神楽坂建築塾 第三期 修了論文

「私なりの人間讃歌」

  建築塾 第3期塾生 岩井正道

目次

1.はじめに

2.建築塾日記

3.一人旅日記

4.日常の出来事から

5.人間讃歌に必要なもの

6.これからを見据えて…

  

1.はじめに

 人間讃歌・賛歌【にんげんさんか】:人間を褒め称える気持ちを謳うこと

 私には、正しいと信じる夢がある。それは建築による人間讃歌だ。なぜ建築による人間讃歌なのか…ということだが、人はその歴史が始まって以来、人以外のものである建築物と共に生きてきた。そして現代、ほとんどの人は建築物無しに生きることは難しい。それは枝葉でできた簡易的な住居であれ、大きなビルであれ何ら変わらない。つまり、人に最も身近で長い付き合いをしてきた建築は人との原生的な関係を持つといえる。従って、その人ではないものである建築によって、人の「生」の素晴らしさを多くの人が感じることができるのではないかと考え、建築による人間讃歌を夢見ている訳だ。

 日々、建築に関わる多くの人はよりよいものをつくろうと試みている。より良いものという概念が、人の生への実感であるとすれば、それらの試みこそ、図らずも建築による人間讃歌を目指しているのかも知れない。

 以下の旅行記や日常の出来事から、少しずつその断片を探ろうと思う。

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2.建築塾日記

 8月25・26日 「仙台スケッチツアー」

 1日目。八幡まちあるきのあと、荒巻配水所旧管理事務所での話の中で、櫻井さんが「触れて、見て…そういうことを続けることで建物のために何かしたい」とおっしゃられていた。これらのことや自分の体験から、建築物の存在をより良い生を得るためのパートナーと位置付けるには写真や雑誌で見るにとどまらず、多くの建築を実際に見て、触れてみることが絶対的に必要であり、そうした基本的なことが人を取り巻く建築物を新築する・改築する・保存する・解体するにあたって大切なことだと感じた。そして、日常として当たり前になり過ぎている建築物の存在が、実は多くの偶然が重なったからこそ、その場にあるのではないかということを考えると、多くの人の「生」に息づいている建築物やランドスケープを全く無くしてしまうのは不可能なことだと思われた。

 また、喜一先生は「知らない町で、気に入ったところをスケッチすることで、その場での自分の存在を許されるのでは…」とおっしゃられていた。「知らない町と友達になりたい」ともおっしゃられていたが、そのことは「語らぬもの」であり、「人ではないもの」である建築物や風景とのコミュニケーションと位置付けられるのではないだろうか。なぜなら、知らない人や物とのコミュニケーションでは言葉よりも前に、見て、互いの持っている雰囲気に触れているはずだし、言葉を持たないが故にその姿形が雄弁に語ることもあると考えられるからだ。

 2日目。宿であるユースホステル・道中庵から東北大学片平キャンパス見学へ向かった。本郷の東京大学と並ぶ素晴らしい建築物が多いと聞いていたが、まさにその通りで、東京大学と遜色ないものだった。あえて言えば、緑は同様に多いものの、東京大学は建築物が密集していて、ひとつの建築物の機能が敷地内にちりばめられているような感じを受けたのに比べて、建築物群であるという印象を受けたことが印象に残る。

 そしてふと思ったのは、東北大学の建築物達は学校としてではなく、別の用途で利用する方が次世代に受け継がれていきやすいのではないだろうか。それは、学校の機能が移転しても、建築物の価値が小さくなることはないだろうし、それを大切に考える事業者が利用すれば魅力的な敷地条件を加えて生かすことが第一に行われると考えるからだ。

 このような問題を通して言えることは、歴史的な建築物やその集合体の状況を保存することに傾注して、本来の人と「人ではないもの」のお互いを保管しあうような原生的な関係を忘れてしまわないようにしなくてはいけないということだ。

 

 

9月15日 「武蔵野美術大学施工ボランティア」

 この、武蔵野美術大学の施工は、非常に思い出深いものとなった。塾生になる前にこの建築物の実測調査のボランティアに参加したことが始まりだった。私は、大手ゼネコンの設計部に就職が決まっているために、中・小規模の木造建築物の改修の現場に関わることはほとんどないと思っていたし、現場で行われる作業に非常に興味があったので参加することにした。私は床を磨く作業を担当した。この作業はとても大変だったが、終わってみれば気持ちのよい疲れだったのを覚えている。

