神楽坂建築塾 第四期 修了論文

『トトロの住む家』と家族の夢

  神楽坂建築塾第四期生 落 合 佐 敏

目次

1.はじめに

4.「昭和初期の家」の内実

2.となりのトトロ

5.「ろまん灯籠」的生活

3.トトロの住む家

6.まとめ

  

1.はじめに

 わたしたちは,「家」に何を求めるのでしょうか。そして,何を求めて「家」をつくるのでしょうか。

 ある試算では,普通のサラリーマンで都会暮らし,そして子供が二人もいたら,どう計算しても持ち家は止めた方がいいそうです(海外投資を楽しむ会,1999)。その本では,快適で経済的な「借家」を勧めていますが,にもかかわらず,ローン破綻のリスクを背負ってまで人はどうして「持ち家」をほしがるのでしょうか。

 家は,もともとの発生をたどれば外界から身を守るための「巣」であったのかもしれません。しかし,縄文時代であっても,竪穴住居に作られた石囲いの「火」は,家の中心,家族よりどころであったのではないかという感想を抱かされます。家には,古来から家族の安全を守るシェルターとしての「機能」以上のものが求められてきたのではないでしょうか。

 以前,『『家をつくる』ということ』(藤原,1997)という本がベストセラーになりました。この本は,「後悔しない 家づくりと家族関係の本」という副題を持ち,「家をつくるということは家族をつくりなおすことだ」と主張しました。ベストセラーになったのは,こうした主張が新鮮で,共感できるものだったからでしょう。また,「間取りの工夫で家族はうまく行く」というようのような主張も出てきています(横山,2001)。

 現代においては,家族の形態も多様化し,めざすべき価値観もあいまいです。住居としての家の形態は,ある意味で,家族の姿,在り方の反映です。家族の姿があいまいなとき,家の姿もまたあいまいになります。だから,「間取りの工夫(だけ)で家族はうまく行く」はずもないのに,そういう本を買い求めてしまうのです。

 私たちは,家に何を求めるべきなのか,そして,その家でどういう家族の関係を結べるものなのか。私たちが求めるべき家を,宮崎アニメを手がかりに考えてみたいと思います。

 

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2.となりのトトロ

 「となりのトトロ」という映画があります。「となりのトトロ」はスタジオジブリ作成,宮崎駿監督作品で昭和63年4月に公開されたアニメーション映画です。このアニメ映画は,この年の芸術選奨文部大臣賞を受賞し,また,キネマ旬報の日本映画ベストテンでも1位となりました。また,その後はビデオでも広く親しまれているので,多くの皆さんがこの作品の見てご存知だと思います。

 簡単にこの映画のストーリーを紹介しましょう。この物語は,昭和30年前後と思われるある農村(モデルの1つに所沢市松郷の雑木林があり,のちに「トトロの森」と呼ばれるようになりました)に,3人の親子が小型の三輪トラックに乗って引っ越してくるところから始まります。お父さんは大学の考古学の先生で,11歳のサツキと4歳のメイという幼い娘がいます。2人の女の子の母親は療養所にいて,いっしょには暮らしていませんが,面倒見の良いとなりのおばあさんや,人懐っこい村の子ども達にかこまれて,3人の農村での新しい暮らしが始まります。メイはある日,ふたりは超巨大なパンダを思わせる奇妙な,しかし愛嬌のある生き物(いわゆる森の妖精あるいは精霊なのでしょうが,そういうにはあまりにも愛嬌がありすぎます)と遭遇します。そして,その生き物をトトロと名づけて仲良しになります。

今はもうほとんど消えてしまった美しい日本の農村を舞台に,この姉妹の物語が生き生きと描かれていきます。クライマックスは,入院している母親の様態が急変したと思い込んだメイが,1人で母親に会いに行こうとして,行方不明になってしまう場面です。村の人たち総出の捜索でも見つからないメイ。途方にくれるサツキ。最後の頼みとしたのはトトロでした。必死でトトロに会おうとするサツキ。観客はみんな息を飲んでその行方を追っていました。

