神楽坂建築塾 第四期 修了制作

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  神楽坂建築塾第四期生 豊原みどり

はじめに

 

 私は、平成10年4月に、郵便局で仕事をしながら、通信制の武蔵野美術大学短期大学部に入学した。同じ年の4月、仙台には『片平たてもの應援團』が発足する。カリキュラムの中に「日本近代建築史」という興味をそそるものがあり、その勉強の一環になるとの動機で、入團。
 以来、個人として、あるいは、團員としてのフィールドワークが始まった。フィールドワークと言っても、専門家ではないから文献を調べ、それを基に現場に行き、建物と対峙し語り合い、スケッチをする、というのが基本形である。

 同じ建物を何度も訪れる事も有れば、一期一会でもう訪れる事が出来ない建物もある。それは、建物が取り壊されれば、勿論、二度と会う事は出来ないと言う意味もあるし遠い土地ゆえに再び訪れられない、ということもある。
 残念ながら前者の理由が圧倒的に多いだろう。それをなんとか回避して、一つでも良い建物を保存する事は大事である。

 が、しかし、それ以上にいかに活用するかのほうが、実はもっと大事な事ではないか、と5年に渡るフィールドワークで考えるようになった。

 各地で、保存に対する意識が以前よりは少しずつ高まって、まちづくりに古い建物を活用する所も増えている
 しかし、ただの物の展示だけで満足していては、建物の魅力は生かしきれないし、尻つぼみの保存に終わるような気がしている。

 その場所、建物を包む環境、人々の生活、全てを巻き込んだ思いを大切にした再生のあり方を模索する事、それがひいては、百年後の会う事の不可能な子供達の笑顔に繋がるような気がしている。
 拙い、スケッチで鑑賞に堪えないのは承知であるが、そのスケッチの背景にある深い思いなどを汲取っていただけると幸いである。

豊原 みどり

 

やまびこ荘 
静岡県・西伊豆町 昭和11年竣工

 2002年の春、私は、通信制短大を卒業したのだが、二月の梅の時期に三島の友人に案内してもらってMOA美術館に尾形光琳の紅白梅図屏風を鑑賞する卒業旅行をした。(この作品は梅の時期だけ限定展示される)その際、泊まったのがここである。山奥で100年を越える歴史を刻んだ小学校が廃校となり、それを利用して温泉宿となった所である。
 客室は、三人で泊まってもかなりの広さであった。隣の一部屋がやまびこ簡易郵便局となっていた。
 昔、夏休みに父が中学校の宿直当番の時、家族全員で学校に泊まったのを思い出し、懐かしさがこみ上げて来た。
 温泉は温めで、熱めが好きな私には物足りなかったが、それ以外は、鄙びた料理もおいしかったし、友人と過ごす贅沢な時間が何よりだった。何より素敵な事は、一泊二食付わずか4500円(外税)というリーズナブルな所。夏休みの家族旅行で連泊にはもってこいの場所だろう。
 絵は、友人達が帰り支度をしている朝、短時間に描いたのでごくあっさり目のスケッチである。もそもそ描いていたらあっという間に帰宅時間になってしまった。
 一緒に卒業した三島の友人は、2002年の優秀賞を獲得して、現在美大四年制の三年次に編入して頑張っている。いい作家になって欲しい。
 15歳も離れた彼女と共にリポートを交換し、互いに刺激しあいながら勉強できた事は、私にとっていい経験だった。
 もう一人の友人は、結婚して静岡県人になって、今では一児の母である元同僚だ。この組み合わせでの旅行は最初で最後だけに、絵はあっさりでも、思い出深いものが私の中にはある。

道中庵 
宮城県・仙台市太白区

 2001年、夏。
 卒業年にも関わらず、不用意にもらした私のひと言、アユミギャラリー主催の「近代建築への旅 スケッチ展第12回地方展」仙台誘致の件で実行委員をする事になり、さらに企画は、雪だるまに増えてとうとう「仙臺 近代建築ルネッサンス」と大仰に銘打った複合的なイベントへと成長してしまった。何時の間にか、全てのイベントに関わらざるを得ない状況になり、『口は災いの元』だとつくづく思った。
 スケッチ展の出展者、あるいは神楽坂建築塾塾生などが地方展を見る為に毎年恒例のツアーを行っているのだが、そのお客様の宿舎として見つけ出したのが、道中庵ユースホステルである。
 ペアレントの板橋さんは、心の寛大な方で、福島から移築再生した古民家のユースホステルを片平たてもの應援團の團員に作品展の会場として使用する事を許してくださった。古民家と團員の作品がベストマッチして素晴らしいハーモニーとなったと思う。
 夜更け過ぎまでツアーでいらした近代建築を心から愛する人々との語り合いも又、思い出多いものとなった。とりわけ、アユミのスタッフの渡邉さんと愛読書が、お互いアーサー・ランサムサーガで思いっきり盛り上がった。その後貴重な旅のフィールドワークノートを貸してくださり、以来、本を貸し借りする仲になっている。
 翌朝、5時に起きて、スケッチに外に出ると、すでに多くの先客が地べたに座って道中庵を熱心に描いている。軽く朝の挨拶をして、それぞれ絵を描く事を心から楽しむ姿を見て、“仲間”がここにいる、と心に熱いものがこみ上げた夏の朝だった。

