神楽坂建築塾 第三期 修了論文

2001年9月11日

―コルビュジェ丸の漂流の果てに―

トキモリ・ミキオ
(神楽坂建築塾第三期研究生)

 2001年9月11日、同時多発テロ事件が勃発した。このテロは「アメリカの正義」対「テロリストの悪」という戦争であるとして、その後アメリカはアフガニスタンへの報復空爆を決行しタリバンを壊滅させた。しかし何か腑に落ちないものを感じずにはいられずにいる。そこで、ワールドトレードセンターに焦点をあて、テロ事件に至るまでを検証してみたいと思う。
  


目次

1. ミノル・ヤマサキ

5. モハメド・アタ

2.ミノル・ヤマサキとイーロ・サーリネン

6. モハメド・アタとミノル・ヤマサキ

3. エリエル・サーリネンとイーロ・サーリネン

7.コルビュジェ丸の漂流の果てに

4. ミノル・ヤマサキとワールド・トレードセンター・ビル


ミノル・ヤマサキ

 

 WTC(ワールドトレードセンター)の設計者であるミノル・ヤマサキは1912年12月1日、シアトルで生まれた日系二世である。父親は富山からの移民してきた靴工場の職工であった。他の日系人がそうであったように、幼い頃から人種差別を受け、生活も苦しかった。ミノルは、カリフォルニア大学の建築学科に留学していた母方の叔父の影響で建築を志すようになり、サケの缶詰工場で働きながらワシントン大学で建築を5年間学ぶ。その頃、アメリカの不況に端を発した世界恐慌は世界中に蔓延しており、アメリカの経済も深刻な状況から抜け出せずにいた。その経済不況はミノルにとっても人種差別に追い討ちを掛け、更なる苦難をもたらし、低賃金で重労働を強いられることになった。しかしそんな苦難に耐え抜いて、なんと首席で卒業する。それでも、当時の彼に就職先はなかった。

 その後、ミノルは新天地を開拓すべくニューヨーク大学の大学院へ進学する。ここでも、貿易商社で品物の包装をするなどのアルバイトは欠かせなかった。ミノルはそこでMasterを取得し、やっと就職口に有り付くことができるのであった。その就職先はエンパイア・ステート・ビルの設計で有名なシューリブ・ラム・アンド・ハーモン事務所だった。所長のリチャード・シュリーブは第2次世界大戦のさなかミノルにとって数少ない擁護者のひとりとなることになる。

 1941年、ミノルは同じ日系二世のピアニストと結婚する。が、その2日後に真珠湾攻撃が勃発、事態は太平洋戦争へと発展し、日系人としての苦難の時代はなおも続いた。しかし、その才能を理解する人は徐々に現われ、ミノルは次々にスキルアップしていく。まずは、コロンビア大学建築学科の講師に就任し、今度はロックフェラーセンターの設計を手掛けたウォーレス・ハリソンの事務所に所属し、さらには、著名な工業デザイナーであるレーモンド・ローウィの下でも働くことができた。1945年、終戦のこの年にはデトロイトで所員600人を擁する大事務所の設計部長として迎えられるのであった。そうして、1949年に37歳でその大事務所の同僚3人で独立しセントルイスとデトロイトに小さな事務所を構え建築家としての第一歩を踏み出すことになるのである。

 このようなミノルの不屈の反骨精神は少年期から長きに渡る人種差別が根底にあると言える。相次いで超高層ビルで名を馳せた建築家に師事しているのは、単なる偶然であろうか?

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ミノル・ヤマサキ

イーロ・サーリネン

 デトロイトの隣町は、クランブルック美術学校を中心に建築家の交流の場となっていた。ミノルはそこでイーロ・サーリネンと出会う。近くにはサーリネンの事務所もあった。クランブルックはサーリネンにとっては父の代からの活動の拠点となっていた。ミノルはサーリネンの情熱と建築への取り組みに大いに啓発されたようである。年齢も近いこともあって、サーリネンとはこの頃から良きライバルとして相互に交流があり、それはサーリネンが亡くなった後、サーリネンを引き継いだ人達とも続いていった。穂積信夫氏はサーリネンの印象を誠実で慎重で粘り強く、寡黙で質朴な日本の東北人を思わせると語っている。サーリネンは理論よりも実践を重視し、設計は図面よりも模型を中心に進められた。そのやり方は後に事務所を引継ぐ事になるケヴィン・ローチや当時事務所でインテリアデザインを担当していたウォーレン・プラットナーに受け継がれていった。ミノルも影響を受け、模型を多く作るようになったと言う。