 本来なら、利用する人たちがこうした作業をほんの少しずつでもやるべきなのではないだろうかと思う。あるから利用する、必要だから使うというのでは、建物への付き合い方として、あまりに短絡的な気がする。僅かでも自分の時間を利用してつくられたものなら、その建築物を大切に扱うだろうし、長く姿をとどめて欲しいと思うだろう。また、自分の中でも設計者として現場の施工過程に積極的に関わっていかなければ、デザインには表れない部分でのより良いものづくりはできないと確信した。そして、11月11日に晴れて自分の関わった建築物が完成したのを見て、様々な人たちがその「生」の一部として沢山の時間をすごすことを考えると非常に嬉しかった。設計者という責任を負う人は、このような初心を決して忘れてはいけないということを、その時強く感じた。

 

11月17日 「門倉邸実測ボランティア」

1月27日  「横芝の民家実測ボランティア」

 両日とも民家の実測ボランティアであり、武蔵野美術大学のボランティア同様に現場への興味、また民家という人の生活の場としての姿のあり方への興味から参加した。今まで、図面とは、元からあるもの、もしくは自分で作成したものから建築物を造っていくという考えを持っていたため、図面のないものを図面化するという作業に戸惑いを覚えた。自分以外の人が見ても分かるように、ありのままを正確に描写するという作業だったが、これが難しいことに今更ながらに気付かされた。そして、構造の仕組みから先人のものづくりに対する考えまでを予想し、盤面に書き記すことの意義を知ったような気がした。

 作業を進めていくにつれ、小屋裏や床下などの普段は注意してみていなかったような部分にも工夫がなされていることに気付き、改めて民家という空間が生活の場として質が高いことに驚いた。ここでいう質の高さとは基本的な形はあるものの、決まった形はどこにもなく、生活する人によるカスタマイズがいたるところに施されている、また、それを可能にする矩体としての汎用性の高さと捉えている。しかし、その質の高さが一戸建の住宅という、数人の家族の利用という条件ならではの特徴であると思われることが残念である。不特定多数の人が長時間に渡って利用するオフィスビルや商業施設などの建築物においてこの質の高さを見聞きしたことはほとんどないからだ。逆をいえば、この点には改善する余地が非常に多く残っているということで、限られた時間の中で利用する人たちがその「生」を実感できるような空間を提供するという、難解ながら非常に興味深い課題であるといえる。

 

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3.一人旅日記

 2001年初春「北陸・中国・近畿の旅」

●北陸・小浜

 小浜では、町並みとそこに生きる人がどんなものなのか知りたかった。

 夜遅くに着き、宿に入れずに夜通し雪の中を歩き廻った。ようやく空が白んできたところで小浜城址に行った。建築物としての城は全くといっていいほど残っていなかったが、その城壁址から眺める町には人の生きている「におい」がした。まだ明け切っていない空を眺めながら城下へと降る途中で聖ルカ教会を見た。残念ながら中には入れなかったが、明治30年から変わらず川岸に建つその姿はまさに小浜の風景そのものになっていた。船だまりでは漁船が所狭しと停泊しており、城址から見えた風景がすぐ目の前にあった。改めて考えると、雪深いことに関係しているのか、小浜の町は建物同士の距離、人同士の距離、そして人と建物の距離が近く、凝縮した関係があるように思えた。

 続いて歩いていくと、そこには雪に埋もれた小浜の古い町家が昔のままに残る町並みがあった。この地方には商売や一時の休憩に利用される、建物正面に付いている折り畳みベンチにも見える「がったり」が残っており、雪かきをする町の人たちに話しを聞くと、昔は「がったり」で一休みしながら家族が語らったものだという。町並みの中にあった一軒の古いお店に入ると、そこは翡翠や瑪瑙を加工して売る職人のお宅で、店の老婦人と今日の雪のことを話すうちに昔の雪は今よりも多く降っていたという話、向かいの駐車場は紙(和紙)のお店があったが代替わりしてすぐ、引き払って敦賀に出てしまったというような土地の話を沢山聞いた。一言のお礼と、ひとかけらの石を買って店を後にした。それから、芸鼓さんとも話をした。昔のように派手ではないが、優しい付き合いが続いているのだとか。この日の海は真っ白な雪と濃紺の海がとても印象的で、少しばかり時間が戻っていくような気がした。あの老婦人や芸鼓さん達の見てきた海もこうだったのかなぁと思った。そして、日常というものの儚いが故の大切さ、そんなことを垣間見たのでした。彼女達や町に住んでいる多くの人たちは自分達のそれぞれ価値観を大切にしながら、すぐ隣の家のことや自分の家のことを大切に気遣っているのも感じられた。