第二高等中学物理学実験室
東北帝国大学 本部・庶務・会計課・学生課・営繕課・交換室
宮城県仙台市片平  明治24年・昭和9年他

 私が所属している「片平たてもの應援團」が応援しているのは、東北大学片平キャンパスの近代建築群である。仙台空襲で町の大半を焼失した仙台にあって、ここは仙台に現存する近代建築の殆どが集中している贅沢な空間環境なのである。
 この本部、庶務修繕課は、建物の「パッチワーク」である。継ぎ足し続けたお陰で雑多な色と一貫性の無さで実に面白い建物となっている。まるでいろいろな個性の人間が集まって成り立っている社会のような、一流作品にはない、B級の味わいだ。「パッチワーク」で例えれば、クレージィキルトのようなランダムな味わいである。
 「ART COMPLEX 片平」(片平キャンパスを主題にした作品展2002年11月)のプレ企画で9月に行ったキャンパス見学・スケッチ会の折、代表が普段行かない裏側に廻って、その一角はどうやら元は電話交換室だったらしいと解説してくれた。そこだけ、素材が石造りで窓枠も他と違う。流石に「パッチワーク」とまたまた感心した。
 このスケッチは、2001年に「近代建築史の旅スッケチ展第12回」の地方展を行う為、鈴木喜一先生にスケッチを描いて頂く為案内した日で、5月なのにかなり寒く、手がかじかんだ記憶がある。前日、千葉工務店社長の千葉ちゃんとしたたか痛飲した先生は、約束の時間に道中庵に迎えに行った豊原を玄関でかなりの時間待たせた。二人ともすっかり寝過ごしたのである。この辺の事は、[チルチンびと]誌上で先生がエッセイに詳述しておられる。
 だらしなく軟体動物化した先生だったのだが、絵を描き始めたら素晴らしい集中力を示し、素敵な作品を描いちゃうんで、大いなる変貌振りも忘れられない。鈴木喜一多面体パチワーク伝説だ

東北帝国大学 理学部化学教室
宮城県仙台市片平 昭和2年・昭和10年

 スクラッチタイル張りのかなり大きな建物で、ファサードは縦長の白タイルの化粧が施され、大きな大きな扉が付いている。最近になって、この扉戸のペンキが塗り替えられていて、ショックを受けた。
 大抵、修繕すると妙な色合いに塗り替えられるのは一体誰の陰謀なのだろうか。
 私は、密かにペンキ屋の在庫一掃セールに乗せられて、安さだけで選択してはいないだろうか、と疑っているのだが。以前の色に近いものを使用したとしても、他が古い色合いの中に新しい色が来るとギャップがあって難しいのに、最初から調和をあきらめて程遠い色を決定しているように思われ、残念である。
 この建物は、東北大学の考古学関係の資料が収納されているとの事である。應援團が発足したばかりの頃、見学会の時、たまたま扉戸が大きく解放されていた事がある。嬉々として中を覗くと吹き抜けの大きなホールと大きな階段があったように記憶している。その時、いつもはクールな大成建設にお勤めの佐藤さんが、内部を見学できたヨロコビに相好を崩していたのも強く印象に残っている。(かなり嬉しそうだったぞ)
 この建物は、見る角度を変えると味わいが全く変わる。ファサードの堂々とした大きな印象と違う繊細な顔もある事に何年も通ううちに気付いた。ゴミ拾いボランティアしている時ふと見上げるといつもと違う表情を発見することがある。
 この絵は、2001年の「仙臺 近代建築ルネッサンス」の複合企画の、プレ企画のスケッチ会で描いた。五月晴れの実に爽やかな新緑が美しい一日であった。

ここに収録したものは提出作品の一部です。

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