 イーロ・サーリネンは1910年8月20日フィンランドに生まれる。13歳の時、建築家である父エリエル・サーリネンがシカゴ・トリビューン社屋コンペで2等に入選したのを期に、一家はアメリカへ渡り定住する。そして父エリエルはデトロイト近郊のクランブルックに居を構え、クランブルック美術学校で教鞭をとりながら設計活動を始めるのであった。イーロ・サーリネンは父に影響を受け建築の道を進む。1934年、エール大学建築学科を極めて優秀な成績で卒業、同時に遊学の為の奨学金を授与され、2年間ヨーロッパ各地を旅することになる。帰国後、父の事務所で働き、その後3年程の間で、30歳に満たないイーロ・サーリネンは早くも事務所の中心的存在になっていた。1948年、38歳の時にはあるコンペに父エリエルと別々に応募し1等を獲得している。ミノルと出会うのは、その2年後、父エリエルが亡くなって、独自で活動を始めた頃になる。

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エリエル・サーリネン

イーロ・サーリネン

 そもそもフィンランドの地は中央アジアから移民してきたウラル・アルタイ系のフィン族に由来しているらしいが、永きに渡り、スウェーデンとロシアに挟まれ、その2強に支配され続けられていた地である。18世紀までは、ヨーロッパにあって極めてマイノリティであるアジア系言語を持った庶民は、スウェーデン語を話す支配層の配下に屈していた。1809年、ナポレオンがロシアと取引きして、今度はロシアに割譲され、このことによって、スウェーデンともロシアとも異なったある領域、国としての輪郭が出来あがっていくことになる。とは言え、ロシアの支配下から逃れられない時代が続いた。従来のスウェーデン語は反ロシアとしての作用としては有効であるものの、スウェーデンの呪縛から解き放たれ、フィンランドとしての民族を確立する為にはフィンランド語がより重要であった。しかし、フィンランド語をいわゆる民族の標準語とするには反スウェーデンとしてロシアに頼らざるを得ないという、微妙で複雑な状況にフィンランドは置かれるのである。その国家としての形を成すのには1917年まで待たなければならなかった。そういった状況下の1867年、エリエル・サーリネンは生まれている。

 フィンランドが独立へと向かうようになる一大事件が1900年のパリ万博であった。当時、ヨーロッパではロシアのフィンランドに対する抑圧を非難する気運が高まり、万博への参加を期にフィンランドの独立を訴えるといったヨーロッパ中の著名人による動きもあった。フィンランドのナショナリズムは急騰し、万博ではフィンランドのアイデンティティを世界に示す事が求められた。万博の2年前1898年にパビリオンのコンペが開かれる。

 エリエルはそのコンペを他2名とのチームで勝ち取る。当時ヨーロッパの主流はアール・ヌーヴォであったが、ネオ・ロマネスクを基調にフィンランド風らしきものを折衷させたこのパヴィリオンは国威を発揚しもてはやされた。しかしその一方で「一見すればそれはロシア風であって、木造というだけならスウェーデンにも伝統がある」との批判もあびた。フィンランドの唯一の手掛かりは素材、つまりは花崗岩と丸太材であった。このナショナル・ロマンティシズムと呼ばれる近代化のなか伝統的なものとの狭間で格闘しながらその土地のアイデンティティを確立しようとした動きは、後のアアルトなどの礎になったものと思われる。

 日本においても1930年代には、明治維新以降の欧化政策の反作用とも言える現象で「日本的なるもの」が求められ、東京帝室博物館コンペなどでRC造の建物に日本瓦の屋根を持った「帝冠様式」と呼ばれるものが出てきた。基本的にはそれまで推進されてきた西洋式を通しながらも、西洋とは違う日本を折衷し強調させるというやり方に似たところがある。

 フィンランドはその時代背景からしてもアイデンティティへの渇望がより強かったと思われる。

 

