神楽坂建築塾 第四期 修了論文
まちの再生についての一考察
「一本の芯」を求めて
  神楽坂建築塾第四期生 豊原みどり(宮城県石巻市)

  

 私が建築塾に入った最初の動機は、設計家Y女史が投げかけた「一本の芯」と言う言葉だった。2002年の夏、所属している仙台の片平たてもの應援團に声を掛けて「近代建築への旅スケッチ展第12回」の地方展開催を決めた。そのスケッチ展のオープニングイベントで平良敬一先生、鈴木喜一先生、應援團代表櫻井女史の三人によるギャラリートークに乱入(?)したY女史が、「一本の芯がないとこうした市民運動は、外部圧力に容易に潰されてしまう」と、彼女流のシニカルな激励をした。
(一級建築士だけがまちづくりを担っているわけではない。まちに住むのは、大方が専門知識の無い市井の人々である。餅は餅屋ではあるが、市民だって自分のまちのあり方に意見や願いを持っている。残して欲しいと思う、その思いを一級建築士は一級建築士なりに、無学の市民は市民なりにアプローチして良いのではないか。)その言葉を聞いた時、私は大人気ない彼女の姿勢に対して少しの可笑しさと哀しさと反発を感じた。

 やがて、時間の経過と共に彼女の言葉の枝葉は忘れて「一本の芯」が心に残った。相手が如何なる動機で語ったにせよ、学ぶ点があればそれを聞き逃す事は無い。彼女が團の活動を以前から何故か快く思わなかったにしても、確かに「一本の芯」は私自身には必要な事のように思われた。「一本の芯」があれば市井の人間の声でも、容易に外部の騒音にかき消される事はないのではないか、と思い始めたのだった。彼女の言わんとしていた「一本の芯」について、彼女の真意を尋ねる機会も無かったのでそのままであるが、私は私流の「一本の芯」を探して行こうと考えたのである。勿論、入塾したから自動的に答えが得られるとは思った訳ではない。思考のヒントが得られるのではないか、との期待があったのだ。

 さて、一年の塾生生活で果たして「一本の芯」が何か掴めたのか、あるいはせめてヒントは得られたのだろうか。自分のこれまでの活動を振り返りつつ、一年間で考えた事、悩んだ事、あるいは結論付けた事などまとめていこうと思う。


 まずは、片平たてもの應援團について少し説明したいと思う。私達は、宮城県仙台市にある東北大学片平キャンパスの近代建築群の保存活用を市民レベルで考えている団体で、平成10年から活動している。團員は多い時で150名。活動の四本柱は、月一回のキャンパスのゴミ拾いボランティア、片平たてもの通信の年4回発行、片平キャンパスの未来を語る集い、片平近代建築写真展の開催。加えて、勉強会、近代建築見学ツアー、イベント企画などを行っている。まちの助成金を受けて、オリジナルの片平キャンパス界隈お散歩マップ制作、スケッチ展の地方開催をメインにした複合企画『仙臺 近代建築ルネッサンス』、片平キャンパスを素材にした公募展『ART COMPLEX 片平』等の実績がある。仙台では、熱心に活動している市民団体として注目され、実際よりも高い評価を受けている印象がある。

 高い評価と注目の要因は、應援團を立ち上げたのが主婦ふたりだという点、そして活動自体のユニークさと新鮮さだ。活動的で才能のある魅力的な女性達がリーダーなので、その魅力に惹かれて参加した人たちも多かった。加えてメディアを賢く利用して広報活動した事もあり、知名度がどんどん広がった。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌に取り上げられ、それまで片平キャンパスの近代建築の存在を知らなかった多くの市民に、その素晴らしさを認識してもらえるようになった。

 昨年の3月に、産業考古学会に代表が提出した論文がきっかけで、学会から片平キャンパスは「推薦産業遺産」の認定を受けた。それが直接の原因ではないと思うが、5月に東北大学がそれまでの青葉山全面移転を方向転換して、片平キャンパスの一部保存活用と学都仙台メモリアルパーク構想を発表した。大学側は、その方向変換の一因として、市民の保存を望む声に耳を傾ける為と説明している。移転予定地である県所有の青葉山には現在、ゴルフ場がある。移転を巡って県とゴルフ場が長い間、裁判で争っている経緯がある。その間に、大学側も強硬に全面移転する方針よりも、片平を残す方向に考えを修正したのである。大学側のワーキンググループに、他大学の都市環境学の教授を筆頭に県、市の職員、さらに我々の團の代表が参加を要請された。こうした外部の意見を聞こうとする姿勢、代表が参加要請された事は、これまでの我々の地道な活動がある程度、大学側に評価された事の証拠だろうと思う。

