神楽坂建築塾 第二期 修了論文

神楽坂建築塾日記 その2

  時森幹郎

■#02:5月14日(日)

小金井の江戸東京たてもの園を訪れる。もともと建っていたところで存在し続ける事が不可能になった歴史的あるいは文化的に価値の高い建物をここに移築復元し、集められている。第二次世界大戦時に多くのユダヤ人を救い出した「シンドラーのリスト」のようだ。そういう主旨では川崎市立日本民家園も同じと言えるだろう。今後もその救出活動は続けられ東京の町並みを再現するそうである。

当然、建てられた当時の場所性は失われてしまっている。つまり建物それぞれの周りの様子が全く違っているのである。園内に町並みを再現すると言っても、人が住んでいる訳ではないのでデモンストレーションの域は出ないのかもしれない。とは言っても、きっと命からがら救出されてきたのだから、あまり文句を言ってはバチがあたりそうである。そこはイマジネーションで補う必要があるだろう。こうした施設を造らなければ、歴史や文化を次世代に伝える事ができないのが現状なのだのだから。お陰で、江戸から昭和に至るまで一同に集められているので、住まいの変遷を実際に見る事ができ、ちょっとしたタイムトリップも体験できると考えたほうがいい。

スケッチする事はそのイマジネーションを増幅する効果が期待できる。午後はそれぞれ思い思いの場所でスケッチする事になった。僕は、前川国男邸を描く事にした。大きな切妻屋根がとても印象的だ。隣には堀口捨己の小出邸がある。その間に小道が通っているがいかにも見学用であり、これらの名建築が住宅展示場のように建っているのはどうにかならないものか?とも思う。イカン!文句は言わない約束だった。考えてみれば、この二人の作品が隣同士にあるのはここだけだろうから、そういう意味ではおもしろいかもしれない。そう考えることにしてイメージを膨らませる事としよう。

聞くところによると、戦時中の建築資材が使用制限され延床面積も100平米以上は禁止されているという困難な状況下での建築であったという。また、銀座の事務所が焼失した際には住宅兼事務所としても使われた時期があったのだそうだ。こういった話はイメージする助けともなる。この住宅はもともと品川にあり、平良さんはそこと言うかここに前川さんの原稿を取りに来た事もあるんだと話してくれた。ちょっとだけ自慢気であった。ちょっとだけ。僕が友達に「きのう、平良さんとお話したんだ。」と自慢するのに似ているのかもしれない。若き平良さんが電車に乗って品川に向かう姿が浮かんでくる。と同時に僕の気分も品川に向かっている。前川国男は僕にとっては歴史上の人物のような存在であったが、いくらか近い存在になったような気がした。場所に積層する地霊(ゲニウス・ロキ)が、場所を離れてしまった前川邸をその元々の場所である品川に呼び戻す事もあるのかと感じた。

■#03:6月17日(土)

実は藪野さんには去年の夏、弘前でお会いしている。アユミギャラリー主催で毎年恒例となっている「近代建築史への旅スケッチ展」その10回目の地方巡回展が弘前で行われ、ツアーに参加したみんなと一緒に温湯温泉に泊り、まち歩きしながらスケッチもしたのである。

先週も建築学会主催の東京ウォッチングに参加し、藪野さんとお茶の水神田を一緒に歩いた。

藪野さんは、とにかく楽しそうで、元気である。特筆すべきは、それが「いつも」で「とても」な事である。ずっとこのハイテンションで疲れないのか?この人いったい何歳だっけ?と不思議になるほどである。今回の講義も絶好調で、その内に右手ではホワイトボードに絵を描きながら、口では違うことを喋り出したりとテンションは上がりっぱなしであった。右脳で絵を描きながら左脳で喋っているのか、さもなければ脳が4つぐらいに分かれているのか定かではないが、ほっておくと、それがいつまででも続きそうな勢いであった。考えるより先に手と口が動くのであろう。