 1904年、エリエルはヘルシンキ中央駅のコンペも勝ち取った。しかし他の建築家達から中世的な古典的デザインは新鮮さがないと酷評を浴び、再度全て設計し直した別案を提示させられるはめになった。

 エリエルは一般的にはその折衷的手法でフィンランド近代建築の基盤を成した建築家とされているが、アイデンティティの確立ということろまでは及ばず、1922年に行われたシカゴ・トリビューン社屋コンペを契機に、新たなる活路を見出し出すべくアメリカに移住してしまうのであった。

 ところで、このコンペはアメリカで初めて行われた私企業による大々的な国際コンペである事と、作品にはあらゆるスタイルの作品が出品されたことで注目さている。2等となったエリエル案のような上に行くほどセットバックするスタイルは、この後のアールデコ形スカイクレーパーの先駆けとなったのかもしれない。

 エリエルの後を継いだイーロ・サーリネンにもフィンランドという地を背景とした折衷の志向性と絶妙なバランス感覚が深く定着していったように思われる。

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ミノル・ヤマサキ

ワールド・トレードセンター・ビル

 ミノルは独立して僅か5年、1954年セントルイス空港で一躍脚光を浴び、ミノルはアメリカでの建築家としての地位を確固たるものにする。この栄光に至る5年間は尋常ではなかった。過労で胃潰瘍になってしまい、胃の三分の二を切除する手術をし一時は危篤状態にまで陥ったという。

 普通この時点で世間は彼がアメリカンドリームを体現させたと見るだろう。彼にとってリベンジは終了していたのだろうか?

 セントルイス空港の直後に、恐らくは日系人である事も幸いして、神戸のアメリカ領事館の仕事が舞い込む。この事がミノルにとって大きな転機となる。領事館設計の為、この時ほとんど初めて日本の地を踏むのである。また、この来日に合わせて、ヨーロッパやインドを旅している、そこではゴシック建築やイスラム建築に魅了されている。

 障子をモチーフとしたスクリーンを持つファサードが印象的なこのアメリカ領事館は日本建築学会賞を受賞する。それには縁側もあり、日本庭園まで造られていた。帰国後には自室に床の間を造り、1960年には「アメリカの建築と日本の古建築」という講演も行っている。そこで彼は日本の古建築は安らぎのある人間的な空間について多くの事が学べると主張するのである。

 ミノルはかつてミースのようなインターナショナルスタイルに深く傾倒していたが、この頃を境にそれらとは違った方向に転換していくのであった。

 ミースのシーグラムビルをその威厳と端正さにおいて絶賛しながらも「機能や経済性や秩序だけではもはや充分とは言えない。喜びと反映とが付加されるべきである。」と語り、構造の明快さやプロポーションの良さといったものはその喜びの一部に過ぎないと主張するのであった。

 一見してその転換が分かりにくいのは、モダニズムを機軸として装飾との本質的融合を模索したからではないか?

 

 WTCは一般的には西欧的合理主義によって造られたと評されていたようである。例として外郭の細かいピッチで配された柱と中央のコアによるチューブ構造が上げられている。その構造によって全フロアーに無柱空間を実現し、柱の柱脚部分に見られる3本毎1本にまとめているフォーク形の形体も構造的合理性によるものだと言われている。

 しかし、そのフォーク形を「図」と見ればフォークに見えるが「地」とみれば、イスラム建築の特徴のひとつでもある尖塔アーチが「図」として浮きあがってくる。ミノルはWTC以前の作品においても、手摺などにこのフォーク形と尖塔アーチを融合させたデザインをいくつか使っているのである。

 また、鳥篭と言われる外郭の柱も構造的根拠だけから表出したのではないようである。ガラス面を柱の部屋内側に設置し柱リブを建物の外側に出したデザインは、それまでの高層建築の主流であったカーテンウォール工法と異なった印象を与えているが、それは、日本建築の縦格子がモチーフではないかとも思われる。そしてそれが構造体そのものであることがミースのシーグラム・ビルなどに見られるような、構造とは関係ない視覚的デザインとしてのマリオンと違うところである。

