980)

区画整理施行区域内対象の「上物建設マスタープラン」発表
これは、従来の区画整理事業では、その後の土地利用が個々の地権者の裁量だけに任されているため、バラバラな上物建設や土地の細分化によるミニ開発などを防ぎ、良い環境をつくるために求められた。マスタープランに示された指針を地権者、住民、商業者が協力し、市の許認可を伴う計画的指導によって実行しようという試み。当時法制化の検討中だった「地区計画」の考えを先取りする内容をもっていた。

昭和56年(1981年)

「新百合丘農住都市開発株式会社」設立
農家地権者の上物建設や地域社会の管理・運営をおこなう法人組織として。

昭和57年(1982年)

「新百合丘駅周辺広域的街づくり推進協議会」発足
従来の「百合丘南部地区総合開発協議会」に周辺住民や商業者を新たに加えて、街づくり推進のための広域的調整、協議の場として。

昭和61年(1986年)

「(財)川崎新都心街づくり財団」設立
区画整理清算で、残余財産を基金に設立。まちづくりに関する情報提供、研究、講演会開催を目的に。

【受賞理由】

 全国にある同種の事業の中でも、事業進捗面で完成度が高い。
 「上物マスタープラン」など空間構成、景観形成に係る都市デザイン面での工夫。
 地権者の土地利用に関する研究推進組織の設置や公民パートナーシップによる事業推進。

【印象記】

 駅周辺しか歩いていないため、総合的判断は出来なかった。駅周辺は、いい意味でよくできた地方中核都市の駅前という感じがした。駅前では大勢の若者がいたが、彼らの内何人ぐらいが、長年のまちづくりの成果であると知って空間を享受しているだろうか、知りたい気分になった。おそらくほとんどの若者が知らないのではないだろうか。環境はアプリオリに存在するのではなく、人為の努力の上に築かれているということを知ることは、大切なことではないだろうか。そのようなまちづくりの歴史を学べる環境が、身近にあったほうが良いと思った。

 ※ 各項の概要、背景、受賞理由は、日本都市計画学会発行の『都市計画』より引用し、まとめた。

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おわりに

■ 戦後日本に歴史的資産となるような都市空間は生まれたか

 ――都市計画にできたこと、できなかったこと――

 今回学会の計画設計賞をとった空間環境の全部ではないが幾つかを集中してみてきた。そこには、賞を貰うぐらいだから、社会を前に進めてくれる新しい世界が提示されているものが見られるという期待が含まれていた。はたして新しい世界、これからの日本の都市空間が、目指すべき方向を示唆するものを発見できただろうか。以下で簡単に総括してみる。

 

 見学したものを、ごく乱暴に分類してみると、@無から有をつくる開発系統とA既存の中に新しいものを挿入する系統という2つに分けられる。@をより細かくみると、1つ目は非都市的土地利用の場所(樹林地、田畑等)を都市的土地利用への転換、例えばニュータウン建設など(@―1)、2つ目は従来の都市機能を白紙にして新機能を創出する再開発系に分けられる(@−2)。Aは、都市景観を主テーマにおこなわれたアーバンデザインが代表例である。

 @−1のニュータウンは、見学前にもっていたイメージの何か寂しい住宅地というのが、ある程度偏見であり、大変空間環境に対する目標の高さや工夫がみられ、思っていた以上のものであった。ただし新規開発地の工夫には緑地を活かしたり、十分確保したものが多く、建造物のように見る側の個人的好みに左右されない点を割り引いておく必要がある。それでも多摩にみられた公園をつないだ近隣住区論にもとづく空間は見事だった。既存の都市構造には相容れないし異なるものであるが、あれはあれでひとつの都市空間の原理を体現しているのを確認できたのは、貴重な経験となった。しかし、あの原理をこれからの生きた都市に援用するのは難しそうだ。@−2では、日本の都市像どうあるべきか、答えが出されていないと思った。つまり敷地外との関係性を断ち切った自己完結型の開発ばかり目立った。それだけ既存の都市空間には、参照する、あるいは合わせなければいけないコードが無いのだろうか。西欧の中庭型でもなく、戦後追いかけてきたアメリカ型高層バラ建ち都市でもないアジアを出自にもつ日本型都市像は無いものだろうか。非常に大きな話になるが、自分は是非これから日本発の新しい都市像を生み出したいし、生み出さなければいけないと思う。Aのアーバンデザインは、これからの都市計画的課題である既成市街地の再構築の重要な鍵になると思う。見学した川崎、世田谷と代表的な横浜も含めて考えると、重要なのはそれがいかに様々な主体の参画の上で実践され、継続していける仕組みが構築しておけるかだと思う。様々な主体の参画には、従来の公・公パートナーシップ(縦割りの打破)や公・民パートナーシップ(行政と事業主体との連携)だけでなく公・民・民(関係や関心のある第三者)の関係を不可欠なものにしていくという意味がある。

 

 さて、最後にこれら見てきた都市空間がこれからの社会の中で、歴史的資産として活用され残っていくのだろうか。既に初期事業のものは、再開発、再々開発が始まっていたり、必要に迫られてきているものがある。経済の圧力の違いだろうか、かつての規模を越えたものがつくられ、それゆえに背景にあった計画理念も維持されない傾向が、残念ながらある。直近過去のことでさえ歴史的過去のものになろうとしている。できうるなら今ある環境のいい面、悪い面を厳しく検証し、物的環境や目に見えないエッセンスを歴史の積み重ねの部分として継承する努力を、これからの都市空間をつくる上ではもっていたい。形態的に美しいとか、新しい精神を表しているとかでなく、つまらないものであってもそれが、戦後日本につくられてきた都市空間の歴史なのであるから。

 

参考文献および図、写真、解説を抜粋してきた文献

A:『都市環境のデザイン2』(長島孝一、蓑原敬監修、プロセスアーキテクチュア、1995)
B:『日本の都市再開発史』(社団法人全国市街地再開発協会、住宅新報社、H3年)
C:『既成市街地の再構築と都市計画』(小林重敬、山本正堯編著、ぎょうせい、H11年)
D:『造景・97/12』(建築資料研究社)
E:『都市空間へ−RIAの計画と技法』(新建築、1996・11月臨時増刊)
F:『アーバンデザインによる都市開発』(菊池紳一郎、北土社、1991)
G:『都市計画』(社団法人日本都市計画学会)
H:『マスタープランと地区環境整備』(森村道美、学芸出版社、1998)
I:『企画展 戦後松戸の生活革新』(松戸市立博物館、2000)

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