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1、築70年の家に住んで |
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2、それぞれの原風景 |
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3、屋根への関心 |
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そんなことを踏まえて、日本全国レベルで私が今回テーマにしたい本題に入りたいと思う。とは言っても国内で訪れてないところは、まだまだたくさんあるので、あまり確かなことは述べられないが、まず言えることは、元来、家というのはその土地に適した形や材料で造られるべきということだ。日本は北海道から沖縄までの緯度(北緯24°〜45°30′)は、日本列島沿いに測ると約3000kmもある。しかも周囲が海に囲まれた亜寒帯から亜熱帯に属する。しかも日本列島はモンスーン地帯にある。面積の狭い国ではあるが、世界に例を見ない複雑な気候に支配されている。そうしたことと日本の家の形に大きな影響を与えているように思う。その大きな違いが屋根の形状であると思う。先に述べた東京の風景には、勾配屋根が消えていっているように感じる。 そしてマンションやRC造、S造の陸屋根の家が目立つ。それが悪いというわけではないが、住宅メーカーが画一的な家造りを進めていけば、これからその土地の個性というべき屋根の形状は消えていってしまうのではないだろうかと感じるのである。それでは、まず屋根葺き材というのはどんなものがあるか簡単に整理してみたいと思う。屋根材は自然のものと人工のものに分かれる。自然系の材料は、天然スレートに代表される石と、茅葺き、檜皮葺きの材料の草木である。それに対し、人工の屋根材として窯業系、化学系、金属系、その他の材料がある。また屋根葺き材を調べていて、少しびっくりしたのが竹屋根というのが、日本に存在していたということである。今はもう見ることが出来ないが大正時代、大分県玖珠群玖珠町に、竹屋根の風景が広がっていたらしい。いったいどんな風景だったのか、体感してみたかったものである。建築塾でも随分触れることが多かった茅葺き民家について調べてみれば、本当にその土地との密接な関係に興味が湧いた。しかし屋根に興味を持った理由は他にもある。その大きな要因として去年建築塾が始まった頃、私は新しい職に就いた。そこは石綿スレート屋根材のメーカーだった。カラーベストと言った方がわかるかもしれない。確かに茅葺き屋根と石綿スレート屋根とは、対極にある屋根葺き材ではあるように思われるが、何かそこに至までの、日本の屋根の歴史に触れてみたくなった。カラーベストは、以前設計事務所で勤務していた頃、住宅の仕事をしていたので、普通に触れていた建材なのであまり考えてもいなかったが、現在勤めている社内にあった古い資料など見せてもらうと、発売当時は画期的な建材だったようで、新しもの好きの建築家は、こぞってこの屋根葺き材を使用したことが伺える。そこで屋根葺き材が日本の歴史のなかで大きく変わっていったことを改めて感じることになった。東京で生まれ育った私は、住宅メーカーが多用したこの石綿スレートを見かけることが多いのだが、それでも日本全国レベルで見れば、住宅の屋根葺き材の比率は瓦がまだまだ多いようだ。
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4、スレート屋根 |
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それではせっかくなので、まずスレートというのはなにを意味するかを調べてみた。英語で屋根用の薄い粘板岩のことで、本来は玄昌石などの天然石だった。鉄平石もかつて屋根材として使われていたことがあるが、スレート瓦葺きは、ヨーロッパで13世紀後半から表れ日本には、明治時代に洋風建築と共に屋根用スレートの技術が伝えられた。東京駅の駅舎屋根は、天然スレート(玄昌石)で有名である。それに対してカラーベストコロニアルは人工や根葺きの代表的なものである。昭和三六年、アメリカのマンビル社の技術提供により、株式会社クボタが国産化に成功してから、プレハブ住宅の伸びと相まって急速に普及し、屋根材の一時代を作り今日に至ったわけである。カラーベストは、カラー・アスベストの略語で石綿(アスベスト)セメントを混ぜてプレスしたものだ。近年ノンアスベストの開発も進められている。問題は、10年くらい建つと色があせてくることだ。大気汚染が変色を促進させる場合もあるようだ。それでも私自身、施行性にも優れていて、シャープなデザインが表現されるこの屋根材は、これはこれでとても良いと思っている。
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5、瓦屋根 |
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6、日本の民家と屋根 |
