AYUMI GALLERY

1998.4.24 fri. 〜4.29 wed.

岡村多佳夫企画「
佐野陽一展
透明な写真/transparency

佐野陽一 (さのよういち)
/美術家 70年東京生まれ。94年東京造形大学卒業、96年同学研究生修了。
96年日仏学院ギャラリー(東京)、横浜日仏学院ギャラリー(神奈川)で個展開催。
95年広島国際学生アートフェスティバル、97年「版による」ギャラリー檜(東京)、
「コレスポンデンス/ランドスケープ」Gallery工房 親

「透明な写真」

結局のところ、写真はそれ自身を見られることがなく、言ってみれば透きとおったガラスの様にあるいは鏡の様なモノとして存在しているのではないか?

私が写真を表現方法として発表してきた中で最も多い質問はつぎの二つである。
1.この写真はどこで撮影したのか?
2.この写真はどうやって撮影したのか?

1は被写体となったモノや場所を特定し、そこの写された大正を問題にする。2は撮影の方法を問題とし、どのようにして写すかということを問題にする。
しかし、この1.2の問いは写真にとってナンセンスという他は無い。これまで我々が写真について語るときに写真そのものを言及することはなかった。bbこの二つの問いを掲げることによって周到に回避してきた本題こそがそれであったと言えるだろう。

絵画がキャンバスの上に塗り重ねられた被膜としての絵画という強固なマテリアルを持つ一方、写真のマテリアルは限りなくゼロに近いと言える。その物質感の欠如は、絵画の表層へと見る者の視線を誘い、漂わせるのに対して、視線の透過として、写真の透明性としてあらわれている。

肉がメスで切られるとき、能動はメスとその運動であり、受動は肉とその状態である。だが、〈切る〉こと、〈切る〉という動詞の不定法で表される出来事それじたいは、どこにあるのか。それは、メスの能動にも、肉の受動にもなく、質も深さもない「表層の効果」としてあるだけだ(前田英樹「言語の存在論的基礎」について)。

▲展示風景

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