神楽坂建築塾 第二期 修了論文

大工顛末記

  高木孝治

■はじめに

 今、大工として3つ目の季節を向えようとしている。
 大工として半年が過ぎた。
 朝一番のまだ車も人もまばらなしんと静まった現場へ向かう道も、今となっては通いなれた道だ。私は今、社寺建築、民家の再生、文化財の修復等を手掛ける会社で大工として働いている。
 掃除をする・お茶を汲む・鉋や鑿を研ぐ・先輩大工さんのテコ(手元)をする。しょっちゅう怒鳴られ、ごくごくたまにほめられる。これが現状である。

 山形の冬は寒く、夏は暑い。この仕事を始めてから体重は一時期10キロも減った。手は荒れヒビだらけである。
 しかし、充実している。
 それは何故か・・・好きだから。
 ここに記すのは、そんな一見簡単で易しい答えを導き出すまでのクモンとクノウ、そしてヨロコビの日々の出来事である。

  

◆ 2000年6月12・13・14・15日

 2000年6月12日。私は福島県南会津郡田島町にいた。目的は鈴木喜一先生に人を紹介して頂くため。先生は田島に専門学校の講師としてやって来ることになっており、私はそれに同伴させてもらうことにしたのだ。
 当時はまだ、喜一先生とはほとんど話をした事が無かった。ただ5月の中旬に行われた第1回目の建築塾において「来る?」と言われたその一言だけを頼りにそこを訪れたのだった。そして、その一言から、自分の周りの何かがグルングルンと音を立てて急に動き出し始める事になる。
 自分なりの答えを探す旅の始まりだった。

 2000年5月31日私は会社を辞めた。
 そもそも仕事に何かしらのギモンとイラダチを感じていたからこそ、はるばる仙台から東京は神楽坂の建築塾に通うことにしたのだった。そこで平良塾長の講演を聞き、頭をガツンと殴られた様な気がした。体でまず覚える建築教育、消えつつある質の良い職人。そうだ、そうなんだ。迷っていたのだ。当時私は、ランドスケープデザイン・都市計画を主な仕事とする会社に勤めていた。古い町並み、民家が好きでそれらを訪ねてはスケッチを繰り返していた。残すならば街並みを。単体としてではなく集合体として残さなければならないと勝手な正義感に燃えて入社したのではあったが半ば挫折しかけていた。目の前にある現実と理想のギャップに。仕事を上げる事に追われていた。圧倒的な仕事の量を。現場の事では何が起きているのかも分からずに、どんどん図面だけは出来ていく。このままで良いのか・・・。
 自問自答を繰り返していた。
 そこでずっと心の中にあったある一つの事柄が大きく頭をもたげつつあった。それは、大工になるということ。そしてその考えは日に日に自分の心を支配しつつあった。平良先生の話を聞いたのは、ちょうどそんな時期だった。

 仙台へ戻り間もなく、喜一先生からの手紙が届いた。そこには万年筆で
「来るならいつ来てもいいです。6月12〜15日は会津にいます。」
 とだけ書いてあった。なんだか笑っちゃうほど気の抜けた字だったが、行こう!と思った。
 そして、会社を辞めた。

 会社を辞めるにあたり、なぜ大工になりたいのかを説明しなければならなかった。「やってみたいから」「好きだから」この言葉しか思い浮かばなかった。そんなんでどうするんだよとも言われたが、あれこれ理由を付け加え説明したとしてもそれは建前にすぎず、この言葉こそが自分自身そのものであり、全てだった。

 後日の談になるが、日影良孝さんになぜ民家の再生をしているのか尋ねた所、「かっこいいから。」と、即答された。やっぱり自分の答えは間違っていなかったんだと改めて納得したものである。