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そして思っていたより現存しているのがわかり、また茅葺き屋根の家で生活している人がいるのにも驚いた。そして奥多摩の茅葺き屋根の形で、ちょっと変わった形の瓦葺き屋根の民家を発見した。不思議に思い、インターネットでいろいろ調べてみた。そこで、建築設計社 建築家 鈴木啓二のワークのページ(http://homepage2.nifty.com/sekkeisya/index.htm)というサイトを発見した。そこに書かれている記述では、その不思議な形の屋根は「兜造り」と呼ばれる形状の屋根ということがわかった。日本の屋根形状は、寄棟、切妻、入母屋の大体3種類に分類される。しかしこの兜造りの他に、合掌造り本棟造り、くど造り、漏斗造りなど、茅葺き屋根では、とても個性的な形の屋根と見ることができる。このことが茅葺き屋根の魅力なのだと思う。だからそれに魅了される人が少なくないのかもしれない。鈴木啓二氏の記述を読むとその歴史的、地理的に大変興味深いことがわかったので原文から紹介させていただく。割愛させていただいた部分もあるので、全文御覧になりたい方は以下のURLをご参照願います。 抜粋:民家の観かた3:屋根の形:http://homepage2.nifty.com/sekkeisya/sayama/sayama3.htm <引用ここから> <入母屋域:近畿に多い>・・・・・・という分布になっている。狭山を中心にもう少し近い範囲を見ると、右の関東地方の屋根型地図のようになる。武蔵から平地続きの、下総、常陸、上州、相模と、ぐるりと寄棟域に囲まれ、山側の奥多摩、甲斐が、兜造り、切妻になっている。なぜ武蔵だけが入母屋であったのだろうか。 武蔵の国地域にある狭山丘陵南麓(東京側)で昭和40年代に行った立川、青梅、東村山、東久留米、小金井、清瀬への調査がある。この結果は圧倒的に入母屋が多い。東端地域の清瀬まで行くと狭山続きは入母屋でその先が寄棟に変わる。南地域の東京でも武蔵寄りは入母屋で、世田谷まで行くとまた寄せ棟域に変化する。このように、武蔵村山付近はかなり特殊な環境での入母屋域になっている。入母屋破風造りは京都周辺に多く、支配階級の建築から発した格式ある意匠で、民家での利用はご法度の地方もあった。 〜略〜 ■入母屋と寄棟の決定的違いは屋根の一部に開口が有るか無いかだ。 開口があれば換気と採光が取れ、屋根裏利用の条件が非常に良くなる。広域で見ると、これだけ廻りの地域が、寄棟なのになぜこの武蔵だけが入母屋になっていたのだろうか。勿論、たまたま流行ったとか、他の理由は否定できないが、最も可能性が高いのは、養蚕との関係での定着ではないか。 江戸時代から、つむぎの産地であった八王子では、かなり早くから養蚕が行われていた。ここでは明治の前半まで、比較的、原始的な蚕の飼育法が行われていた。それが民家のどこで飼育されていたかというと、母屋の屋根裏で、簾の子床の上で行われていたのだ。いくら原始的な飼育法でも通気や明るさが必要であったわけで、八王子の養蚕民家は、その時点ですでに入り母屋であったと思われる。 〜略〜 甲州、上州、八王寺地域の民家で、伝統的に日本で最も養蚕が盛んな所である。、これに長野を加えると1970年の統計でも、日本中の半分以上を生産している。この統計とこの図を見れば、養蚕が民家にどう影響を与えたか分かる。 白川郷の合掌造りは養蚕のために江戸時代に発生したと考えられているが(建築大辞典による)スケッチのバリエーションをみると、甲州の切妻は元々屋根裏利用のために発生したと想像したくなる。 〜略〜 図を見ると、明らかに養蚕以前に切妻があって、養蚕のために改造したという形態が分る。 〜略〜 甲斐と武蔵の中間地帯、今で言うと奥多摩町あたりは兜造りの地域であるが、兜造りというのは切妻から発生して屋根の角を隅切りして開口を取りやすくした形で、切妻屋根建築の養蚕対応型と解釈できる。切妻の影響域に近い八王子 〜略〜 では屋根裏の床レベルまで狐格子がついていた。 広域的状況からすれば武蔵の国は元々は寄せ棟域であったと想像できる。そこに山岳地帯から養蚕建築が伝播してきて武蔵の国の養蚕をしている農家全体に広がったのではないか。元々寄棟であったこの地域では、八王子より少し小さな入母屋になったのではないか。 隣町の瑞穂町誌(昭和49年4月)によると、茅葺屋根裏の養蚕利用を図入りで次のように記載している。上屋梁が里山民家より短い3間半の空間である。(よって天井高も里山民家より低い) 『上屋梁面のスノコ床をタナという。その上部にもう一つスノコの床(これを大タナという)を作る。下層部(タナ)両側の屋根面から、ヤトイタナを吊るして取付ける。タナも大タナも養蚕には重要な作業場で、蚕がヤトウのはここで行った。』と。 土着の屋根の形状、蚕の飼育などが微妙なバランスで融合し、奥多摩の地域に兜造りの形状が発生したことが伺える。茅葺き屋根については、まだまだ奥深く興味深いものがたくさんあるが、ひとまず私が足を運んで調べたのがこの「兜造り」だったので、これについてだけ触れさせて頂くことにする。ともかく東京の茅葺き屋根も、これから保存されていくことを祈る次第である。 |
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7、屋根からみた民家 |
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ちょっとした遠出で、茅葺き屋根民家を発見し、それについて調べてみても、いろいろなことが発見できた。自分の家、東京の町、そして瓦、兜造りの茅葺き民家について、自分なりに調べ、いろんなことを感じた。純粋にいえば家にとっての屋根とは、雨・風を防ぐものかもしれないが、その材料や形で、格式がつけらたり、その美しいスカイラインが街並の景観を彩ったりする。しかし、東京の町を眺めると、日本家屋の象徴である勾配屋根は少なくなり、高く延びる高層ビルが建てられていく。また住宅メーカーが意図的に、ある区画だけ、まるでテーマパークのように街並を作っているのにも違和感を抱く。自然発生的に作られた屋根の美しい形はこれからなくなってしまうのだろうか。その答えは、数学の答えのようにはっきりとした回答をだしてはくれないだろうが、先人が残してくれた民家がそのヒントとなるものを心に響かせてくれるのかもしれない。私はそう思い、これから日本のいろんな町を旅してみたいと思う。 <参考文献> ●図鑑「日本の瓦屋根」 坪井利弘著 理工学社 ●インターネットより |
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