 

 「となりのトトロ」では,事件らしい事件は起こりません。クライマックスの,母親の様態急変の知らせを受けてのメイの行方不明事件にしても,けっきょくは,母親は単に風邪を引いただけで,単なるメイのかんちがいだったことが示されます。

 したがって,この映画が広く受け入れられたのは,アニメ作品では異例ではありますが,ストーリー展開の面白さではありません。この映画が広く受け入れられたのは,子供たちの持つ生命力や父親の深い愛情,家族の結びつきが丹念に描かれていたことや,また古い家,土俗的なものをも含む豊かな自然,その自然と調和した暮らしなど,このアニメには,私たちが理想とする「古き良き日本」のひとつの典型が,こまやかに表現されていたからです。

 宮崎はこの作品を作るに当たって,さまざまな工夫をしています。

 たとえば,この作品には「雑草」は出てきません。一つ一つの草は,それぞれ,オオバコやスズメノテッポウ,ハエトリソウときちんと描き分けられた,といいます。朝,昼,夕のそれぞれの光の強弱や角度,色合い,低い大地に茂る雑木の種類,関東ローム層特有の赤みのある土など,こういったいちいちのディテールの積み重ねがこのアニメに存在感を与えているのです。

 

 しかし,宮崎アニメに忠実に再現されているのはそういう形のディテールだけではありません。むしろ,私たちが,宮崎アニメに現実性を感じるのは,その当時の生活が,具体的な「物」だけでなく,生活のスタイル全体にわたって,正確に生き生きと再現されていると感じるからです。

 アニメを見るとよく分かります。この一家は,たぶん都会から引っ越してきたのでしょう。田舎暮らしは,毎日が新鮮な感動の連続です。古い家も,近くの雑木林も今まで見たことのない新しい世界,ある意味での「異界」でした。新しい世界への接触がメイたちの若い感性,五感を全開にしていきます。観客もまた,映画に流れる時間に沿って,その体験を共有していくからこそ,その時代をまったく知らない世代をもひきつけたのです。むしろ,実際昭和30年代の暮らしを知らない世代こそ,未知の世界を体験できるという意味では,この映画の世界にのめりこめたのだと思われます。

 この映画は,高度成長の直前を知っている世代はもちろん,その時代を知らない人たち,そして子供たちにも広く受け入れられました。それは,この映画が,どこかしら私たちの中にある記憶を刺激し,強い「郷愁」の念を抱かせるものだったからだと思われます。そういった生活を実際には体験していない世代には,このアニメの世界は未知の世界だと書きましたが,そういう人でも,誰ともなく話を聞いた記憶の断片が残っていたり,今に残る当時の生活の一部を共有する限り,このアニメはやはり強い「郷愁」の念を抱かせるものだったのではないかと思います。

 その中心にあるのが,メイ,サツキ,お父さんが移り住んだ古い家でした。その家は,農村にふさわしい外観を持つ日本家屋に,ベランダと洋間を持つ洋館が折衷された,不思議な印象の家でした(ここでも,台所やお風呂場,広縁などの造形や明暗の表現に,古い民家のディテールが忠実に再現されていることが見ているとよく分かります)。

 この家こそが,そのアニメの始まりであり,終わりです。この家に住んだならば,この一家は幸せな生活がおくれるだろうなぁという予感に満ちたその家は,和洋折衷の,見る人を「郷愁」に誘い込むような家でした。

 草ぼうぼうの一軒家に近づく姉妹が,その家に近づくと,白いペンキ塗りのベランダのパーゴラは,その荒れ方にふさわしく腐っています。「腐ってる」とぼろぼろになった根元を手で押すサツキに,メイはもっと大胆にその柱をゆすってみます。盛大に木片が落ちてくると,二人は大笑いをしながら,広い庭を走り回り,やがて「アワアワ」とインディアンのまねを始めるのです。言い古された表現ですが,テレビやファミコンに「毒される」前の子供たちの生活が(喪失感とともにですが・・・)私たちの胸に迫ってきます。