 ところで、WTC崩壊後、構造的問題を指摘する声があった。実は過去に、今回のテロと似たような災難にエンパイア・ステートビルが遭っている。1945年、B25爆撃機が追突したのである。ただし、この時は濃い霧による事故であった。ミノルはかつてそのエンパイアを設計した事務所に席を置いていた事もあるのだから、そういった危険性は認識していても不思議はない。しかし、まさかジャンボジェット機が超高層ビルに激突するということまでを想定する事は現実的でないと言えるだろう。また、WTCは1993年にも爆破テロに見舞われている。この時も多くの犠牲者をだした訳であるが、この時のテロはツインタワーの片割れの足元を爆破し倒壊させ、もう片方のタワーもろとも壊滅させるものだったとの噂もある。しかし、WTCはその目論見にはびくともしなかった。WTC設計当時ミノル・ヤマサキに事務所に在籍していた一ノ宮氏によれば、今回のテロに関して、むしろ構造的にしっかりしていたからこそ、崩壊まで1時間かかったのだと語っている。

 

 WTCを世界一高いビルにしようとしたのはミノルの本意ではなかった。そもそもWTC建設中には次の世界一高いビルができることが分かっていた。シカゴのシアーズタワーである。また、これまでの世界一はエンパイア・ステート・ビルであった。

 エンパイヤの計画は1928年にGM社によって始められる。当初は30階建であったが、同時期に計画中であったクライスラー・ビルとの熾烈な「高さの争い」がその高さをどんどん高くしていった。そして設計はこれ以上フロアを重ねられないという限界までになっていた。この時点ではエンパイアの方が勝っていたが、例えば展望台などを後で付け足せばクライスラーにも勝ち目はあった。ビルの建設がはじまり、クライスラーは最後に極秘であの装飾尖塔を突然組み上げ1930年世界一をもぎ取ったのは有名な話である。

 しかし、GM社はこういった状況を察知していた。エンパイヤにも帽子をかぶせ1931年に完成。クライスラーの世界一は数ヶ月で終った。

 ところで、エンパイアの帽子が放送用アンテナとして使われるのは第2次大戦後であった。GM社には高さに加えて別の企みがあった。帽子を飛行船の係留塔とし、飛行船を浮遊させたまま、タラップを渡し乗り降りさせるという企てであった。1903年にライト兄弟が初めて空を飛んだころから、都市の未来想像図は鉄道、自動車が摩天楼群の間を立体的に縦横無尽に走り、その摩天楼の屋上には高架駅があり航空機が発着する夢を映し出していた。しかし実際は飛行機というものの離着陸には長い滑走路を必要とし、空港は都市から離れたところに造らざるを得なかったのであった。そのため1930年代には実際にビルの屋上に滑走路を造るアイデアさえ出されていた。

 GM社はエンパイヤ完成4ヶ月後に早くもその飛行船係留テストを行う。飛行船の高度の調節は「重り」によって行っており、その「重り」には主に水が使われていた。水は河や海から補給が比較的簡単であったからだ。高度を上げようとした時、突然真下の街は豪雨となり、テストはそれ以来2度と行われなかったという。アメリカは大不況で世界恐慌まで引き起こした最中での出来事であった。

 

 ミノルのリベンジはひょっとすると初めは、世界一高いビルを建てることだったのかもしれない。しかし、神戸アメリカ領事館を手掛けた後には、そんなアメリカの市場経済主義に、もはや飽き飽きしていたのではないか?ミノルはどんなに高くても80階以上はダメだと譲らなかったという。しかし「ケネディーは月に行こうとしている。ヤマは世界一高いビルを造れ。」と説得されるのであった。資本主義がWTCを世界一高いビルにしたと言うほかない。WTCが世界一だったのは僅か2年であった。

 ミノルは歓喜した時「ビューーティフル」と伸ばして言うのがが口ぐせだったらしい。その感性の重視はイーロ・サーリネンの影響かもしれない。サーリネンも当初モダニズムに傾倒していたが、コルビュジェがロンシャンの教会を手掛けたのを見て方向を転換していたのであった。ミノルはニュー・フォーマリズムという新しい試みをしていたが、それはうまくいかなかった。優美な曲線と構造的合理性を融合させた建築を確立し、天才的とまで称されたのはサーリネンだった。