 大学側の構想の概要は、現在ある片平キャンパスの3分の1に当る、8haを大学の研究室として使用して行くと言うもの。その中に、何を残し何を壊し何を建てるべきかと言う話し合いが行われ、提案報告書はまとめられて現在、決定権のある学長サイドに提出されている。国立大学の法人化に当って、文部科学省は各大学に当分の間、現存する建物を活用し、新しい建設を見合わせる様に通達したとも聞いている。このチャンスを最大限に活かして、具体的な賢い保存活用の策を提案し、早急に行動していく必要が生じたのである。

 都会の真中に広い敷地を有し、歴史を感じる建物と美しい環境が静かに残っているのは、特別な事である。とりわけ仙台は、第二次世界大戦で仙台空襲を経験した際に、殆どの貴重な建物を焼失した。他所から仙台駅に降り立った人は、どこの地方都市とも大差の無い特徴の無い姿を見ることになる。

 現在、仙台市内にある近代建築の内、その殆どが集中しているのは片平キャンパスだけである。片平キャンパス界隈に住む仙台市民にとってそこは桜の季節には花見に、普段は住宅地から商店街への近道に、あるいは散歩コースに、と日常生活の中に身近にあって無くてはならない環境となっている。私の叔母二人は、高校卒業と同時に近所の米が袋に住み込みのお手伝いさんとして働いていたのだが、よくキャンパスの中を通って一番町の繁華街まで買い物や用足しに出掛けたと言う。ここは、学生や教授や大学職員だけの場所ではなく、多くの人の記憶に快く染み付いた空間環境なのである。キャンパスの近隣の商店街は、最近になり大手のスポーツ店、老舗の映画館、本屋が相次いで閉店したり移転したりして活気がなくなっている。地域の活性化まちの再生には、片平キャンパスの歴史的建築物を賢く利用して行く事が鍵になると、地元商店街も期待を寄せている。

 比較する事が良い事なのかわからないのだが、例えば内田祥三がその殆どを設計した東京大学の本郷キャンパス建築群は、全体に落ち着いた重厚な印象で統一されている。法文2号館、法文1号館の暗い通路に入ると、外の工6号館の建物と手前の緑が夏の強い陽光に白く反射しているのがまるで、アーチ型に切り取られた絵画の様だ。工芸品館の前には、日本建築の父、コンドル教授の像が立っている。学生運動盛んな頃の映像に必ず出てくる安田講堂も威風堂々としている。本好きには外せない図書館も許可を頂いて見学させて貰ったが蔵書も豊富、デザインも玄関に入って直ぐの吹き抜けと階段が素晴らしかった。赤門のような江戸時代の建造物もあれば、三四郎池もあって、流石に日本の最高学府、と唸らせる建築と環境だった。

 それに対して、片平キャンパスの建築群は、建物全体の印象は統一感に欠け、実に様様なスタイルの建物が雑多に集まっている。大正14年の現東北大学歴史史料館は、一番の雄だ。が、それ以外は、威風堂々、華麗、落ち着きという表現からは遠い。

 しかし、である。ここ片平は、多くの学校の発祥地。学都仙台として古い歴史に刻まれて来た。この東北の学舎から知識人を数多く輩出し、世界に誇る研究成果を数多く生み出した場所である。そして市井の人々にとっても、ささやかな日常のヨロコビを提供し続けてくれた大切な場所なのだ。 

 相対的な建築的価値で評価する事が私にはできない。東大には東大の事情がある。日本の最高学府としての面子がある故に、それなりの設計が必要不可欠だったろう。同時に東北大にも東北大の役割と様様な事情で、歴史的な背景を持つ個性溢れる建築が集まっているのだ。仙台に東京がある必要は全く無い。問題は、自分達がこの場所と建物とそこに纏わる歴史や人々の思いを全てまとめて仙台らしさとして愛しているという、その思いこそが大切な事ではないのだろうか。