 宮崎のアニメは,「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」でも,そこで描かれる風景や生活は決して無国籍ではありませんでした。しかし,「となりのトトロ」以前には日本が舞台になっている宮崎作品はありませんでした。宮崎は,以前から日本を舞台にアニメを作りたいという構想を持っていたようです。それが「となりのトトロ」で,あのようなかたちで結実したのは,「東京生まれで,それがコンプレックスで,自分には風土が無いなあという思いをいつも抱き続けてい」たからに他ならないでしょう。そのコンプレックスが,この作品を作らせたといってもいいと思います。こう見てくると,「となりのトトロ」というアニメ作品は,日本という「風土」の宮崎による再発見が前提にあり,その映像的結実物だったといえるでしょう。

 

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3.トトロの住む家

 さて,ここで,「農村にふさわしい外観を持つ日本家屋に,ベランダと洋間を持つ洋館が折衷された家」の話を進めて生きましょう。このような形式の家を,実際の住宅の歴史に追えば,それは昭和初期の文化住宅ということになります。より正確には,文化住宅が純洋式の暮らし(概観は洋風。中の間取りは,家族本位で,家族の個室を作り,代わりに家族は集まってこられる「家族室」をもつ)を目指したのに対し,こういったタイプは,和風の家に洋風の暮らしを持ち込む「中廊下」式の住宅です。

 宮崎はよほどこういった,「トトロの住む(住みそうな)家」に深い愛着を持っていたようです。このような家をレポートして,一冊の本を出版しています。その題名を,『トトロの住む家』(1991年,朝日新聞社)といいます。この本は,「月刊Asahi」の1991年2月号から8月号かけて連載していたものをまとめたものですが,その巻頭言には「アニメ『となりのトトロ』に登場する,塚森の主,トトロ。そのトトロが喜んで住みそうな「懐かしい家」を訪ねてみた。」と書かれています。そして,宮崎が考えるトトロが住みつきそうな「懐かしい家」が6邸,豊富な写真と宮崎自身のイラストで紹介されています。

 この本で宮崎が取り上げた6邸は,「旧国鉄中央線の沿線,高円寺から吉祥寺の間」の,「震災後の住宅地として開発された東京の西郊に限定」されています。宮崎自身はその理由として,「大げさにしないため」,「自分たちが知っている範囲で動く」のだといって述べていますが,それだけではないと思われます。昭和初期の文化住宅が多く作られたのが,その地域だったからです。

 

ところで宮崎は,この本の6邸をどうして選んだのしょうか。また,それらの家が持つどういう要素を「懐かしい」というのでしょうか。そこを丹念に見ていけば,宮崎という一人の映像作家が,家を通して日本という「風土」をどう見ていたかが分かるかもしれません。また,「となりのトトロ」を歓迎している観客が多いことを考えると,その作業は,単に宮崎が考えるそれではなく,私たちが無意識に持っている,家と風土の理想的な関係を解き明かすことが出来るかもしれません。そういう作業となる可能性を持っています。

 その6邸を具体的に見ていきましょう。章題と簡単な紹介をします。

 1邸目は,「人と草木と家が,同じ時を生きて造り上げた」と題された,杉並区阿佐ヶ谷Kさん宅です。この家は,草木に埋もれるようにひっそりとした佇まいを見せる下見板張りの洋風の文化住宅です。家主は,デザイン研究所で30年間先生をしてこられた方で,東京の都市計画に携わった叔父さん御夫婦からこの家を譲り受けています。宮崎はこの家の「懐かしさ」の要素を,「そうなのだ。住まいとは,家屋と,庭の植物と,住まう人が同じ時を持ちながら時間をかけて造り上げる空間なのだ。少しでも隙間があれば植物は生えてきてくれる。その植物たちと,生き物同士の付き合いをしてくれる家,時には困惑し,時にはためらいながら鋏を持ち,でも,植物へのいたわりを忘れない家,それが良い家なのだ」と表現しています。

