神楽坂建築塾 第四期 修了論文

屋根からみた民家、心象スケッチとしての町並み

  神楽坂建築塾第四期生 高橋紀子

目次

1、築70年の家に住んで

2、それぞれの原風景

3、屋根への関心

4、スレート屋根

5、瓦屋根

6、日本の民家と屋根

7、屋根からみた民家

  

1、築70年の家に住んで

 食糧ビルや同潤会アパートなどの古い建物が取り壊されていますが、一方でライト設計の自由学園は、改修され保存されたり、まだまだ困難が多いようではあるが、バブル時代崩壊以降少しずつ現存する古い建物を残すという意識が高まっているように感じる。自慢ではないが、東京都目黒にある我が実家は、築70年の木造住宅である。我が家が残すに値するかはさておき、古い家に住むということの、良いところも悪いところも少しは理解しているつもりだ。私の家と住む街について少し述べさせて頂こう。我が家は商店街という街柄、いわゆる看板建築のような形をしている。以前は飴屋をしていたそうだ。近くに映画館あり、父は少年の頃、その配達をいいことにタダで映画を見ていたというエピソードを聞いたことがある。もちろん映画館などはもう近所にはない。現存する周りの古い家も看板建築風の家が目につく。うちは改築が随分されているようなので、もともとはどんな形だったのかは、私の知る由もないが、古さはとてもよく感じる。

 そして父が生家であるこの家にこだわりがあるのは、やはり思い出の場所ということもあるのだろう。そして現在、周りの町並みを眺める。私が幼かった頃に比べても、随分と変わったなあとつくづく感じるものである。これもまた1つの時代を作っているのかもしれないが、以前は私の家と同じくらい古かった家々は広告で見たような住宅メーカーの家に変わっていき、また反対運動も虚しくマンションがたくさん建てられていった。そんな中でも、我が家は新築することもなく改築に次ぐ改築を重ね、へんてこな間取りの家に変貌しながら、現在もしっかり東京の土地に根付いている。もちろん我が家だけでなく、まだまだ昔の佇まいを残す家は存在する。その家たちは、この町の歴史を語っているようにも思える。

 ただ、目黒も、東京を代表する街、谷中や京島、そして他の古い街並を残す場所も、「東京の下町」というエチゾチックな情緒に浸るだけでなく、住み手の困難、そして抱える問題点にも、十分深い理解を持たなければならないと強く思う。

 

 頁はじめに戻る

2、それぞれの原風景

 私の住む町を例にあげて東京の古い家と街並について述べてさせて頂いたが、私は生まれも育ちも東京である。しかし実はこれは、すごく特別なことなのだということを、年を追う期とに感じるようになった。とはいっても母は秋田出身で、父方の祖父は山形出身だったので、元をただせば東北系の家系ではある。しかし大学や社会に出てから、日本津々浦々違う土地の出身者と話を交わすようになると、幼い頃に見た風景が人格形成に大きな影響があるのだということを感じる。
 さらに言い換えれば自分の常識が、必ずしも世の中の常識ではないと言うことを思い知ることが多い。これは当たり前のようでいて、この感覚の違いが、いろんな発見と感動を生むものだ。建築塾で、「家はきのこである」という表現を耳にした。がしかし残念ながら私にはあまりそうゆう発想は出てこなかった。こんな過密化した土地に建つ家々をきのこのようには、感じられない。首都圏に住む人々の大半が、一軒家ではないのだから、家は箱のように感じる方が多いように思う。なんだかそれも悲しいような気がする。しかしそれでも、私が幼い頃に見た母の生家は、茅葺き屋根で、囲炉裏と薪で炊く木のお風呂があった。今はもうその記憶の中の姿は実存しない。

 それでも東京生まれ東京育ちの私の中にさえ、その断片的な風景が存在する。いや、もしかしたら大半の日本人の心象スケッチに、その姿は刻まれているのかもしれない。そう思い返すと確かに「きのこ」だという気持ちもわかるような気もする。ただこれからもっと若い世代の日本人の心の刻まれる家のある風景は、どのように変わって行くのだろう。いやそれとも私自身が東京中心に考えているだけで、懸念し過ぎているだけかもしれない。