 1962年ミノルはWTCの設計を受注する。ミノルは100以上の案を模型で検討し、このWTCに全精力を傾けた。「ヤマはWTCと心中するつもりなのではないか?」とさえ言われていた。元々仕事人間であったミノルは、脱インターナショナルスタイルに苦悩しその度合いをさらに深めていたのだろう。それは既に家庭の崩壊にまで及んでいた。1961年、結婚20年目にして妻テルコと離婚していたのであった。その後アメリカ人女性と再婚するが2年と持たず、その次には日本女性と再婚する。その様は、ミノルが建築に対して日本とアメリカとの間で苦悩する様の合わせ鏡のようにも見える。

 WTC計画は全米の注目の的となっていた。1963年ミノルはTIME誌の表紙を飾る。

 1967年ゼネコンが選定されいよいよWTCの建設がはじまった。工事は困難を極め8名が事故死した。労働者のストライキもあった。

 工事がこれから最終段階を迎えようとした時には、ミノルはある種の確信を得ていたように思われる。1969年ミノルは最初の妻テルコと再婚する。そして1972年に第1タワーが竣工、翌1973年第2タワーも竣工する。

 ミノルが目指したのは日本とイスラムの「美しい形」の融合と、さらに合理性をも融合させようとする試みなのであって、ミノルにとってWTCはそれが結実したものと言えないだろうか?

 しかし、WTCは竣工当時から非難が相次いだ。アメリカ建築家達はインターナショナルスタイルをほとんど宗教のように信仰していたからであり、大衆にとっては、WTCが世界一高いビルになってしまったことがその一因であった。それまで40年に渡って世界一だったエンパイヤ・ステート・ビルが遥かに人気があったからだ。人々は「ブルックリンの最愛なる強いドジャースがロサンゼルスに行ってしまったようなものだ」と嘆いた。1972年10月にはニューヨークタイムスがエンパイヤに増築計画がある事を伝えている。上部16階分を取り壊し、そこからさらに27階分を増築、113階建で高さ455mとなりWTCより約44m高く、シアーズタワーより約13m高くなる計画であった。当時、エンパイヤの塔頂は放送用アンテナとして使われていたが、WTCができてもその機能に支障がない事が判明して、その他にも増築計画の必要性は見当たらなかった。高さだけがその理由であったのだ。しかし、その計画が実現することはなかった。

 WTCになんとか市民権を得させようと、キングコングにラストシーンで、エンパイヤではなくWTCに登ってもらったりした。1977年、第一タワーの107階にレストランもオープンさせた。内装を担当したのは、あのイーロ・サーリネンの事務所でかつて数々のインテリアを担当していたウォーレン・プラットナーであった。プラットナーはもはや家具デザイナーとしても著名で、その装飾的デザインが賞賛されていた。そのレストランの名前は「Windows on the world」という。ある雑誌ではそのインテリアがイスラム風と紹介されている。晴れた日には90km先まで眺望できるこのレストランはとても繁盛しWTCが市民権を得るのに一役買った。WTCに批判的で解体を主張していた弁護士セオドア・キールに「WTCは壊すべきです。でも、107階だけは残しておいて下さい」と言わしめる程であった。

 当然、マイクロソフトが世界に君臨するずっと以前の事なので、そのWindowsとは関係無いが、現在にあっては、ある特定の思想を持った人は不快感を持ったかもしれない。最初にハイジャックされた旅客機が突っ込んだのはこのレストランの直ぐ下であるのは偶然だろうか?

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モハメド・アタ

 その最初に突入したジャンボ・ジェットをハイジャック、操縦していたのが、このテロの主犯格と目されるモハメド・アタであった。以下は朝日新聞にて連載されていた記事を要約したものである。

 モハメド・アタは1968年9月エジプトに生まれる。父親は弁護士で裕福な家庭で育った。アタはカイロ大学工学部で建築学を学び1990年に卒業している。成績は常にトップクラスであったらしい。1992年10月にはドイツのハンブルク工科大へ留学、ここで今度は都市計画を学ぶ。入学した年、大学に来ていた求人募集を見て、アタはハンブルクの都市計画事務所「プランコントル」でアルバイトを始める。既にドイツ語をマスターしていたようで、社長のイェルク・レビン(53)は「ドイツ語は問題なかった。外国人の方が視点が違っておもしろいかもしれないと思って採用した」と言っている。当初は半年の契約だったが、仕事ぶりは期待以上だったので1997年7月まで5年間働く事になった。「本当にまじめで、仕事は有能だった」とスタッフは口を揃える。性格も温厚で礼儀正しくドイツにあっても彼を悪く言う人はほとんどいなかった。