 2邸目は,「大きなケヤキの梢の下に草と木がひしめく」と題された,中野区白鷺Mさん宅です。この家は,2本の大きなケヤキの木を持つしっかりとした造作の,軒の深い玄関を持つ京風の家です。昭和10年ごろ建てられたものを,現在の家主のお父さん,日本の景観額の先駆的な権威者と知られるT博士が購入されたものです。「ありとあらゆる木がひしめいて,庭は,人のためよりも,草木のために」あるような,この家の風情を鷹揚に楽しむ家主を評して宮崎は,「良い家は,良い人を育てる。そして良い家は,見識が造り,維持する」のだと述べています。

 3邸目は,「子供時代の残影を優しく包み込む四畳半」と題された,杉並区阿佐ヶ谷Kさん宅です。大正13年,関東大震災の翌年,放送局に勤めていた現在の家主のお父さんが立てられた純和風の家です。宮崎は,「縁側のある暮らし,眺めるべき庭を持つ平安な日々への憧れは,根強く私たちの心に残っている。今回お尋ねしたのはその縁側を持つお宅である」とこの家を紹介しています。8畳2間の和室,その前に広縁,その突き当りには独立し1間ほど庭に突き出した4畳半。この部屋そっくりの部屋に住んだことのある宮崎は,この部屋を見て,「なんともいえない懐かしさに襲われ」,「しばらく,少年の煙霧の中で呆然と」します。良い家は人を記憶の彼方のいざなう,といっているかのようです。

 4邸目は,「照葉樹の森へと戻る庭にエゴノキの大樹」と題された,武蔵野区吉祥寺本町Oさん宅です。典型的な郊外住宅地に立つ,細い路地の奥にひっそりと立つ,昭和8年に建てられた和風の家です。二人のお嬢さんが日差し浴びて遊べるようにという配慮で廊下は4尺半とされ,庭は当時としては珍しかった芝生が張られ,白いブランコがあったそうです。

 その庭も今は,照葉樹に囲まれ「深山幽谷の趣」となって,その庭で遊んだお嬢さんは今は「臈たけた女性」になっています。持ち主であるこの女性は,茶の間と台所の小さな板敷きを,「K子の廊下」と名づけて,せっせと磨いたことなどを話し,「この家には,私の歴史,母との思い出がいっぱい詰まっています。家は一度,手を入れれば十年は生きのびるといいますので,主人と二人,大事にこのまま住もうと思います」としめくくったといいます。

 5邸目は,「両手でも抱えきれない桜の木と思い出」と題された,武蔵野市吉祥寺本町Oさん宅です。家主のおばあちゃん,Oさんはこの家を「昭和初期の,中産階級の下のティピカルな建物ですよ」とおっしゃっています。Oさんのご主人は,昭和8年に治安維持法違反で検挙され,昭和52年に亡くなられています。思想犯として大学を追われたご主人の生活を,Oさんはピアノや英語を教えながら支えたといいます。ご主人の書斎だった北側の応接間は,生前は膨大にあった本も,今は大学に寄贈され空っぽになっています。

 宮崎は,さいごに次のようにまとめて,この家とこの家に住んでいたお二人へのオマージュとしています。「散歩の途中で何気なく見つけたお宅だった。門の構えのかざらない,風情のある家で,心ひかれたのだったが,傷んだ屋根が気になってもいた。あの桜と朴と,倒れかけた鬼瓦は,貧乏であることの誇りのあかし。お二人の伴侶というべき植物たち。いま,おばあちゃんの庭には,たくさんの花が咲き乱れ,桜は満開である」。

 最後のお宅は,「『闇』と『迷宮』を守り通すおじいちゃんの頑固」と題された杉並区天沼Yさん宅です。このお宅の家主はY翁(宮崎はYさんのことをこう呼んでいます),発行当時98歳。そのY翁により,昭和18年に購入されています。昭和初期のモダン住宅の形をよく伝えて,オレンジ色の洋瓦の屋根に,飾り煙突のある応接間と,洋風の窓のある和室を配した,最近の安手のとはまったく異なる,当時の実にガッシリした建売住宅です。昭和15年には,純和風の建て増しがされて,茶室と離れが向かい合う形で母屋から伸ばされています。