 話は、横道に逸れるが、小学低学年の頃、社会科の宿題で30年前の生活と今の生活の違いを父母に聞き書きしてくる、と言うのがあった。社会のノートを持って父に尋ねると、実に多くの違いを上げてくれ、クラスで一番たくさん違いを書き連ねて行った。その中の、幼い頃に父が、北上川で泳いだり水を直接飲んだりした事が印象に残っている。私が小学生の時にすでに川の水は汚染されており、飲む事は勿論、遊泳も夢のまた夢の状態になっていた。

 何故、こんな昔話を書いているのかと言うと、つまり、優れた環境は意識的に残そう、次代に伝えようと努力していかないとわずか30年か40年で激変してしまい、後悔しても遅いと言う事を強調したい為だ。何故、自分達ばかり良い環境を楽しんでその喜びを次代の子どもに味わわせてくれなかったのか。幼いながらすでに恨みがましい性質の私はそう思った。同じ感情を、次世代の子ども達に抱かせていいものか。歴史ある建物が立つ環境が、戦禍を逃れて自分の時代まで残っている奇跡を感謝し、自分も次世代に伝える責任を果し奇跡の連鎖に関わりたい、と思うのである。百年後の決して会う事の無い子ども達に、都市の中にある自然と広々とした空間、歴史ある建物達を体験して貰いたいのである。

 私は個人的に上のような動機で、自分のできる範囲で活動を五年続けて来たのだが、五年の歳月は人の生活に変化を与える。團員にも、変化が生じた。結婚、移転、病気、出産、トラブル等など。メンバーの入れ替わりが生じ應援團も節目を迎える年となった。NPO三年説と言うのがあるそうだ。熱心に始めたものの壁に当り、失速して解散。それが、三年位で迎えるの団体が多いと言う。その点、團が五年も持った事は評価されても良いかもしれない。

 しかし、正直五年持ったのは、代表達の力に負う所が大きい。カリスマ主婦が、パワフルに活動し團を牽引して来たのだ。だが、その代表二人が相次いで個人的事情で代表を降りてしまい、残された團員は、どこに向かうべきか、方向性を模索する事態を迎えたのである。成長過程で、それに伴う成長痛が應援團にも生じて来たのである。成長痛ならば、終わってしまえば笑い話なるのだが、こければ皮肉な事に外部圧力ではなく、内部圧力で應援團が潰れてしまい兼ねない。そうなっては、洒落にならない。笑えない。(笑うのは件のY女史だけだろう。)

 私個人の身上にも、変化が生じた。健康問題や経済的自立等、生活の調整が必要になったのである。また、内面的な変化も生じた。五年の歳月は、私自身にも変化を促すのに充分な長さとなったのである。

 前述のように現在、片平キャンパスの保存・活用問題は、山場を迎えている。今までのやり方だけでなく、この新しい局面に相応しい新しい積極的なアプローチが求められている。8haの敷地内の保存問題、残り16haの土地と建物の今後の行く末に関する保存問題と考えるべき問題は山積しているのである。一致団結して保存活用の為に大きく、力強く踏み出すべき時で、絶好のチャンスであり正念場なのである。

 しかし、残念だが同じ團員であっても現在の状況に対して緊急感や、問題意識が均一な訳ではない。入團の動機も個々人で違いがある。保存活用に対してさほど関心のない人も存在している。見解の相違があるのは、人間だから当然。活動への貢献度も個々人の事情があるので均一にできないのも当然。しかし、内部の者が片平キャンパスに保存の価値があるのか、と言った基本的な理念すら同じに出来ない人間がいたり、責任を果さずに注文だけ付ける人間がいたりすると、実務担当者がヨロコビを持続するのが困難である。責任感だけが「一本の芯」になると、重圧に容易に折れてしまう。実際に、無理をして病に倒れた人間がいるし、私も倒れる寸前まで精神的肉体的に追い詰められてしまった。昨年は、通院し、薬を服用しながら激務を代表と二人でこなす日々が続いた。