 

 頁はじめに戻る

3、屋根への関心

 そんなことを踏まえて、日本全国レベルで私が今回テーマにしたい本題に入りたいと思う。とは言っても国内で訪れてないところは、まだまだたくさんあるので、あまり確かなことは述べられないが、まず言えることは、元来、家というのはその土地に適した形や材料で造られるべきということだ。日本は北海道から沖縄までの緯度(北緯24°〜45°30′)は、日本列島沿いに測ると約3000kmもある。しかも周囲が海に囲まれた亜寒帯から亜熱帯に属する。しかも日本列島はモンスーン地帯にある。面積の狭い国ではあるが、世界に例を見ない複雑な気候に支配されている。そうしたことと日本の家の形に大きな影響を与えているように思う。その大きな違いが屋根の形状であると思う。先に述べた東京の風景には、勾配屋根が消えていっているように感じる。

 そしてマンションやRC造、S造の陸屋根の家が目立つ。それが悪いというわけではないが、住宅メーカーが画一的な家造りを進めていけば、これからその土地の個性というべき屋根の形状は消えていってしまうのではないだろうかと感じるのである。それでは、まず屋根葺き材というのはどんなものがあるか簡単に整理してみたいと思う。屋根材は自然のものと人工のものに分かれる。自然系の材料は、天然スレートに代表される石と、茅葺き、檜皮葺きの材料の草木である。それに対し、人工の屋根材として窯業系、化学系、金属系、その他の材料がある。また屋根葺き材を調べていて、少しびっくりしたのが竹屋根というのが、日本に存在していたということである。今はもう見ることが出来ないが大正時代、大分県玖珠群玖珠町に、竹屋根の風景が広がっていたらしい。いったいどんな風景だったのか、体感してみたかったものである。建築塾でも随分触れることが多かった茅葺き民家について調べてみれば、本当にその土地との密接な関係に興味が湧いた。しかし屋根に興味を持った理由は他にもある。その大きな要因として去年建築塾が始まった頃、私は新しい職に就いた。そこは石綿スレート屋根材のメーカーだった。カラーベストと言った方がわかるかもしれない。確かに茅葺き屋根と石綿スレート屋根とは、対極にある屋根葺き材ではあるように思われるが、何かそこに至までの、日本の屋根の歴史に触れてみたくなった。カラーベストは、以前設計事務所で勤務していた頃、住宅の仕事をしていたので、普通に触れていた建材なのであまり考えてもいなかったが、現在勤めている社内にあった古い資料など見せてもらうと、発売当時は画期的な建材だったようで、新しもの好きの建築家は、こぞってこの屋根葺き材を使用したことが伺える。そこで屋根葺き材が日本の歴史のなかで大きく変わっていったことを改めて感じることになった。東京で生まれ育った私は、住宅メーカーが多用したこの石綿スレートを見かけることが多いのだが、それでも日本全国レベルで見れば、住宅の屋根葺き材の比率は瓦がまだまだ多いようだ。

 

 頁はじめに戻る

4、スレート屋根

 それではせっかくなので、まずスレートというのはなにを意味するかを調べてみた。英語で屋根用の薄い粘板岩のことで、本来は玄昌石などの天然石だった。鉄平石もかつて屋根材として使われていたことがあるが、スレート瓦葺きは、ヨーロッパで13世紀後半から表れ日本には、明治時代に洋風建築と共に屋根用スレートの技術が伝えられた。東京駅の駅舎屋根は、天然スレート(玄昌石)で有名である。それに対してカラーベストコロニアルは人工や根葺きの代表的なものである。昭和三六年、アメリカのマンビル社の技術提供により、株式会社クボタが国産化に成功してから、プレハブ住宅の伸びと相まって急速に普及し、屋根材の一時代を作り今日に至ったわけである。カラーベストは、カラー・アスベストの略語で石綿(アスベスト)セメントを混ぜてプレスしたものだ。近年ノンアスベストの開発も進められている。問題は、10年くらい建つと色があせてくることだ。大気汚染が変色を促進させる場合もあるようだ。それでも私自身、施行性にも優れていて、シャープなデザインが表現されるこの屋根材は、これはこれでとても良いと思っている。