 Y翁は戦前,内務官僚でした。そのため,戦後は公職追放にあっていますが,それを期に世の中からしりぞき,それ以来,庭を愛で,離れに悠々と生活してきています。Y翁は「頑固者」です。その意思により,この家は購入当時の姿とまったく変えられていません。そのための不自由は家族が引き受け,「おじいちゃんの部屋」や「おじいちゃんの庭」には,子供は入れなかったといます。宮崎は,そういう空間は子供にとって「異界」だったろうといい,そして,自分の義父を連想し,「ぼくは,子供が育つためには,光や暖かさだけではなく,闇や迷宮も要ると考えている。義父はそれを孫に与えてくれたのだ。おじいちゃんの怖い離れと,入ってはいけない威厳のある庭は,二人のお嬢さんの精神の奥で,何かを豊かにしたのは間違いない」。そして,自分は「いったいどんな迷宮を孫たちに与えられるのだろう」とまとめています。

 この6邸と見ていくと,宮崎がどういう家を良い家,懐かしい家と感じているのかのが分かるような気がします。直接には,幼少年期の家の記憶がストレートに反映されているような家です。この本の第7章のインタビューで宮崎は,「『となりのトトロ』に出てきた,後ろに山を背負い,前には小川が流れているような家。あれは日本の中産階級が昭和三十年くらいまで暮してきた家なんです。ぼくの兄弟たちがあの映画を見て,『なんだ,俺たちの子供の頃住んでいた家を使ったな』といっていました」と答えています。記憶を呼び覚ます要素が入っていることがいい家のひとつの条件といっていいでしょう。

 ただそれだけではありません。1・2邸では,住まい手と住居や住空間(特に庭,そしてそこに植えられている植物が強調されています)が相互によい影響を与えること,その影響関係を作り上げることに時間が必要だということが強調されます。そして,3・4・5邸目では,住まいには歴史があり,歴史を喚起するための要素が必要だということがのべられます。そして,6邸目では,住まいには光や暖かさだけではなく,闇や迷宮も必要だということが主張されています。

 

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4.「昭和初期の家」の内実

 宮崎が選んだ家は,私たちの目から見れば,その外見や内部にしても,また長年かかってつくり上げられた庭にしても,それだけで「郷愁」を誘われるものです。しかし,宮崎が懐かしいと感じる家は,「伝統的な日本家屋からは離れた存在」だと宮崎はいいます。

「関東大震災後に東京西郊にできた家というのは,けっして立派な家というわけではありません。築材も,しっかりしてはいますが,輸入材です。デザインだって,玄関脇にトイレがあったりと,それまでの日本建築の基準からははずれた,奇異なものだったんじゃないでしょうか。急造の感は否めません」。何気なく書かれていますが,ここは気に留めておいたほうがいいでしょう。

 日本の伝統家屋には,長い間にできあがった「間取り」というルールがあります。柱の間隔や畳のサイズはどこのうちでもほとんど一緒だし,部屋の並びかたもだいたい決まっています。余談ですが,だから間取りは,どこの家もだいたい一緒で差がつきません。そのかわり家主は,立派な木を使うとか,気のきいた素材を組み合わせるとか,そして腕のいい職人を使って美しく仕上げさせるとか,そういうところにお金をかけたのです。

 武家住宅の流れを引く明治大正期の都市型住宅では,接客中心の続き間という間取りがルールでした。そういうルールになったのは,家族の中の関係よりも,対外的な関係を重視するという封建的な感覚が色濃く残っていたからです。

 近代の歴史というのは,自立した個人が,自らの意思で,前近代的伝統からいかに切れていくかという挑戦の歴史です。日本住宅史においても「近代化」は大きなテーマでした。

 住宅の形式は,明治から昭和初期にかけて,「続き間」形式から「中廊下」形式へ,そして,「文化住宅」へと,そのプランが大きく変化してきました。それは,接客中心の中心の家から家族中心の家への変貌の課程です。かつて家は,その家の格式を表したり,その格式に応じた接待の場所として機能しました。その機能が,家族の幸せの充足の場へと大きく変わったのです。

