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1.はじめに |
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『銭湯』この言葉を聞くと塾生はまず「第三玉ノ湯※1」を思い浮かべるのではないでしょうか?そうゆう私も第一期の頃初めて(記憶の限りでは温泉や健康ランドのようなものをのぞく)銭湯なるものを体験いたしました。そこの多くの人々が訪れ顔の知りもいればよそ者もいる、全くほかと異なったコミュニティの空間がそこにはありました。そんなお風呂のことを少し調べてみることにしました。
そもそも日本人を形容するフレーズのひとつに、「風呂好き」があります。西欧でもアジアの近隣諸国でも、主流はもっぱら水浴やシャワー。湯船にざぶりと体を沈めれば、浮き世の憂さもどこへやら、湯気の中で鼻歌交じり、ああ極楽、極楽・・・。そんな入浴風景は、実は日本ならではのもので、世界的にも珍しい習慣なのです。 東京ガス・都市生活研究所の調べによれば、日本人の夏の平均入浴回数は週に9回(うちシャワーのみ4回)、冬は6回(1回)だとか。世界に冠たる(?)「お風呂好き」、その萌芽は、江戸時代までさかのぼります。もちろん江戸時代以前にも入浴という習俗はありました。湯船にお湯をたたえた「湯」も、蒸気を利用する「風呂」も、はるか昔から存在していました。が、入浴は身分の高い人間の特権であり、庶民にとって、寺院などが慈善事業として一般人に入浴させる「施浴」のみが数少ない入浴の機会でした。
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2.贅沢の「風呂」から憩いの「風呂」へ |
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奈良時代に始まった施浴の習慣は、鎌倉時代に入ってもっとも盛んになります。 |
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3.銭湯を中心に花開いた大江戸コミュニティ |
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江戸では水や燃料は貴重品。さらに、火事を防ぐために幕府が内風呂を奨励しなかったこともあって、銭湯は生活に欠かせないものとなり、江戸中に広がっていきます。江戸時代も後半になると、入浴はいっそう身近で日常的になり、長屋暮らしの庶民であっても行水で済ませるばかりではなく、子供たちを連れ、あるいは夫婦連れだって、ときとして銭湯に通うようになります。銭湯でのおしゃべりや息抜きも大きな楽しみで、裕福な商家や武家は月ぎめの札を買い、中には朝昼晩と湯に入る豪の者も登場しました。衣服を脱いでしまえば武士も町人も同じ、貧富の差も問題にはならず、身分制度の厳しい時代にあって、銭湯にだけは万人平等のなごやかな光景がありました。湯気の中におしゃべりの花が咲き、うわさ話や情報が飛び交い、奉行所の役人も銭湯で聞き込みをしたといいます。銭湯はコミュニケーションの場、一種の娯楽や社交の場としての機能を果たしていたのです。 さらにここで銭湯は大きく変わってゆくのです。そう二階風呂と湯女の登場です。 江戸時代の銭湯は朝からわかして、タ方七つ(午後4時)の合図で終わります。前に述べたように銭湯は上下の別なく、裸の付き合いができる庶民のいこいの場所でした。やがて銭湯で、客に湯茶のサービスもするようになって、揚女が大活躍します。というのは、この湯女たち、昼は客の背中を流していますか、タ方4時を境に、客をもてなします。というわけで、湯女風呂は商家の旦那衆や若者たちの間で大評判になります。そんな中でも特に人気の高かったのが「丹前風呂」。堀丹後守の屋敷前にある銭揚というところから付けられましたが、ここの「勝山」という湯女がたいへんな人気で、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳によまれたほどです。また、このあたりに集まる男たちの風俗を称して「丹前風」と呼び、歌舞伎にまで取り上げられました。こうして湯女風呂は栄える一方、全盛期は吉原遊廓がさびれるほどのにぎわいだったといいます。 一方、幕府は風紀上の理由から、たびたび禁止令を出しますが、ほとんど効き目はない状態でした。しかし、元禄16年(1703)江戸をおそった震災が引き金になって、湯女風呂は自然消滅します。が、銭湯は相変わらず、江戸庶民のいこいの場として存在しました。天保のころ(1830〜44)に流行した「二階風呂」は町のサロンという雰囲気でした。浴客は、銭湯の2階にある広間にあがり、茶を飲んだり、菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽しんだりしました。
大正時代になると、さらに銭湯は近代化されて、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、タイル張りに。そして、昭和2年(1927)には、浴室の湯・水に水道式のカランが取り付けられ、衛生面でも向上します。 今日では銭湯もさまざまな趣向が凝らされ、サウナを設置したり、気泡風呂にしたり、スポーツ設備を整えたりなど、ユニークなものが登場しています。 |
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4.住宅にも「風呂」 |
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都市の内風呂事情が変わり始めたのは、明治も過ぎ、大正に入ってから。まず離れ形式だった風呂が、母屋の中に取り付けられるようになり、部屋に浴槽を置くのではなく、つくりつけるようになります。さらに昭和6年にはガス釜が登場。薪をくべなくていい手軽さがうけて都市部に急速に広まりました。しかし、この内風呂の普及は、第二次大戦で都市が一面の焼け野原になって後退します。未曾有の住宅難で、住まいは雨露がしのげるだけで御の字。内風呂までは到底手がまわらず、再び銭湯大繁盛の時代がやってきました。ようやく内風呂の普及率が5割を超えたのは、昭和30年代も半ば。「もはや戦後ではない」時代。高度成長期の波の中人々の暮らしも飛躍的によくなりつつありました。昭和30年に生まれた住宅公団も、ダイニングキッチンとともに内風呂を採用。FRCやホーローの浴槽ができ、浴室にいながらにして点火や消化もできるようになって、ようやく便利になりました。そして40年代半ばになると、給湯器の性能があがって、シャワーが登場。あっという間に 家庭に普及します。逆に銭湯の数は昭和40年代半ばから急速に減っていきました。 昭和40年には都内には2,641件の銭湯がありましたが、平成12年では1,273件しかなく半数以下となってきています。ちなみに新宿区では昭和40年には、103件で平成12年では41件となっていてやはりこれも半数以下となっています。 |
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5.風景の中の「建築的?銭湯」 |
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6.今の銭湯・「千と千尋の神隠し」より |
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去年映画館で放映された宮崎駿氏の「千と千尋の神隠し」では「油屋」という八百万の神様たちが疲れを癒しにくる湯屋を舞台に千尋が活躍していくストーリーとなっています。この湯屋のモデルとなったのが江戸東京たてもの園の中にある「子宝湯」であります。このほかにも看板建築である古い町並みなどもそのままイメージとして劇中に登場します。これらの建物等を宮崎駿氏は、「無用の建築」と呼んでおもしろがっていたそうですが、これは言葉を換えれば遊び心のとんだ建物ということもできます。このほかにも目黒の雅叙園や新橋烏森口や有楽町ガード下の歓楽街などを起点とした不思議の町の飲食店を表現したそうです。
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