マドリードの美術学校に留学したエピソードも話されていた。実は建築の学校に行くつもりでマドリードに渡ったのだと言う。それが、どうして美術学校に行く事になったかと言うと、行くはずだった建築の学校の隣にその美術学校が有り、急にそっちに行きたくなったからなのだそうだ。「入れて欲しいと言ったらダメだと言われた。」そりゃそうだろう。でも毎日通ったら、「見学ぐらいならいいよ。」になって、その内に入れてくれた。と嘘のような本当の話をしてくれた。藪野さん曰く「やっぱり、やりたいと思った事は続けているとそういうふうになるもんだね。」そういうふうになるのは喜一さんと藪野さんぐらいじゃないのか?とも思った。

僕の友達のイソチャンはある高校を受験した時の面接試験で「なぜ本校を受験したいと思ったか?」の質問に「木がいっぱい生えているから。」と言ったら「君は本校をバカにしに来たのか?」と言われ不合格になったが、彼も「入れてくれ。」と毎日通えばよかったのか?とも思った。もっとも、彼は「なにも、あんな言い方することなにのに。」と怒っていて、その高校がイヤになったと言ってたから、万が一にもそういう事にはならなかったのではあるが。ちなみにイソチャンは併願していた他の高校に合格して無事入学していた。

講義のあと「君がいつも泊まっているという一水寮を見たい。」というのでヨネちゃんと一緒に御案内した。「こういうのいいなあ。」と感動していて、「君が先週、神田のまちあるきを終えてから、ここに行くんだと言っていた気持ちが良く分かる。シッポ振ってたもんね。」と言われた。ギャラリーに戻る途中で「ここに寄ろう。」と向いの古本屋、浪漫堂に立ち寄った。「いやー結構面白い本ありますねえ。」と店員と話し出した。「僕、会員になりたいなあ。」と言っている。この人、何にでも感動するんだ。と感心した。会員の手続きをしながら、「君も是非なった方がいい。」と言うので静岡に住んでるのにどうしたもんか?とも思ったがそんなに薦めるならと僕も会員になってしまった。それからというもの、浪漫堂の会員番号が藪野さんの次ぎなんだとみんなに自慢している。ちなみに住所は一水寮になっている。

■#04:6月18日(日)

早稲田界隈を薮野さんと歩く。昨日の雨が嘘のように晴れ上がっている。まだ6月だというのに真夏のような暑さだ。地球温暖化の影響だろうか?薮野さんのパワー賭け過ぎなのか?そんな暑さの中でもやっぱり元気な薮野さん。とにかく歩くのが早い。ちょっとゆっくりしていると振り切られそうだ。逸れるとすぐさま、事前にスタッフと確認し合っていたケータイに電話していた。「委員長。いまどこ?」委員長とはスタッフの渡辺さんの事だ。ちなみに先週のまちあるきでも委員長を連発していた。薮野さんの中では、建築塾に限らずスタッフはみんな委員長のようである。

みんなには、薮野さん直筆の絵地図が渡されていた。ところどころにウマだかイヌだか分からないのが居たり、ネコだかウサギだか分からないものが何かしゃべっていたりする。本人に何らかの意図があるというよりも何かが描かせていると思われる。それは地霊(ゲニウス・ロキ)である。この絵地図に現れた不思議な生き物はその化身なのである。

そんな化身達は言い知れぬ憤りを訴えている。これまで日本のまちなみは破壊され続けてきた。大平洋戦争の空襲、東京オリンピックに象徴される高度経済成長、バブル期の地上げといった大きな波が幾つかあった。今は出口の見えない史上空前の不況などと言われ建物を壊すその訳が見当たらない。にも拘わらず、波が無いにも拘わらず、これまで幾多荒波を潜りぬけてきた建物やまちなみが壊されようとしているのである。

■#05:7月8日(土)

これまでの行政は、公共の福祉と言う大義名分を振りかざしマイノリティーを駆逐することが目に付いていた。例えば、幹線道路の拡張は渋滞の解消のため、住民は立ち退きを迫られ、市民の利便性がどうのこうのと使われるかどうか分からないハコものを造り続けてきた。また、国や県など行政が取り仕切る「制度」というものはとかく規制や指導するものが多い。

ところで、登録文化財制度は珍しく一般市民が道具として利用できる制度ではないだろうか?既存の文化財制度はお上が「指定」するものであったが、この制度は市民が「登録」するのである。また、保存を主なる目的としながら増改築も認められており、大幅に外観を変える事、取り壊しですら、届出だけで制限はしない。文化財でありながら規制はほとんど無いと言っても良い。文化財になっても今までと変わらず使用できるのである。活用しながら保存する考え方なのである。と言う話を聞くと、とても画期的な制度のように思える。