 先ほども述べましたが,伝統的に,日本の家屋,いわゆる民家は共通の「間取り」を持っていました。時代や地域に違いがあっても,間取りはあまり大きくは変化しません。また,室内の装飾も割合に共通していました。したがって,施主はどこにこだわったかというと,家の素材です。伝統的な家では,「物」が命です。素材に対するこだわりを捨て,空間に対して伝統を踏襲しない昭和初期の家というのは,だから画期的な家なのです。

 斬新な家にあらかじめ「郷愁」が生じようはずがありません。宮崎が,「となりのトトロ」ではあれほどこだわっていた物の質感に対するこだわりを捨てて,どこに郷愁の要素を見出したかは興味があるところです。

 何度も言いますが,昭和初期の文化住宅は,素材も間取りも郷愁とは無縁のものだったと思われます。それが懐かしい,と感じられるようななったのはひとえに時間がたくさん流れたからです。

 家族中心の生活は,今や昔の話となりつつあります。家族像が多様化した現在,もはや,「家族の団欒」という言葉が死語となっている,という家庭も多いのではないでしょうか。6邸に共通する細やかな家族の生活は,いまや羨望の対象とすらなります。そこに郷愁の生まれる余地があります。

 もうひとつは,ここに紹介された6邸は,積極的に家に人がかかわっているからです。いままでも日本家屋において,庭の重要性は繰り返し強調されています。日本家屋は庭があってはじめて成立するといっても過言ではないし,それはもちろん宮崎が事新しく言い出したことではありません。宮崎の観点の新鮮なところは,庭は単に眺めるものではなく,住人がそこに入り込み,木を植え,草を取り,庭と相互に影響を与えながら,家の歴史をつくり上げていくという点です。

 伝統的日本庭園では,庭は,庭師が管理していました。住人は,それを見て楽しんだのです。しかし,文化住宅の暮らしにおいては,庭は生活のもうひとつの中心です。1本1本の木にハサミを入れ,肥料をやり手入れをしていくのです。

 それはあたかも,メイやサツキが家を「体験」しながら,家や雑木林を自分たちのものにしたかのようです。庭に手をかけ,庭を「体験」することで,住み手は,最初は新奇だったその家を自分たちのものにしていったのです。

 家はあくまでも「人工物」です。そのものに「郷愁」はありません。家に郷愁を持つためには,そこで暮らしたという「生きた経験」がたっぷりと必要なのです。

 

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5.「ろまん灯籠」的生活

 テレビもファミコンもない時代,みんなはどうして毎日を過ごしていたのでしょうか。昭和初期に書かれた太宰治の小説を読みながら,家族のかたちを考えましょう。

 太宰の小説「ろまん燈籠」は,ある正月の1日から5日まで,洋画家入江新之助の遺族の5人兄姉妹が,1日1話ずつ話を続けて1つのロマンを作って,最後に居間(客間)に集まり,発表しあうというお話です。「婦人画報」の昭和15年12月号から昭和16年6月号まで,6回にわたり連載されました。昭和15年から16年にかけてといえば,日本が本格的に戦争に突入する直前です。昭和12年に始まった日中戦争が始まり,昭和16年の12月には真珠湾を攻撃,太平洋戦争が始まります。昭和13年には国家総動員法が公布され,翌14年には,国民徴用令も公布されます。有名な「贅沢は敵だ」の看板が設置されるようになったのも昭和15年からです。そんな時代を背景しながら,この小説にはその影すらうかがえません。

「ろまん燈籠」は太宰の小説としてはあまり有名ではありません。しかし,亀井勝一郎は,この小説には入江家の人たちの性格や行動が綿密に描かれ,「太宰の物語作者としての才能を遺憾なく発揮した作品」で,「人間のいたわり」が描かれているとして,高い評価を与えています。この家族のいたわりの在り方には,「家族」というものが追い求めるひとつの夢,理想の家族の在り方のひとつが垣間見られるのです。

