神楽坂建築塾 第二期 修了論文

「田園都市洗足地域に誕生した『洗足会』発足とその後の経緯」及び調査計画

  岡田和美

■はじめに

まず、修了論文にこのテーマを選んだ動機について。

 私は5年程前、結婚によって東京目黒に移り住むことになった。東急目蒲線(現在の東急目黒線)の洗足駅に近いアパートで、夫と二人、新たな人生の第一歩を踏み出した。

 夫は茨城出身の父と、横浜出身の母をもち、自身は生まれも育ちも洗足である。その夫から、以前、「この洗足の町は田園調布より前に、同じ組織によって計画的に町づくりが行われたが、結局その計画は失敗に終わったらしい」という話を聞いていた。また「本当は洗足駅は現在の位置ではなく、今よりも南にある三越の辺りに予定したらしい」という話も出ていた。なるほどそう言われてみるとあの辺りは五叉路になっていて、放射状と言えば放射状の道路である。それが駅前道路計画のなごりなのだろうか。

 この話についてそれ以上の事は分からなかったので、漠然と私の記憶に留めたまま、時が過ぎていった。しかししばらくして、近所に「洗足会館」という建物があるのを知った。いったいどうやって田園都市計画の洗足と、その洗足会が私の頭の中で結びついたので覚えていないのだが、ある日、私は電話帳で会館の電話番号を調べ、管理人の方に問い合わせてみたのである。そしてその社団法人洗足会には、該当するエリアに居住していれば会員になれるということだった。聞けばその会の会員は、殆どがかなりの高齢者であるらしかった。私はごく自然な興味で、その会をのぞいてみたかった。また、計画が完成されなかったこの町に、どうして洗足会が発足されたのかを知りたかった。夫は夫で、自分の生まれ育った町に関わる、今にも消滅しそうな歴史的な組織に参加することに興味を覚えて、二人で入会の申し込みに訪れた。

 しかし、その頃私達は品川区の荏原に移り住んでいて、洗足会の居住エリアにはあたらないということだった。そこで急遽、夫の実家である洗足2丁目の住所を借りることにした。それでも次の定例会で会員として迎えることを承認してもらうという事だった。一応形式的にという事なのだろうが、予想外に手間がかかった。

 そして数日後、晴れて会のメンバーとして入会を認められたとの連絡が入った。   

 このことをきっかけに、せっかく縁があってこの土地に住むことになったのだから、いつか洗足会と町の成り立ちについて調べてみようと思い立ったのである。そして今回、神楽坂建築塾の修了論文を作成するにあたり、塾の主旨にも沿うであろうこのテーマを選んだのである。
 しかし昨年12月に子供を出産し、フィールドサーヴェイどころではなくなってしまった。そこで今回は、現在分かっている情報を整理し、また今後、洗足の町と会の成り立ちについて調査するための計画をたてることにした。

 以下、洗足会について報告出来る内容は、会に入会した際いただいた「会員名簿」(昭和59年4月)、品川区立図書館に所蔵されている「洗足会報 第7巻 第3号 通第37号」(昭和6年8月)、「郷土史 田園調布」(これは先日、発行されたという記事が朝日新聞に載っているのを、アユミギャラリーの渡邉さんが教えてくださって、購入してきたものである)を主な資料としてまとめたものである。

【竣工当時の洗足会館と現在の様子】

■洗足地区の開発と洗足会発足のながれ

【洗足地区の開発】

一、田園都市株式会社の起業

 洗足会について記述するには、まずこの地の開発を手掛けた、田園都市株式会社について説明しなければならない。
 田園都市株式会社は大正7年9月2日、東京近郊に田園都市造成の事業を手掛けるものとして、故澁澤栄一の発案によって設立された。しかし「郷土史 田園調布」によると、澁澤にこの考えを持ちかけたのは、畑彌右衛門という人物であったようだ。東京市の人工増加の問題をあげ、「近郊に田園都市を設けて、理想的住宅地を開き、また商業地と住宅地を截然区別して、それぞれの長所を発揮し、欠点を補うべく大都市計画を樹てることは極めて必要」との考えを示した。これに共鳴したか、もともと同じことを考えていたのかはわからないが、澁澤が機会あるごとに、田園都市についての意見を周囲に話していくうちに賛同者が増え、ついに会社の設立に至ったということである。またこの計画には内務省の高官連が積極的に賛成したようである。

 澁澤は大正5年には実業界を引退し、余生は公共事業のために費やすとの決心をしていたため、直接会社の仕事には関わらず、相談役として後ろに控えるという形をとっていたが、実質上は会長役であった。