 1995年秋にはドイツ非営利組織の国際交流プログラムのメンバーに選ばれ、奨学金を得て、エジプト・カイロに3カ月の研修旅行に出る。この時、サウジアラビアまで足を伸ばしメッカ巡礼を果たしている。

 ハンブルクに戻ったアタは、レビンに請われて自作のスライド上映を交えた講演会を開く。そこで彼は、「高層建築、広い道路、米国的な都市計画はアラブのアイデンティティーを壊す」「エジプトは無批判に西欧型の都市計画を取り入れ、古都を壊している」と主張し、将来はエジプトに戻り、伝統的な価値を尊重した都市計画をしたいとも語っている。レビンは「確かあの後から一層生真面目になり、あまり笑わなくなった」と振り返る。この頃から大学にもほとんど姿を見せなくのである。

 そして、アタは1996年4月11日に遺書を書いている。これには葬儀のやり方など18項目にわたる希望が記されている。カイロ出身でベルリン自由大研究所にて政治学を専攻する研究員アムル・ハムザウィは、一読して「敬虔なイスラム教徒ならだれでも書ける内容」としながらも、書中の「女性が私の家へ来て私の死を悼むことは望まない」という一文を捉え、エジプトでは可能とされている女性の墓参りを拒むあたりに「原理主義」の一端が覗えると語る。

 こういった遺書的の文書はカルト教団や秘密結社の入会の際にしばしば見られる事から、この時にアルカイダに入ったのではないかと推察されている。

 1997年11月、アタは久しぶりに卒論の相談で教授をたずねる。教授はアタが都市や交通の問題に関心があるという印象から1994年頃より卒論の題材としてシリアの都市アレッポを提案していた。アレッポは古代から東洋と西洋の両方から影響を受けた都市だった。

 1998年11月からは後に共犯となるバハジ、ビナルシブらと暮らし始めている。

 1999年1月、大学に卒論提出。題名は「危機にさらされた古都アレッポ――あるイスラム東洋都市の発展」で、新旧の地図をあしらった街のカラー写真。中にシリアの子供の写真があった。卒論は「シリアは今、生活のほぼすべての面で立ち向かわなければならない本質的な変化に直面している」という文章で始まり、162ページに及んでいる。水利や人口増加などの問題のほか、シリアとイスラエルの関係や中東紛争にも触れていた。序文の一節では「この作品は私が確信した道への小さな一歩に過ぎない。むしろこれは、その確信に至った背景の説明であり、同時に、この道を進もうとする努力に関心のある人々への呼びかけである」と書いている。卒論の成績は「優」であった。しかし卒業後は、他の学生のように、進路相談のため大学に訪ねてくることもなく、翌2000年6月に渡米、飛行訓練学校へ入校。その後、スペインとアメリカを何度か行き来した後2001年9月11日を迎えるのであった。

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モハメド・アタ

ミノル・ヤマサキ

 アタの基本的志向性はエジプトの研修旅行からハンブルクに戻った1996年には既に固まっていたように思われる。それからわずか5年、脇目も振らずただ1点を目掛けて疾走した感がある。もしかしたら、このテロはアルカイダによるものと言うより、主犯格であるアタが自己の目的を達するためにアルカイダに侵入し行ったものかもしれない。

 しかしながら、モハメド・アタとミノル・ヤマサキの建築への眼差しは、五十嵐太郎氏が言うようにある点においてはそれほど違わず、むしろ近いとすら言えるかもしれない。にも拘らず、起きてしまったこの大惨事は、アタがあまりにも純化してしまったからであり、WTCがあまりにも高すぎたからであり、ジャンボジェット機があまりにも大きかったからであろう。WTCとジャンボジェット機は巨大化した資本主義そのものを象徴している。アメリカも疾走しすぎたのである。

 イスラム原理主義のテロ対アメリカの正義と言うより、「経済合理主義」という巨人に挑んだドン・キホーテ「ヴァナキュラー原理主義」ではないか?窮鼠猫を噛むの如く、ドン・キホーテはテロによる他に手段はなかったのかもしれないが、何千人もの命を奪い、甚大な被害をおよぼした。空しく、悲しいだけで、後には憎しみだけが残った。テロは許されざるものなれど、僅かながらそれに至る道筋も見過ごしてはならないのではないか?