 

頁はじめに戻る

5、瓦屋根

 スレート屋根材の話が出て来たので屋根を語る上でやはり瓦についてもいろいろ述べていきたいと思う。がしかし、いざ調べてみると、瓦に関しては、とても奥が深いことに気付かされた。「かわら」の語源には諸説あるらしいが、サンスクリット語でものを覆う意味の「カハラア」から転化したものというのが一般的で、他に屋根の皮の意味とも、甲冑の古名の「カハラ」から出たとも言われている。
 要するに瓦が始めて作られたのは、いつごろ、どこであったかは現在のところ明らかでない。ただ今のこところ、中国の周時代あたりを瓦の起源とするのが妥当である。現在、世界各国で使われている瓦の形は、大別すると丸状と板状のものに分けられる。これらの瓦が、その地方で独自に発祥したかの、あるいはひとつの発祥地から伝えられたかも明らかでない。調べようにも資料が少なすぎるからである。

 しかし、将来、世界各地の遺跡の発掘が進めば、この問題も明らかになっていくであろう。ただ、日本の本葺瓦が、最初は中国から朝鮮を経て伝えられ、次に中国から直接伝わるようになったことは、瓦の文様からも明らかである。さて日本に瓦は伝えられてから、今日に至までの瓦の歴史を語ろうとすると、とても長い話なってしまうので、要点だけ述べさせていただこう。古来より瓦が使われてきたのは、城郭や社寺や武家屋敷に限られていた。しかし火災から逃れるため江戸時代になってやっと庶民にも浸透していったのである。それでも瓦葺き屋根も、雨仕舞などの点で敬遠された時代もあり、その中でもいろいろな技術革新がされてきたことが瓦の歴史を調べてみるとわかる。室町時代、瓦大工が釘を使わなくとも滑り落ちない軒瓦を考案し、またそれまでになかった形の役瓦ができて、現在使われている本瓦葺の瓦が、完成されたと考えられている。室町時代は、いわば瓦の中興時代である。そして瓦制作技術上、忘れてはならない人物が「明人一観」である。一観は、瓦の製法について、二つのことを我が国にもたらした。そのひとつは、瓦を作るときに、木型と粘土との間に雲母粉(きらこ)を使うことである。それまでは、木型と粘土の間に布を置いて。粘土をはがしやすくしていた。瓦の面に布の目が付くので、布目瓦(ぬのめがわら)と呼ばれたが、これ以後しだいに影をひそめた。もうひとつ、瓦を燻して焼く方法、つまり燻瓦の製法を伝えたことである。現在もこの方法を踏襲して、燻し瓦を製造している。

 瓦屋根が、江戸時代から使われるようになったと言っても、急速に普及したわけではない。茅葺や板葺より高価だった瓦葺は、江戸や大阪市中の財力のある商売家から始まって、その周辺部や各地の城下町や宿場町の目抜き通りの民家に及んでいったものと思われる。一方、江戸時代の中頃に考案された桟瓦葺は、本瓦より少ない費用で葺けるので、格式を重んじない一般民家で使われたが江戸や大阪で普及したのは、江戸時代の末頃であった。桟瓦葺が全国的に普及するようになったのは、明治時代になってからであり、はじめは都市部からそしてしだいに周辺部へと及んで行ったのである。

 