 会津田島で宿泊したのは国登録有形文化財である和泉屋旅館。ここ会津田島において古い建物や森や林を残すことの意味について、血として熱として触れることとなる。

 1999年10月号の住宅建築誌上で紹介されている南会津地域文化研究会の代表渡部康人さん、大工棟梁の齋藤辰夫さんを紹介して頂いた。
 齋藤さんは自らの手で「山荘旦旦」という民家型ギャラリーを造りあげており、渡部さんは彼が中心となり、旧会津山村道場を構成する建築物群の保存という事業をその手で成し遂げていた。
 夜は喜一先生を中心に話題が途切れることは無かった。齋藤さんは山荘旦旦を含めた古民家について熱っぽく語り、黒い目をクルクルとよく動かしながら話しをする渡部さんの口からは、次から次へと言葉があふれ出た。飽和するような言葉に包まれながら、体が確かに反応していた。渡部さんに古い建物を残すことの意味について聞いてみる。すると、「子供たちがよく遊びに来る様なお菓子屋が100年前の建物だったらそれだけで面白いでしょ。」と。

 次の日渡部さんに連れて行ってもらったブナの天然林は今でも忘れられない。目を閉じるとすぐそこにあの時の光景が目に浮かぶのである。
 6月だというのに山のあちこちにはまだ雪が残っていた。必死のおもいで雪解け水の流れる沢を越えた所にそれはあった。触ってみないと分からないと言われ、触ったときのブナの圧倒的な存在感といったら言葉ではうまく説明できない。ただ森や林を守ることの意味を頭ではなく心で理解した瞬間ではあったと思う。
 会津田島において心がヒリヒリするような経験をして「日本の文化とは」「俺が一人で出来ることは何だろう」と改めて自分を見つめ始めた。

 

◆ 鈴木喜一考

 はて鈴木喜一先生とはいかなる人物か?

 喜一先生と過ごした約4日間。難しい建築の話をするわけでもなく、ただひたすら絵を描き、温泉に入り、酒を飲んでいた。そして、仕事を少々。しかし、つくづく感じた事がある。それは先生の人を引きつける力だ。ほんわかした空気の中で笑いながら冗談ともつかない事を平気で言っては、いつのまにかそれが実行として動き始める。口で笑っているが眼鏡の奥の目がギラリと光るその瞬間、無謀ともいえる要求に対し人は「ハイ」と答えてしまうのであった。それが先生の魅力なのかも知れないなぁと思った。こういう力があってこそ事が成っていくのであろう。

 

◆ 出会った方々 そして

 この時、実はまだ迷っていた。

・大工になるのに年齢的(25歳)に遅すぎるのではないか。
・1人前になるのにどのぐらいの期間を要するのか。
・修行はどこで(場所)すべきなのか。
・古民家を施工する会社はあるのか。
・住みにくいと言われる民家は残すべきなのか。
・設計事務所で民家に触れながら仕事をしたほうが良いのではないか。
 etc……

 当時は大工として生きていくための道が全く見えず、暗中模索の状態であり、すべきことを把握出来てはいなかった。しかしもろもろの想いを抱えながらもとにかく動き出した。
 田島での最後の夜の事。何故かそこに千葉工務店の社長、千葉弘幸さんがいた。先生に紹介され、また温泉へと向かうのであった。
 次の日には千葉工務店を訪ねていた。千葉さんはほとんど初対面の私の話を聞いて、「うちに来るなら来てもいいよ。」と言ってくれた。その上「焦らず、他の所見てからじっくり決めな。」とも言ってくれた。アテもなった。そんな私にはどんなに嬉しい言葉だったか分からない。
 それから
 設計工房 禺  対馬 英治さん
 大工塾     丹呉 明恭さん  大工塾の皆さん、大工塾講師 六車 昭さん
 ササキ設計   佐々木 文彦さん
 熊谷産業    熊谷 秋雄さん