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コルビュジェ丸の漂流の果てに

 1920年代に興ったインターナショナルスタイルに代表されるモダニズムの機能重視で合理主義な精神は資本主義と技術革新がより推進された。それは、そもそも民主主義の高揚によって生まれたように思われる。つまり、同じものを大量に流通させることによって、みんなが同じものを手にする事ができ、平等でしかもみんなが豊かになって平和な社会がおとずれる。というシナリオである。たとえば日本において、そのシナリオは戦後から高度経済成長期まではとても有効に思えた。しかし、「モノ」がある飽和点を迎えても、特に必要ではないが、いわゆる「売れるモノ」を無理やりにでも造りだし、市場に尚も大量に流通させた。ブームとかトレンド言われるものがそれである。

 ポストモダニズムはモダニズムのその合理主義偏重を無味乾燥で画一的であると批判し、その反動の流れであった。元々は。ポストモダニズムのひとつの特徴は「折衷」である。それから徐々に引用と呼ばれる手法によってコラージュ的なものへと変質していったのだと思われる。もう、その頃には―ismが外れてポストモダンと呼ばれていた。

 モダニズムを工業化で推し進めたのは資本主義の経済的合理性であった。モダニズムがポストモダンへと変容していったのは、その背景に資本主義の経済的合理性原理が引き続き流れ続けていることに起因しているのだろう。飽和点に達してもなおもその疾走を止めようとせず巨大なコマーシャリズムとなって飲み込んでいったのである。そうして日本ではバブルを迎えるのであった。バブルが弾けてその残骸の処理に追われる現在においてもその論調の主軸は経済である。

 モダニズムは様式の否定から始まった。最後の様式となるのはアール・デコであった。アール・デコは産業革命以降の工業化と資本主義の過剰によってできあがったと言えるどろう。幾何学化された装飾はその余剰の象徴であるが余剰はある上層階級の金持ちだけの話だったので、装飾を廃し合理主義の旗を掲げるモダニズムは大衆へ広く転換させるのに役立った。そのためモダニズムは世界中を渡る大きな船になったのだろう。

 そのコルビュジェ丸に乗った事がない者はいないといっても良い。ミノル・ヤマサキしかり、イーロ・サーリネンもそうであり、あのヴァナキュラーの代表格とされるアルヴァ・アアルトも最初はその船に乗っていた。航海は資本主義という風を受け順調に進んでいたが、船長のコルビュジェがロンシャンの教会でヴァナキュラーという島へ向かって泳ぎ出しその後遭難してしまう。風は加速度的に強くなりスピードはドンドン増していった。いつのまにか風は嵐になって操縦不能となり、コルビュジェ丸はなすがままに漂流するしかなかった。ポストモダニズムは航路を修正しようとしたが、ほとんどなにもできず、返って、さらに迷走させてしまった。その挙句ついに、その巨大な竜巻にまでになった資本主義に攫われた果てに座礁したのが9月11日だったのかもしれない。WTC跡地は今Ground Zero(爆心地)と呼ばれアメリカは悲しみに暮れている。アメリカは決して負けていない事を世界に示す為に、WTCよりもっと高いビルを建てるべきだとする声もあるようだが、それだけは、止めてほしいと思うのである。【了】

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参考文献

『世界貿易センタービル―失われた都市の物語』(アンガス・K・ギレスピー著・秦隆司 訳/KKベストセラーズ)

『SD』1977年9月号

『都市住宅』1986年4月号

『SD』1994年11月号

「コルビュジェ丸の漂流」(鈴木喜一著/『建築文化』1980年4月号)

『SD』1981年3月号

『建築文化』1998年9月号

『建築文化』1998年10月号

『建築20世紀PART1』

『建築20世紀PART2』

『Casa BRUTAS』24 2002年3月号

「朝日新聞」連載記事テロリストの軌跡

『現代建築家シリーズ ミノル・ヤマサキ』(小川正・吉岡亮介 共著/美術出版社)

『現代建築家シリーズ イーロ・サーリネン』(菊竹清訓・穂積信夫 共著/美術出版社)

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