 入江家には,9人の人が住んでいます。父親の新之助氏は,有名な洋画家でしたが8年前に死亡しています。祖父は80歳を過ぎていますが,まだまだ元気です。仕事は引退していますが,壮年のころは横浜でかなりな貿易商として活躍しました。5兄姉妹の長男は,29歳の法学士です。大学卒業後はどこにも勤めていません。長女は26歳で未婚で,鉄道省に勤めています。フランス語が得意です。次男は24歳,帝大の医学部に在籍しています。体が弱く,母親に甘えています。物語が書かれた数年後には亡くなっているようです。 次女は21歳。モデルにあこがれる自意識の強い女性として描かれますが,仕事や学校に関しては何も書かれていません。いわゆる「家事見習い」の女性のようです。他には,母親,祖母,お手伝いが一緒に住んでいます。

 入江邸は,上流家庭の家とはいえないものの,『トトロの住む家』に登場した家よりも,大きな家です。和室はあるものの,洋風の生活をしている様子が伺えます。子供たちはそれぞれに個室を持ち,家族の団欒は「客間」で行われます。いわゆる文化住宅のようですが,客間に集めって,家族の団欒が行われていることから,実質,客間は家族の居間として使われています。

 最初の日,末弟はこんなお話を作ります。昔,北の国の魔法の森の中に,魔法使いとその娘ラプンツェルが住んでいました。ある日,その森に王子が迷い込んで来ました。おばあさんはこの王子を食べてしまおうとしますが,ラプンツェルは「そんなべそをかく子はいやだよ!」といって,城へ返してやります。ラプンツェルは「気象(気性)は強いけど,寂しい子」なのです。しかし,そのことに怒った魔法使いの老婆は,ラプンツェルを真暗い塔に閉じ込めてしまいます。4年がたち,ラプンツェルが18歳になったとき,再び王子がその森に迷い込んできます。今度はラプンツェルを救った王子は,無事にお城にたどり着きました。ハッピーエンドでお話をまとめてしまった末弟は途方にくれます。このとき,身分が違う二人がうまくいくわけないよ,と助けてくれたのはおばあさんでした。

「ラプンツェル」という名前を聞いて,パッと思い浮かべるのは,まずグリム童話に出て来る金髪お姫様の名前でしょう。彼女の母親が妊娠中に,隣の魔女の庭にたっぷり生えているラプンツェル(ノヂシャ,食べられる野草です)を食べたくて食べたくてたまらなくなったので,父親がそのラプンツェルを何度か盗みに行きます。しかしそのうち父親は魔女に捕まり,ラプンツェルの代わりに産まれて来る赤ん坊を引き渡すことを約束させられてしまう,という有名なお話です。

「ろまん燈籠」の中では,このお話は作り替えられます。魔法使いの老婆の反対を押して二人は結婚し,しばらくは幸せに暮らしましたが,子供が生まれからラプンツェルは病気になってしまいます。魔法使いの掟で,死ぬか醜くならないといけないといわれますが,王子は醜くてもいいから生きていてくれと願います。老婆の魔法使いの治療を受けたラプンツェルは,ところ醜くなるどころか,王子の愛の力によって気高い精神の女性として蘇生しました。そういうお話に変わります。

 グリム童話のラプンツェルは,妖精の怒りをかったラプンツェルが森で暮らしていると,おなじく妖精の怒りで目の見えなくなった王子と再会するというものでした。ラプンツェルの涙で王子の目は見えるようになるのですが,「ろまん燈籠」のようなハッピーエンドにはなりません。

 末弟がお話に詰まって途方にくれたとき,おばあさんが助け舟を出してくれたように,次男が発熱の床でどうしてもお話の続きを作りたいと駄々をこねていると,お母さんは,笑って,「あなたが寝ながら,ゆっくり言うのを私が,そのまま書いてあげる」というのです。