でも、登録文化財になったからといって格別何か得をすると言う訳ではない。優遇措置は「保存や活用する為の修理における設計監理料を国が半額補助する。」などといった程度のもので、例えば、毎年幾らかお金を貰えるとか、売る時に高く売れるだとかいう儲かる範疇のものでなければ、宝くじのように当たりというものがある訳もなく一攫千金を夢見る事もできない。ただ今登録にた方にもれなくおしゃれ小鉢が貰えるといったオマケすら無い。貰えるのは登録文化財を表すプレート1枚だけである。だったら殊更、文化財なんかにならなくてもいいや。という話になってしまう。

でも、損した得したというみみっちい事は言わない方がいい。確かに、自動販売機でウーロン茶でも買ったとしよう。最近よくある当たり付きのヤツと知らずにだ。それが運良く当たったりして、さらに、おつりが10円多かったりしたら、その日1日いい気分で、ささやかな幸せを感じたりするものではある。しかし、それ以上の幸せを得ようとするならば、普段の生活に困っている訳でも無い限り、血眼になって、ちょっとでも儲けよう人より得しようなどと、あまり思わない事である。そう思ってしまうと、かわいい70歳にはなれないし、恐らくマドリードの美術学校にも入れないだろう。幸せはちょっとだけがいいのである。ちょっとだけが。

仮に、登録文化財に多額の賞金が掛けられたとする。すると、今より各段に多くの登録がなされたかもしれない。でも、考えても見ろ。ご近所では「あのお宅、登録やったそうよ。」「やーねェ、賤しいったらありゃしないわよねェ。」「そういえば、この前も登録鑑定団ってテレビにも出てたわよ。」「そうそう『いい仕事してますねェ。』ってなんとかって建築家が言ってたわァ。」「あの人があのセリフ言うのと言わないとじゃあ、お値段が全然違うんですって!」「そうなの?!知らなかったわァ」なんて陰口を叩かれるのがオチである。

損得という個人の立場抜きに、世のため人のためって思わなければならない。かわいい70歳への第一歩であると共に「場所性への回帰」への一歩である。

■#07:8月12日(土)

寺田さんはなにも著名な建築家でもなければ大学の先生でもない。東大卒で長年一流企業に勤めてきた経歴を持つが、今は定年退職して普通の一般市民、平たく言えば「近所のおじさん」にすぎない。が、著書「東京−このいとしき未完都市」にも見られるように、誰よりも生まれ故郷の東京を愛し、日本を愛し、まちづくりを実践する市民である。まちづくりを語る場合、この市民であることが極めて重要である。

しかし、現在の日本ではこの市民によるまちづくりができにくい状況にある。そもそも、人々がまちに住んでいないのである。

と言うのは、日本における市民の典型に寺田さんのような会社で働くお父さん、サラリーマンが上げられる。特に戦後復興期には豊かな生活を求めてモーレツ社員などと呼ばれ、昼夜を問わずひたすら会社の為に働きに働いてきたのである。家ではほとんど寝るだけで、たまの休日も接待ゴルフがお決まりで、一国一城の主などと世間に煽てられながらも、その実情は「亭主元気で留守がいい。」訳なのであって、それでも常勝巨人軍に我が社を重ね、長嶋茂雄に我が身を映して孤軍奮闘してきたのである。

もともと、日本人の住まいは生活すると共に仕事する場が必ずあり、家族一同がそこで働き、そこに住んでいたのである。その生活と仕事の分離に伴い核家族化が進行、村も解体され過疎化が進み、人々は都市に集中し、会社という別のムラを形成するようになったのである。そして、住まいは住むだけになってしまった。そういった住まいの移り行く様が江戸東京たてもの園においてが見ることができる訳であるが、住まいは住むだけどころか建築家宮脇檀氏が言うように「会社に住み、住まいに寝る為に通っている。」というところまで来ているのが現状である。

「今日は残業なので行けない」と彼女にメールを打つキムタク。振り向きざま「残業なんてすることないさ!」とに突然話しかける見ず知らずのリストラされたサラリーマン風、岸部一徳。「結局、会社はなにもしてくれない。」「会社は家族とは違う。」はテレビコマーシャルのワンシーンであるが、お盆や年末年始に閑散とするビジネス街を見るときにも、会社というムラの存在の希薄さを実感せずにはいられない。人は住まいにも住めず、かと言って会社に住んでいる訳でも無く、ではいったい現代人はどこに住んでいるのだろう?