二、田園都市計画の主旨

 田園都市株式会社が意図した構想は、会社が最初に取りまとめたパンフレット「田園都市案内」(大正12年1月)に見ることが出来る。

 「田園都市なるものは元来労働者の生活改善を目的として居るものであることは能く解りますが、(中略)都会生活の必要を感じ乍ら而かも其生活に満足し得ないのは貴族富豪階級を除き、現在多数者の心理ではないでせうか。」

 「さり乍ら都市集中の趨勢激しき今日大都市を離れて生活資料を自給し得る新都市を建設するのは至難の事であります。故に一方に於いて大都会の生活の一部を為すと共に他方に於いて文明の利便と田園の風致とを兼備する大都市付属の住宅地ありとせば如何に満足多きことでありませう。此の目的に添ふ住宅地の要件としては私共は凡そ次のことを要求したいと思ひます。

 土地高燥にして大気清純なること。
 地質良好にして樹木多きこと。
 面積は少くとも拾万坪を有すること。
 一時間以内に都会の中心地に到達し得べき交通機関を有すること。
 電信、電話、電燈、瓦斯水道等の設備完整せること。
 病院、学校、倶楽部等の設備あること。
 消費組合の如き社会的施設をも有すること。

右の如き住宅地を単に郊外市と呼捨てるのは餘りに物足りなく思ひます。天然と文明、で年と都市の長所を結合せる意味に於て同じく田園都市と呼ぶも強ち不當ではあるまいと思ひます。」

 「所謂田園都市に於ては工業地域の工場へ通勤する労働者の住宅地を主眼とするに反して、我が田園都市に於ては東京市と云う大工場へ通勤される智識階級の住宅地を眼目と致します結果、勢ひ生活程度の高い瀟酒な郊外住宅地が建設されて行くことは自然の数であると存じます。」(以上「郷土史 田園調布」より)

 このように、田園都市計画は、労働者よりインテリ層(軍人、官吏、医師、弁護士など)を対象としたプランであったことがわかる。上記の会社が示した住宅地の要件をまとめれば、緑豊かな住環境、インフラ、公共施設の完備ということになるが、本質的には仕事、買い物、娯楽は都市で賄い、プライベートは静かな郊外で過ごすというライフスタイルを提案したものであったのだろう。

 澁澤自身が書き残した「青淵回顧録 下」から「田園都市の創設と都市集注の弊害」の一部を抜粋してみると、「会社に関係している秀雄(澁澤子爵令息)なども英国に於いて田園都市について実地視察研究をなしたので、是等を参考として我が国情に適合する様に計画し、小公園や運動場を始め、充分に自然の要素を取り入れる様にしたが、更に都市との交通の便を期するために、姉妹事業として目黒蒲田電鐵会社を経営し、(中略)理想から言ったら未だ不足な点もあるだらうが、兎も角、此の会社の創設によって我が国における田園都市の発達を促し、其後、此の種の計画が他にも行はれ、郊外に大学町のやうなものも出来るやうになったのは、健康上から云っても、教育上から云っても、思想上の感化といふ見地から見ても、頗る悦ばしい現象と言はなければならぬ。」

三、土地の買収、分譲

 まず洗足地区を買収、ついで多摩川台(現在の田園調布)、大岡山地区の用地を買収し、数年間に46万坪余りを獲得した。ついで電鉄部を設け、目黒、大岡山間の工事を行い、後に目黒蒲田電鉄に発展、大正12年3月には目黒、多摩川園間の開通にいたった。

 大正11年、第1回分譲として洗足地区5万5千余坪を353区分割、さらに住宅地区と商業地区にわけ、坪15円から45円で売り出した。応募したのは官吏、陸海空軍をはじめ、実業界の中堅幹部連が多かった。その数は266名、その後の追加売り出しで翌年始めには276名になった。

四、建築の条件

 「田園都市案内」によると、土地の購入者らに、理想的な田園都市の実現のために、建物を建てる際の具体的な提案をして、新市街の美観を損なわぬよう、促している事が伺われる。文章中では、それらは義務ではなく、「お願い」という形式をとっているが、タイトルには「建築規則」とある。

他の迷惑となる如き建物を建造せざること。

障壁は之を設くる場合にも瀟酒典雅のものならしむること。

建物は三階建て以下とすること。

建物敷地は宅地の五割以下とすること。

建築線と道路との間隔は道路幅員の二分の一以上とすること。

住宅の工費は坪當り約百二、三十円以上にすること。

 

 また、「住宅建築の設計監督規定」の項では、大工や建築業者ではなく、「相當な建築家に設計監督等を依頼」するよう示している。

 さらに購入者には欧米での生活経験のある者、または欧米の生活様式に慣れている者が多いと見て、「田園都市住宅の如きは体裁上から云っても実質上から云っても洋風建築の方が幾多の長所を持ってゐるように見受けられる」ので「洋風住宅を御希望の方々を一ケ所に纏めて洋風建築地域を造」る、とある。

 