  頁はじめに戻る

6、日本の民家と屋根

 瓦の普及が江戸時代からとなると、やはり日本の民家を語る上で、興味深いものが茅葺き屋根である。やはりここが日本民家の原点であろう。建築塾のフィールドワークで日本民家園に見学に行き、各地の民家をみてみれば、地域によっての屋根の形状に違いがあるのがとてもわかった。できれば日本全国まわって、現存する茅葺き民家を見て廻りたいという気持ちになるのだが、今となっては、現在使われ続けられている茅葺き民家に出会えるのは、そのような民家園や、白川郷や美山町のような重要伝統的建築物群保存地区などに足を運ばなければなかなか困難な時代になってしまった。

 それでも、茅葺き屋根民家を、探そうと思えば東京にもあることが分かった。青梅や奥多摩、桧原に朽ち果てているものも含めれば、数件点在していることが調べてみてわかった。そこなら車で1日廻れば、見つけられるかもしれないと思い。足を運んでみた。
 そして思っていたより現存しているのがわかり、また茅葺き屋根の家で生活している人がいるのにも驚いた。そして奥多摩の茅葺き屋根の形で、ちょっと変わった形の瓦葺き屋根の民家を発見した。不思議に思い、インターネットでいろいろ調べてみた。そこで、建築設計社 建築家 鈴木啓二のワークのページ(http://homepage2.nifty.com/sekkeisya/index.htm)というサイトを発見した。そこに書かれている記述では、その不思議な形の屋根は「兜造り」と呼ばれる形状の屋根ということがわかった。日本の屋根形状は、寄棟、切妻、入母屋の大体3種類に分類される。しかしこの兜造りの他に、合掌造り本棟造り、くど造り、漏斗造りなど、茅葺き屋根では、とても個性的な形の屋根と見ることができる。このことが茅葺き屋根の魅力なのだと思う。だからそれに魅了される人が少なくないのかもしれない。鈴木啓二氏の記述を読むとその歴史的、地理的に大変興味深いことがわかったので原文から紹介させていただく。割愛させていただいた部分もあるので、全文御覧になりたい方は以下のURLをご参照願います。

抜粋:民家の観かた3:屋根の形:http://homepage2.nifty.com/sekkeisya/sayama/sayama3.htm

<引用ここから>
■寄棟・入母屋:寄棟と入母屋が、茅葺屋根の代表であるが、日本地図的に見ると<寄棟域:全国的に分布>

 <入母屋域:近畿に多い>・・・・・・という分布になっている。狭山を中心にもう少し近い範囲を見ると、右の関東地方の屋根型地図のようになる。武蔵から平地続きの、下総、常陸、上州、相模と、ぐるりと寄棟域に囲まれ、山側の奥多摩、甲斐が、兜造り、切妻になっている。なぜ武蔵だけが入母屋であったのだろうか。

 武蔵の国地域にある狭山丘陵南麓(東京側)で昭和40年代に行った立川、青梅、東村山、東久留米、小金井、清瀬への調査がある。この結果は圧倒的に入母屋が多い。東端地域の清瀬まで行くと狭山続きは入母屋でその先が寄棟に変わる。南地域の東京でも武蔵寄りは入母屋で、世田谷まで行くとまた寄せ棟域に変化する。このように、武蔵村山付近はかなり特殊な環境での入母屋域になっている。入母屋破風造りは京都周辺に多く、支配階級の建築から発した格式ある意匠で、民家での利用はご法度の地方もあった。

〜略〜

■入母屋と寄棟の決定的違いは屋根の一部に開口が有るか無いかだ。 開口があれば換気と採光が取れ、屋根裏利用の条件が非常に良くなる。広域で見ると、これだけ廻りの地域が、寄棟なのになぜこの武蔵だけが入母屋になっていたのだろうか。勿論、たまたま流行ったとか、他の理由は否定できないが、最も可能性が高いのは、養蚕との関係での定着ではないか。