江戸東京たてもの園で平良さんが言うように、まずは、昔の職人のようにまちに住んでそのまちで働くようになる事。そして、宮脇檀氏の著書「父帰る」にあるように町内の事をお母さんに任せっきりにしない方がいい。それが市民になる為に始めることなのではないだろうか?

永久欠番3をいつ見せるか?だけで大騒ぎになるのを見て、ふと、あの高度経済成長を支えたお父さん達は、長嶋茂雄に住んでいるのではないだろうか?とちょっとだけ思うのであった。ちょっとだけ。

■#08:8月13日(日)

神楽坂を歩いて地図を描こうという事であった。喜一さんがいつも建物や風景をスケッチするように、気の向くままにまちを歩きながら、まちをスケッチしようと言う訳だ。

メンタルマップと言うのに似ている。測量による地図の事ではなく、人それぞれの頭の中にイメージされた地図の事である。イメージマップと言った方が分かりやすいかもしてない。自身にとって重要なもの程、強調されたり、多く表現されたりする事が往々にして有り、一般的に自分の良く知っている所が詳しく、なおかつ近くに描かれると言われ、行動範囲が広く知識が多い程、実際の地図に近づくらしい。記憶を元にしたイメージで描かれるものなので、見たものをスケッチして描く今回の地図とは、ちょっと違うかもしれない。ちょっと。しかし、描く人によって異なったものになる点では共通点もあるように思える。スケッチマップとでも言えばいいだろうか?喜一さんの描かれたものや、先日早稲田のまちあるきでの藪野さんの地図がいい見本である。

残念な事に、外はあいにくの雨であったので急遽スライドと講義となった。

中止となってちょっと考えてみた。ちょっと。実は、地図を描くのに最も適した方法は、雲のように漂いながら、まちを俯瞰して描くのが良い。でもそれはできそうにないので、まちに居ながらにして描かなければならない。しかも、随所にスケッチを織り交ぜるとなると結構高度な作業のようにも思える。

 イタリアはセリエAで活躍中の中田英寿選手は相手チームのバックラインの裏へ出すスルーパスに定評があり、パス一本で決定的なチャンスを作るので特にキラーパスなどと呼ばれている。最近では1対1での局面でも、セリエAの強い当りに相対して潰されることはなく、日本代表チームにおいては中心的存在となり、その実力は世界のトップクラスと評価されている。彼はボールを持ったときに、相手の強力なタックルに遭遇しても、取られない事、倒れない事だけに終始し四苦八苦してはいないのである。それでは、そのディフェンスをかわしたとしても、その後のスルーパスを前線に供給することはできない。常に全体を把握しているのである。

局所的な事柄から始まって、ある全体というものを意識しながら広がっていくこの様は、まちづくりの考え方そのもののように思える。

外は知らぬ間に晴れていたので、神楽坂のまちを歩く事になった。神楽坂のまちづくりの会によって編集された「神楽坂・楽楽散歩」というA1サイズ程の絵地図が配られ、立壁さんの道案内で歩く。去年と同じような所を歩いたのであるが、去年歩いた時そのままの印象の所もあるが、変わっている所もあった。毎月のように神楽坂に来ているのに、初めて通る道も有り、去年以来1年振りに訪れた場所もあった。去年と同じようであっても全く同じではない。誰かが、世の中、同じことが何度となく繰り返されることがあるが、全く同じと言う事は有り得ず、螺旋的成長を続けるというような事を言ってたような気がするが、それを実感したひと時であった。

ところで、地図はそもそも、誰かに説明すると言う目的で作られると言う事に気付いた。それでは、スケッチマップの目的は何か?それは描く事それ自体に内包されているのではないだろうか。

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