 そして、ここには書ききれないほど多くの方々にお世話になった。
 皆さんに私の様な若輩者の話を真剣に本気で聞いて頂き、その上でとても為になるアドバイスもして頂いた。私が出来るお礼と言ったら、自分が歳を重ねた時、自分がして頂いたことを次の世代の人達に施してやる事が一番の恩返しになるのではないだろうかと思っている。
 植久さんの紹介で大工塾へ行ったときの事である。
 大工塾へは全国から問題意識を抱えつつ働いている若い大工さん達が集まってくる。その方々に自分の抱えている疑問や悩みをぶつけてみた。
「年齢なんて関係ないよ。俺なんて27歳から大工になった。」
「大工はどこで覚えても同じ。要は技術を覚えればいいんだから。でも、大工は地元の繋がりが大事だから、地元で修行した方が良いんじゃないか。」
「大工はやっぱり造っているっていう実感がいいね。」
又、丹呉さんに言われた一言がとても印象に残っている。
「民家、民家と言うけれど、今実際に再生されているのは10の内の素晴らしい1棟ぐらいで、残りの9棟をどうするか考えていくのが俺たちの仕事なんじゃないか。」

 大工塾の大工さん達と話をしていくうちに心の奥のモヤが晴れるのと同時に、背中をポーンと押された気がした。

 よし、大工になろう。

 

◆ 敢えて文化について

 まず私は根っからの日本人であり、東北人である。
 そして、東北各地の民家を見て思ったこと。「カッコイイ」である。
 吉田桂二さん著の『保存と創造を結ぶ』の中にこうある。
 それは、美的感性における『民族的規範』だと。

 かつての日本は流入してきた異質文化を常に同化しつつ新しい文化を築いてきた。そして、それが結果的に日本の文化になってきた。
 しかし明治以降、自国の文化を否定し、古いものは悪いものだと決め付け向こうへ追いやり、欧米の文化に学べということを一辺倒にやってきた。その結果、類まれな経済の発展を遂げる一方で綿々と受け継がれてきた日本の伝統文化を危機的破壊状況に追い込む結果となった。
 しかし、ブルーノ・タウトにより桂離宮の美しさを再発見されたり、また絵画の世界においてはモネにしても、ルノワールにしても、ロートレックにしても日本の浮世絵が多大な影響を与えていたりする。そういった事実があることも知らねばならない。
 今こそ、日本人として自分の足元を見つめ、感性の潤いを取り戻す絶好のチャンスなのではないだろうか?
 私は、民家を見て「美しい」とか、「カッコイイ」とか思う自分の心を大切にしたいと思うのである。
 そして、私は山形に向かった。

 

■大工として

 大工としての道はまだまだ始まったばかりであるが、まず一人前の大工になる事を大前提として一つ大きな目標を掲げたいと思う。それは、部分的に習熟するのではなく全体を見る立場、かつての棟梁と呼ばれる人達と同じ立場の棟梁になっていきたいということ。
 そして、その上でその土地の自然環境と長い間そこで生き続けて来た人達の暮らしぶりを見習い、それらを踏まえながら、未来へとつなげる「風土」を創っていきたい。
 そのために、その土地にあるメッセージを感じ取れるような感性をもっともっと磨きたいと思う。
 そうすることで「カネ」や「モノ」ではない何か。言い換えるとすれば「本当の豊かさとは何か」が見えてくるような気がしてならないのである。
 そして最後に、これは親方からの言葉である。
「俺はお前たちにああしろ、こうしろとは言わない。でもこれだけは言っておく。仕事を好きになれ。」

 

■あとがき

 この一年を振り返って今、はたと気づくことがある。
 「技能の復権」をテーマに神楽坂建築塾・第2期は始まった。
 この一年、自分なりにいろいろ悩み駈けずり回ったわけではあるが結局の所、建築塾という大きな掌のなかをころころ転がって、その範疇にしっかりと収まっていたということである。そう思うとき、平良先生や喜一先生がにんまりとほくそえんでいる画が浮かぶのは私だけだろうか。

<参考文献>

職人と匠     技報堂出版  金子量重・丹野稔・竹林征三  著
保存と創造を結ぶ   建築資料研究社       吉田桂二  著
住宅建築1999年10月号   建築資料研究社
住宅建築2001年 1月号   建築資料研究社
宮大工千年の知恵      祥伝社        松浦昭次 著

←BACK