 江戸時代から、つむぎの産地であった八王子では、かなり早くから養蚕が行われていた。ここでは明治の前半まで、比較的、原始的な蚕の飼育法が行われていた。それが民家のどこで飼育されていたかというと、母屋の屋根裏で、簾の子床の上で行われていたのだ。いくら原始的な飼育法でも通気や明るさが必要であったわけで、八王子の養蚕民家は、その時点ですでに入り母屋であったと思われる。  〜略〜  甲州、上州、八王寺地域の民家で、伝統的に日本で最も養蚕が盛んな所である。、これに長野を加えると1970年の統計でも、日本中の半分以上を生産している。この統計とこの図を見れば、養蚕が民家にどう影響を与えたか分かる。

 白川郷の合掌造りは養蚕のために江戸時代に発生したと考えられているが(建築大辞典による)スケッチのバリエーションをみると、甲州の切妻は元々屋根裏利用のために発生したと想像したくなる。 〜略〜 図を見ると、明らかに養蚕以前に切妻があって、養蚕のために改造したという形態が分る。 〜略〜 甲斐と武蔵の中間地帯、今で言うと奥多摩町あたりは兜造りの地域であるが、兜造りというのは切妻から発生して屋根の角を隅切りして開口を取りやすくした形で、切妻屋根建築の養蚕対応型と解釈できる。切妻の影響域に近い八王子 〜略〜 では屋根裏の床レベルまで狐格子がついていた。 広域的状況からすれば武蔵の国は元々は寄せ棟域であったと想像できる。そこに山岳地帯から養蚕建築が伝播してきて武蔵の国の養蚕をしている農家全体に広がったのではないか。元々寄棟であったこの地域では、八王子より少し小さな入母屋になったのではないか。

 隣町の瑞穂町誌(昭和49年4月)によると、茅葺屋根裏の養蚕利用を図入りで次のように記載している。上屋梁が里山民家より短い3間半の空間である。(よって天井高も里山民家より低い) 『上屋梁面のスノコ床をタナという。その上部にもう一つスノコの床(これを大タナという)を作る。下層部(タナ)両側の屋根面から、ヤトイタナを吊るして取付ける。タナも大タナも養蚕には重要な作業場で、蚕がヤトウのはここで行った。』と。
<引用ここまで>

 土着の屋根の形状、蚕の飼育などが微妙なバランスで融合し、奥多摩の地域に兜造りの形状が発生したことが伺える。茅葺き屋根については、まだまだ奥深く興味深いものがたくさんあるが、ひとまず私が足を運んで調べたのがこの「兜造り」だったので、これについてだけ触れさせて頂くことにする。ともかく東京の茅葺き屋根も、これから保存されていくことを祈る次第である。

  頁はじめに戻る

7、屋根からみた民家

 ちょっとした遠出で、茅葺き屋根民家を発見し、それについて調べてみても、いろいろなことが発見できた。自分の家、東京の町、そして瓦、兜造りの茅葺き民家について、自分なりに調べ、いろんなことを感じた。純粋にいえば家にとっての屋根とは、雨・風を防ぐものかもしれないが、その材料や形で、格式がつけらたり、その美しいスカイラインが街並の景観を彩ったりする。しかし、東京の町を眺めると、日本家屋の象徴である勾配屋根は少なくなり、高く延びる高層ビルが建てられていく。また住宅メーカーが意図的に、ある区画だけ、まるでテーマパークのように街並を作っているのにも違和感を抱く。自然発生的に作られた屋根の美しい形はこれからなくなってしまうのだろうか。その答えは、数学の答えのようにはっきりとした回答をだしてはくれないだろうが、先人が残してくれた民家がそのヒントとなるものを心に響かせてくれるのかもしれない。私はそう思い、これから日本のいろんな町を旅してみたいと思う。 


<参考文献>

●図鑑「日本の瓦屋根」 坪井利弘著  理工学社
●民俗建築大辞典 日本民俗建築学会(編) 柏書房
●いい家は無垢の木と漆喰で建てる  神崎隆洋著
●屋根のデザイン百科  武者英二+吉田尚英著  彰国社

●インターネットより
建築設計社建築家 鈴木啓二のワークのページ
http://homepage2.nifty.com/sekkeisya/sayama/sayama3.htm

 頁はじめに戻る

←BACK