五、未完に終わった開発

 放射状道路のアイデアは会社を受け継いだ澁澤の息子、秀雄によるものらしい。秀雄がイギリスの田園都市の元祖、レッチワースを訪れたところ、まだ開発途中で住人も少なく、秀雄の目には淋しい町とうつったらしい。その後訪れたアメリカのサンフランシスコ郊外のセント・フランシス・ウッドという住宅地は、土地の起伏があり、樹木や草花も多い美しい町であった。しかし、おそらく何よりも彼を魅了したのは、パリの凱旋門にあるようなエトワール式の道路だったのではないか。秀雄は「むろんパリとは比較にならない小規模のエトワールだったが、それはその住宅地に美しさと奥深さを与えていた。カーブのある道は、ゆく手が見通せないから人に好奇心と、夢を抱かせる。私は田園都市の西側に半円のエトワールを取り入れてもらった。」(澁澤秀雄「わが町」)

 この道路プランは現在でも、田園調布駅の西側に見ることが出来る。これが洗足にも適用されるはずだったのではないかと思うが、「郷土史 田園調布」によると、田園都市開発計画と鉄道敷設が引き金となって、洗足周辺の地価が急上昇したということである。

 大正7年11月29日の田園都市株式会社の重役会で決議された土地買収要項をみると、「洗足方面ハ最近地價著シク昂騰シ現ニ一坪八円乃至十五円位ニテ陸續取引アル趨勢ナルヲ以テ予定ノ價格一反歩七百円ニテ買収スルハ頗ル至難ノ事ニ属ス、依テ同方面ハ一時成行ニ放任シ置キ専ラ力ヲ玉川、調布方面ノ買収ニ盡シ(以下略)」

 本来の洗足地区の開発がどのようなものであったか、それはわかっていないが、昭和8年頃の東横・目蒲電鉄の沿線案内をみると、洗足駅の周りにエトワール式道路を示す図が描かれている。しかし実際にはこの時期、すでに会社は洗足地区の開発から事実上、手をひいていたと思われる。

 

【洗足会の発足】

 「田園都市株式会社は大正12年2月26日、洗足住宅地購入者一同を、丸の内生命保険協会に招き、夕食会を催した。出席者は176名。会社は購入者間の親交をはかり、かつ購入者側の希望を聞いたり、会社側の意向を伝えたりして、ともに理想的田園都市をつくりましょうと申し合せを行った。

 その席で広田四郎氏(報知新聞編集長)が委員会を設ける事、委員長には海軍大将山屋他人氏を推す事を提案し、一同が賛成したので、山屋氏が委員長となって、暫定委員を指名した。」(「会員名簿」より)

 この事から分かるのは、洗足会が土地購入者によって自発的につくられたものではなく、会社から促されてできたものである事がうかがえる。しかしこの時点では暫定的な委員会であった。「会員名簿」には、最初の委員会で話し合われた内容が記載されている。

 「4月12日、第1回委員会を水交社で開催、会社に対する購入者の要望事項を決議し、これを同21日、会社に提出した。その主たる事項は

洗足地区は行政上、碑衾、平塚、馬込の3ヵ村に分属しているので、施設などが一緒に出来ない。土地分譲の際、洗足地区内に小学校を建てるとの約束があるので、その実現をはかるためにも速やかに方策をたてよ。

電線を地下方式とする事。

都市瓦斯供給計画を実現する事。

目下の処、電熱を代用する他ないので、配電容量を十分にする事。

上水道を急ぎ設けよ。

下水道を暗渠式にすること。

洗足駅設備を改善し、各戸1名に無賃乗車券を交付せよ。

小公園を多く作り、運動場を増設せよ。

小学校を至急建設する事。

保安施設を急げ。

等など、29条にわたって要望した。これに対し会社は5月10日回答した。

将来洗足地区の発展によって、独立の自治区劃になる事を期待するが、みなさんも協力してほしい。

電灯線は当初から架空式設計である。

都市瓦斯供給については、慎重に研究している。

配電容量については、十分の設計がしてある。

上水道については、多摩川流水を引用する計画で、官庁に認可申請中である。

下水道は現状の程度で設計した。辛抱してほしい。

大正12年中に移住の方には、1戸1人に洗足目黒間の1年定期券を贈呈する。

運動場は洗足に作れない。田園調布に野球場、テニスコートを作っている。

とりあえず巡査を置くことにする

 その他については、大体出来る限り、要望に沿うべく努力致します。」

 このようにして、購入者と会社は一致協力して洗足田園都市の発展に努力し、住みよい洗足を作ったのである。」(「会員名簿」より)