 発表の日,家族はみんな客間に集まります。母親とお手伝いさんは,火鉢を用意し,お茶,お菓子,昼食代わりのサンドイッチを運んできます。祖父はウイスキイを持ち込んで話を聞く用意をします。さいごの場面は発表が終わるところです。お母さんが,「一ばん出来のよかった人に,おじいさんが勲章を授与なさるようよ」といいます。祖父の手作り勲章は,みんなに敬遠されているのです。ところが祖父は,「いや,これは,やっぱりみよ(母の名)にあげよう。永久に,あげましょう。孫たちをよろしくたのみますよ」といいます「子供たちは,なんだか感動した。実に立派な勲章のように思われた」と書かれ,この小説が終わります。

 入江家には常に家族を思いやる気持ちがあふれています。家族の中心には母親がいます。そういう,家族の暖かい精神の交流が,ラプンツェルの話に陰影を与え,ラプンツェルを幸せにしたといえるでしょう。

 家族がそれぞれの個室を持ち,プライバシーを確保しつつ,つねに家族の交流がたえない家というのは,自分独自のストーリーを展開していくが,次の人が話を作りやすいように考えながら話を作っていくという,この「ろまん燈籠」全体の構造と重なってきます。こういう思い出が積み重なったとき,構造物としての家つまり「住宅」が,家族の歴史を刻む,生きられた家つまり「住まい」になるのだ,と考えられます。

 

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6.まとめ

 住まいを単に建物,構造物としての「住宅」ではなく,「住まい」にするには,まさしく「住まう」,「住まい続ける」ことが重要です。宮崎が紹介した昭和初期の文化住宅は,間取りや外観で,特に新奇な建物はありません。むしろ,風景の中に沈みこんだような家ばかりです(むしろ宮崎は,風景の中に沈みこむような家を,それが,「よい家」なのだとでも言うように,積極的に取り上げているようです)。

 にもかかわらず,そういう家が宝物のように感じられるのは,そういう家に刻まれた家族の歴史が,私たちに何かを伝えてくれるからです。

 

 こう見てくると,家族が刻むべき歴史さえ持っていれば,家は,家族とともに年輪を重ね「懐かしい家」,「良い家」になっていくのだという,これまた平凡な結論にたどり着きそうです。しかし,それ以外に結論はないのではないか,と筆者は考えています。

 

 ひとつ言い忘れていました。宮崎はしきりに庭にこだわっていますが,家族の記憶を刻み込むものは,必ずしも庭である必要はないのかもしれません。日本家屋が以前からこだわってきた,床や柱の木,建具のこまかい造作,そんなものにも家族の歴史は刻まれるでしょう。しかし,庭はそれらのものと代えがたいなにものなのかだと筆者は思います。

 そういった「もの」と,庭とが大きく違うのは,植物は成長するということです。そして,庭は人の手による「人工物」だとしても,植物そのものは「自然」だということです。家族とともに変化し,その時々の記憶を風景として仕舞いこめる装置としての庭や植物は,柱に刻まれた身長の変化の跡と同じように,家にとって重要です。しかし,それ以上に,人は自然との交流なしには生きられないから庭が必要なのだ,これもまた平凡な結論が導き出せるのではないでしょうか。

 


<参考文献>

太宰治  『ろまん燈籠』1983,新潮社
藤森照信 『昭和住宅物語』1990,新建築社
藤原智美 『『家をつくる』ということ』1997,プレジデント社
切通理作 『宮崎駿の<世界>』2001,ちくま新書
海外投資を楽しむ会  『ごみ投資家のための人生設計入門』1999,メディアワークス
リビングデザインセンターOZONE企画 『図説日本の『間取り』』2001,建築資料研究社
宮崎駿  『トトロの住む家』1991,朝日新聞社
三好行雄編『太宰治必携』1980,學燈社
多木浩二 『生きられた家−経験と象徴−』2001,岩波現代文庫
内田青蔵 『消えたモダン東京』2002,河出書房新社
横山彰人 『子供をゆがませる『間取り』』2001,情報センター出版
吉田鉄郎 『建築家・吉田鉄郎の『日本の住宅』』2002,鹿島出版会

 

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