 ところで、明通寺という国宝が小浜にはあるが、全くといってよいほど観光地化しておらず、1200年近くもそのままだというのだから、もしかしたらそういうところが若狭の魅力なのかもしれない。

 

●中国・岡山

 岡山では、後楽園、都市部に集中する美術館・博物館と商店街を見ることを目的とした。

 まずは商店街から見て廻った。商店街は碁盤目のようになっており、広範囲にわたって商店が連なっていた。しかし、話しを聞けば聞く程、予想よりも「筋(すじ)」によって雰囲気の明暗が強く出ていたように感じた。時代の移り変わりによって、昔ほどの商店の数が必要なくなってきたようだった。

 次に美術館や博物館、後楽園へ行った。岡山市立オリエント美術館は岡田新一氏の作品で館内は陰影と外光のコントラストが素晴らしかった。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」における日本人の好むほの暗さが感じられた気がした。後楽園では生憎の雨だったが、そのお陰でほとんど人がおらず、大名気分で独り占めした気分を味わえたし、木々や芝、苔がしっとりと濡れる様をじっくりと眺めることができた。続いて岡山城は黒漆喰が基調とされており、「烏城(うじょう)」と呼ばれる美しい外観と、内に秘める城郭建築独特の矩体を目の当たりにした。ここでは、非常に贅沢な人と建築やランドスケープとの関わりがあることを知った。

 それ以外にも岡山県立美術館、岡山県総合文化センター、(竹久)夢二郷土美術館、岡山県立博物館、前川國男氏の設計で知られる林原美術館や県庁舎も含めて、都市部に集中している多くの文化施設を見学した。

 岡山の町を歩いて感じたことは、文化的な環境が上手く市民に対して開かれているということだ。美術館や博物館、後楽園、岡山城は町外れにぽつんとあるでもなく、都市部にあるが孤立しているということもなく、人々の生活の中に常在しているのが窺えた。

 

●近畿・大阪

 大阪ではとにかく建築物と利用する人たちの「力」に触れたかった。なぜその建築物がそこに建てられたのかということもあるが、それ以上に今、どのように建築物が使われているのかということが知りたかった。

 芦屋に住む友人に一日道案内をしてもらって、いろいろ廻ることができた。瀧光夫氏の服部緑地都市緑化植物園を始め遠藤剛生氏の千里山ロイヤルマンション、梅田スカイビルやHEPFIVE、なにわの海の時空館、海遊館、サントリーミュージアム(天保山ハーバービレッジ)、ライカ本社ビル、コスモタワー、心斎橋そごう、キリンプラザ大阪などを見学した。特に、HEPFIVEでは商業施設である性格も手伝ってか、多くの人がウインドウショッピングを楽しみ、その雰囲気が吹き抜けの空間に存在感を与えているような気がした。また、なにわの海の時空館では大人も子どものように施設内を走り回る…ということはないが、非常に活き活きしており、その展示方法だけでなく、どこかに私達をそうさせる要素があるのだろうと考えさせられた。

 大阪を見て思ったことは共通していて、その場に動的なエネルギーとしての「利用する人」の存在があるということだ。戎橋筋から心斎橋筋へのアーケードを見ると、通りが人が集め、賑やかで気持ちのよい混雑を作り出していた。そして、演出装置としての建築物が欠かせないことが分かった。

 この旅を通じてて建築物には一時的に利用する人たちに重点をおくか、終日利用する人たちに重点をおくかという2つの種類があるのが明確に感じ取れた。

 

2001年夏 「信州の近代建築に出会った旅」

 次は近代建築を主に見た信州一人旅だが、この旅で特に感じたものは、今昔に渡って建築物は宗教、教育など、人の生活の深いところに根付き、必要とされてきたであろうということだった。

8月14日

 松本で一日を過ごしたが、最初に気付いたのは近代建築として残るものには学校が多いということだ。長野県は明治期の早くから県令(今と県知事)が教育の重要性をといており、立派な教育を行うための場として十分な学校の整備を行ったことに由来するようだ。それ故、疑洋風建築の学校が目を引き、旧制松本高等学校、旧開智学校、旧山辺学校など、素晴らしい建築物が多かった。そこには、下見張り板の外壁や、石の基礎の上に組石造の見た目を真似した黒漆喰の仕上げなど、見様見真似で造った工夫の跡が窺えた。そして何よりそれらを見て、触れることができたことが嬉しかった。また、新しい分野への挑戦であった疑洋風建築をつくるにあたって、チャレンジや工夫の連続だったであろうことは前述したが、その際、技術や造形センスを惜しげもなく振るいながら、それが全く野暮ったく感じないのは当時の技術者が、独り善がりにならないように、利用者への配慮を忘れなかったからに違いない。このような姿勢は、現代でも当然踏襲されるべきことだが、残念なことに利用する人への配慮が欠けていると思われる建築もつくられているのは紛れもない事実なのである。