 應援團と自分の為に「一本の芯」が何か考える一年にしようと、入塾したのであるが、気がついてみると学んだ事を還元したい場所が私の中で消え掛けていたのである。それは、應援團の将来が消えるかもしれないと言う文字通りの意味と、私の中で重い位置を占めていた應援團に対する思いの変化が生じたという意味でもあった。


 最初、Y女史が言ったのは、「専門性」だと思っていた。建築に関する知識を持つ事が、一本の芯だと。専門性は、大事な事だと思う。

 しかし、素人の私が僭越だが、専門性、知識だけでは「一本の芯」にはなり得ない気がしている。まちの再生と称して大きく環境を変えて賛否両論の建築を作る、例えば六本木ヒルズのようなものも専門的な知識のある人々が創造したものなのだから。さらに、自分はプロとして専門性があるとの自負が過剰になり謙遜さがなくなった時、それは人として甚だカナシイし、低次元の人間が創造するものが真に人の心を打つような作品と成り得るのか個人的には疑問を感じる。

「一本の芯」とは、実は専門的知識に加えて、幅広い資質や要素が強撚糸のようにまとまってできているのではないだろうか。自然賛歌、人類愛、責任感、自尊心、感謝、喜び等、複合的かつバランスのとれた要素の集合体。とすれば、一本の芯を持つ事は、人間性を高めて自己陶冶の道を邁進して行かなければ、持てない遠大な目標だ。

 それが自分のものにできれば、精神的にも鍛錬されて力強く、活動を続けて行けそうな気がする。一朝一夕には身につかない、生涯追い求めて行かなければならないもののような気もする。あるいは、それを追求する生き方を続ける事こそが、一本の芯なのかもしれない。

 


 一年間の苦しい期間を経て、私は三月三十一日付で片平たてもの應援團を退團する決意をした。生活の為に調整が必要になった事と、限りある時間と体力と経済力を有効活用して、精神的に負担の無い方法で自分なりに新しいアプローチによる片平の保存活用に取り組みたい、との動機で決定した。残された團員がそれなりに頑張っている姿を見て、少し安心できたせいもあって、気持ちよく團を去ることができた。

 去年、12月に新しく立ち上がった、「片平キャンパス近代建築トラストファンド」がその新しいアプローチである。感情論で、「大事だから保存して下さい」と叫ぶだけでは不十分に感じ、具体的に保存問題のネックになっている経済的負担を市民が身銭を切って応援する、新しいシステムを作ったのである。この活動であれば、雑務に忙殺されて時間を拘束される事が無い。心地良く、マイペースに息長くボランティアできる。発起人は、一口10万円の寄附。一般寄附は一口1万円。最近は、小口の寄附1000円も始めた。現在、発起人は、22名が参加し、賛同者は100名を越えた。寄附は目標総額の、三分の一を越えている。第一弾が成功すれば、残りの16haについても、希望が持てるかもしれない。片平たてもの應援團と共に手段は違っても同じ目的の為に、お互いにエールを送りあいながら長く活動できれば、と思っている。

 まちを再生する為に、片平たてもの應援團として活動した5年間は多くの事を学ぶ機会となった。退團に至るまで、苦しい自問自答が続いたが、

 それは、私自身に自分の生き方を振りかえさせるものともなったし、これからの生き方を考える機会にもなった。自信の欠如で自尊心の無い私は、責任感だけが人一倍強く、キャパシティを越えるとすぐに参ってしまう。このままの自分では、到底何事か成し遂げる事はできないと思う。

 能力を見極めて、その中で自分にできる努力を喜びの内に払い、達成感を味わい、自信を取り戻す事。それが、今の私の目標だ。まちの再生は、私個人にとっては、ちょっと大げさだが私の人生の再生にも繋がったように思う。

 今後も、「一本の芯」の答えを見つける為に、学び、学んだ事を反芻し、自分自身の血肉にして行きたい。経済優先の日本にあって、時流と逆に生きるのは大変であるけれど、ある意味とても贅沢な事かも知れない。神楽坂建築塾の精神が少しずつ草の根のように各地に広がって、よりよいまちの再生に繋がって行けるように、私にできる事を私は自分のまちで継続していくつもりである。

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