 現在でも洗足会に入会出来る居住エリアは品川、目黒、大田区にまたがっているが、当初も碑衾、平塚、馬込の3ヵ村の行政地区にまたがっていた。そのため小学校の建設が議題にあがっているが、結局独立の行政区にするための委員らの努力は功を奏せず、小学校の建設も実現しなかったようである。また居住者の中には生徒数の少ない小学校を建てるよりも、市内の優秀校に通学させた方がよいという意見も出てきたらしい。

 そこで会社は代案として、宅地約250坪と金5万円を購入者一同に寄贈するということになった。実際には山屋他人を中心とした洗足会にそれらが寄贈された。

 初めは任意団体であった洗足会だが、昭和4年12月20日社団法人となった。前記の土地と金の寄贈と、会の社団法人化の前後は明らかではないが、洗足会は寄贈された金を建築資金として、その土地に会館を建てることを計画した。

 昭和5年の秋、会員服部文四郎の設計により、約3万円の予算で起工、6年春竣工した。同5月5日には落成式が行われ、会員とその家族数百人が招かれ、ホールで終日演芸などの余興を楽しんだ。(「会員名簿」より)

 そして時は流れて、昭和59年4月に就任された理事長は「会員名簿」の挨拶文でこう述べている。「洗足会は永く洗足に住む人々とその子孫を中心としてこの地区の保全に努力していく任務がある」、また「地区の文化を高め住民相互の親睦に力を致す推進力となる事が望まれ」る。(「会員名簿」より)

【洗足会の現在】

 前述の通り、会の発足から約72年が経っている。発足から現在にいたるまでの活動については、まだ何もわかっていない。おそらく初代のメンバーはもうなく、今は彼等の2世が後を継いでいるはずである。その方々へのヒアリング調査を今後行いたい。しかしそれらの人々もかなりの高齢であるので、その調査は急務である。

(現在私が知っていること)

会費1000円/一人

洗足会に入会可能な居住エリア(目黒区洗足2丁目、品川区小山7丁目、旗の台6丁目、大田区北千束1丁目、2丁目)

現在の会のメンバーは設立当初のメンバーの2世が多いと思われる。

社団法人について管理人さんの収入→年の収支をチェック

管理人さんの収入は主に場所貸し?(町会の会議場、バレエ教室、手描き友禅、日本舞踊、木彫、唄など、)

1年を通しての活動(新年会は名刺交換会とも称されているが、名刺を交換した事はない、毎年同じメンバーが集うのだから当然だろう)

 

■問題点

 若手、後継者不足(洗足会の行事といえば敬老会、年に一度の日帰り旅行、新年会くらいのもので、我々が参加できそうなのは新年会くらいのものだった。旅行など平日に設定されていては、普通の勤め人が参加出来るはずもなし、これでは若い人が参加できないはずだ。)

 町に開かれていない(洗足会報にあるように、会員がふらりとやってきて、気軽に楽しめるような空間として解放されていない。当初は囲碁をおいてあったり、団欒するための空間であったらしい、本当のところはどうだったか)

 実際の町の行事や連絡などは、行政区画であるそれぞれの区の町会が行っていると思われる。ならば洗足会として存続していく意味は?(管理人さんの仕事の確保もあるだろうが、前管理人さんがやめる時に会を解散することもできた。または稽古ごとの場所貸しの問題か。それともご老人方が、年に数回交流するために会が必要なのか。)

 

■調査予定事項

ヒアリングまたは文献調査

会館オープン後の建物の使われ方(団欒、また場所貸しもあったようだが本当は?)

また町会の有無、その頃も会のエリアは3ヵ村に渡っていた。

そうであれば、町会としての活動と洗足会としての活動の違いは?

管理人の有無(現在とどうちがうか)

当時の田園都市株式会社が分譲した、洗足地域のエリア

その時建てられた建物(設計、施行者などもわかれば)、また今残っている建物、部分などがあるか。もしくは写真など

現在の会員数と内訳(年令なども)、また理事会の顔ぶれと会に常に参加している面々

その他当時の思い出話しなど

洗足の開発が途中になってしまったいきさつ(もう少し詳しく分かれば)

駅が現在の三越の辺りのはずだった事について。

田園都市株式会社はいつまであったのか。

会社側のイニシチブによって、駅周辺の商店が出来たようだ。現在の洗足の商店街は活気があるとはいいがたいが、武蔵小山、西小山などはとても賑わっている。両駅周辺の土地、商店街について分譲があったのか。それはいつか。

資料収集

 洗足会報全巻

 当時の状況の分かる写真

 地図(田園都市株式会社設立前からの)

その他

社団法人について(前管理人さんの話によると、役人が調査に来ることもある。実体のない会は解体すべきということかもしれない)
 

■会の展望

 もしもっと町に対して開かれるとすれば、どのような事が考えられるか。教室として貸し出す以外の日に、洗足会が主催する映画会とか、子供達を集めたイベントなど?それに対して現在の会のメンバーはどう考えるのか。

 

←神楽坂建築塾