8月15日

 更埴市、坂城市、上田市を移動しながら、ここでも旧屋代小学校、旧格致学校、梅花幼稚園など学校を中心にして見て廻った。

 旧屋代小学校や、旧格致学校は松本の学校ほど、詳細の仕上げや造りが施されていないものの、同様に工夫や利用する人への配慮が随所に感じられた。また、上田市は養蚕が盛んだったこともあり、上田蚕種協業組合や信州大学繊維学部、常田館など養蚕に関わる近代建築が多く残っている土地であった。なかでも、上田蚕種協業組合は事務所棟の古さもさることながら、繭倉庫や、職員の寮などが往時の上田の生活を感じさせた。

 さらに教会も見て廻ったが、新参町教会を見ると、現在も昔同様に使われているようで、利用されつづける建築にある独特の艶があるように思えた。

8月16日

 まず、上田市で聖ミカエル教会を見て、佐久市の旧中込学校を見学したのち、軽井沢へと向かった。ここでは、聖ミカエル教会における純和風の外観・造りと、細工や鬼瓦、懸魚などに見られたシンボルとしての十字架がデザイン、十字をイメージさせる格子の使い方などが好対照であり、印象的に映った。塩沢湖では堀辰雄山荘、有島武郎別邸(浄月庵)、レーモンド・ハウス(夏の家)へ、旧軽井沢では万平ホテルやショーハウスへ行った。レーモンド・ハウスでは、吉村順三が考案した雨音緩和のために屋根に乗っていた小枝はなくなってしまっているものの、休憩室や、スロープを上っていく2階にレーモンド達の生活感が感じられて、無性に嬉しくなった。また、通称旧軽銀座やその周辺を歩くと何処かしらに人の気配があり、木々に囲まれた神社や教会が点在していた。古い写真館に入れば、軽井沢開拓当時の写真がいくつも飾られ、当時の生活観や文化を伝えると共に町が人と同様に生き続けているということを思い知らされたような気がした。

 

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4.日常の出来事から

9月11日 NY WTC倒壊

 友人にふと、「壊したのは飛行機じゃなくて、やっぱり人なんだと思うよ。私には壊せないかな。技術的にじゃなくて、ツインは好きだったから。高くて怖かったけど。だから、もしそういう気持ちで、向かって行ってもやっぱりできない!って感じさせるような、あったかくて、つよくて、やさしくて、きれいな建物つくってくださいなっ!」と言われたことがあった。これを聞いて、確かにそうだと思った。そもそも利用するために建築物は建てられるのであって、壊すために建てられるはずはない。WTC倒壊から、(それがどんな形であれ)建築物の死は人の生の一部を壊すことに他ならないのではないかと考えるに至った。

 従って、100年、500年を経ても利用する人や周辺の人や環境から望まれてその場にあり続ける建築物をつくることが、設計を仕事とする自分を始め、多くの建築に関わる人の責任であると言えるだろう。

 

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5.人間讃歌に必要なもの

 以上のことから、先人達が形作ってきた町や建築物にも少なからず人間讃歌の要素があることが分かった。そして、建築物や空間と人の関係は多元的で不確かな、それでいて絶対的なものであると考えられる。

 さらに、建築による人間讃歌には特別な感性や素材、金銭などは必要なく、むしろ大半の人が持つ「普通の」感覚による「普通の」気遣いこそが重要であり、個人がそれぞれスケッチをする、写真を撮る、保存活動をするなど建築へのアクセスを続けることによって、誰もが建築による人間讃歌を行うことが可能であるといえる。

 

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6.これからを見据えて…

 取り留めのない話しをしてきたように見えると思うが、誰しも身の周りに、建築による人間讃歌があることがお分かり頂けたと思う。しかし、人間讃歌を実践する具体的な方策は何も見つかっていないといって良い。

 そして、自分がこれから何をしていきたいかということだが、誰もが生きていることを実感できるきっかけが掴めるように、今、身近にいる人々や建築たちを見ながら探求していくしかない。終わりのない模索の日々であることは安易に予想できるが、限りある命を使って飛びつづけたい。南国へ渡ることを忘れた渡り鳥のように…。

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