2月11日[早稲田スコットホールを描く]報告記
寒風の中、赤レンガと対峙の巻
■アユミギャラリーより走って10分。講師の鈴木喜一氏は自転車に乗ってやって来た。
午後1時。時には晴れ間も兆す曇り空、たまの突風が参加者を震え上がらせる。「今日よりお天気は下り坂……」との予報にもひるむことなく集まった12名は、一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)ことウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)の作った赤煉瓦教会の前に立つ。「私が来ていた頃は、この周りは何もありませんでしたね。ちょっと離れてやっぱり煉瓦造りの宿舎があったくらいで……」敗戦直後、早稲田大学が米軍に接収され、学生時代このスコットホールの地下室で実験を繰り返した時分のことを倉谷弘男さん(和光堂(株)常勤顧問)はこう述懐する。
今や周囲を学生センター・ 早稲田奉仕園の各設備に囲まれ、大正10年生まれのスコット氏がこんな塩梅で建っているとは、外からちょっと見ただけでは判らない(図版参照)。
■「国産の煉瓦はほとんど一様に同じ色になることが多いんですが、ここのは一つ一つ微妙に色が違いますね。どこで焼いたんでしょうか」と堀田明嗣さん(会友・東京企画理事、編集長)。見ると、オレンジ色に近い茶色の煉瓦もあれば、くすんだ茶色、灰色がかったもの、黒っぽいものなどもあり、それらの色彩が壁面にほどよく配されたかのように入り乱れている。……出自はたぶんアメリカかも知れない。ヴォーリズは、建築家のほか『メンソレータム』で知られる「近江兄弟社」(伝道部と産業部に分かれる)の創立者でもあり、産業部の「近江セールズ 」はメンソレータムの他に、アメリカから建築材や家具などの輸入販売も手掛けており、もう一つの産業部「W・M・ヴォーリズ建築事務所」の作品にはその輸入品が使用されているのである。
ただしスコットホールでは1991年の改修の際、煉瓦の取り替えが行われたと東京都生活文化局は述べている。どれほどの煉瓦が取り替えられたかは調査不足のため不詳。……駐車場警備のおじさんによれば「いや、煉瓦は変わっていませんね」。煉瓦に関しては外観の全体像の印象が一変してしまうほどの改変ではなかったらしいことを窺わせる。
駐車場警備のおじさんが仕事の合間に、楽しそうにスケッチ中の参加者の絵を見て歩いておられる。「同じもの描いてるのに、絵はみんないろいろで面白いねえ」と言いながら、地面に座ってスケッチする参加者に折り畳み椅子をいくつも持ってきて下さった。……早稲田奉仕園からポットを拝借し、倉谷さんの持参した和光堂の即席飲料で、警備おじさんと共に全員体を温めつつスケッチ続行。『ココア・オ・レ』特に好評。赤煉瓦の教会から式を終えて出て来た花嫁のヴェールがやわらかく水平になびき、彼らの頭上に撒かれた花弁が硬貨のような転がり方をして我々の足元にも飛んでくる。
午後4時。スケッチも終わる頃、ホールでは2件の結婚式が終了し、礼拝堂に入らせていただいた。堂内は結婚式のリハーサル中なので2階席に上がる。天井も床も1階の長椅子もすべて木造。どちらかといえば家庭的で日常的な暖かみのあるデザインの照明。その下で、平服の人々が緊張しつつも楽しげに、結婚式の配置で打ち合わせをしているさまは、さながら現代劇の舞台のようである。
「この椅子いいな、持って帰りたいな」と小林加代子さん(会友・季刊『武蔵野美術』編集)。二階席の椅子は地味なデザインだが、落ち着いて座っていられる。
その後ホールの二階の一室を借りて講評会が行われた。……惜しむらくは二階席の椅子。ひっくり返して銘柄を見ればよかった。近江兄弟社が輸入ないし製造したものかも知れない。
プラクティカルな伝道者・ヴォーリズ
■スコットホールを建てたヴォーリズ(正確には彼の事務所だが)は、じつは正規の建築教育をまったく受けていない。カンザス州の敬虔なクリスチャンの家庭に生まれ、早くから建築家志望であったが、もとより信仰心も篤く、コロラド大学在学中に中国で伝道活動をする宣教師の講演を聴いて感動し、海外伝道を志す。その後は「趣味または娯楽として」(一柳米来留「失敗者の自叙伝」)独学で建築を研究している。しかし、こうした一旦の断念を経たことで、むしろ彼の創造性は異国の地でいっそうユニークな展開を見ることになる。
1905(明治38)年、キリスト教青年会(YMCA)を通じて、滋賀県・近江八幡の商業学校に英語教師として着任。その傍ら、自宅で生徒たちを対象に聖書研究会を開くが、当初7名だったクラスは1年をまたず200名を越え、これをもとに学生YMCAが作られるに至る。彼はこの青年会のために自ら会館を建てようと、来日1年目に初めての(あまり上手でない)図面を引くことになる。複数の篤志家の協力を得て翌年最初の作品が竣工するが、間もなくキリスト教熱の高まりを懸念する校長により英語教師の職を解かれてしまう。
しかし彼は近江を離れることなく、まず伝道雑誌発刊のため「近江ミッション」(のちの近江兄弟社)を設立、彼の建築設計業がこの屋台骨を支えた。のちに内外の支援者やスタッフを得て、建築事務所のほか、教育や慈善医療、雑貨輸入販売などの事業を手掛けるようになる。これらの活動は、単に伝道資金を得るためだけのものではなく、仏教の伝統が深く根付いている近江の地で、実際面から地域社会を支えることをもって伝道の実践とするものであった。彼のクリスチャン・ヒューマニズムは、こうして広く受け入れられるに至り、建築事務所のスタッフも増え、キリスト教関連のほか一般からの依頼も得て軌道に乗りはじめる。特に住宅建築では、一般の人々のものではなかった西洋建築を「最小限度の経費を以って、最高の満足を与え得る建築物」(「ヴォーリズ建築事務所作品集」1937)として普及させることに熱を入れた。1919年、日本人女性と結婚。戦時色の濃くなった1941年には日本国籍を取得、一柳米来留と名乗り、1964年に84歳で没した。
(彼の建築事務所は、教会、ミッションスクール、社屋、病院、住宅など2000余の作品を手掛けたといわれる。が、現存するものは50棟に満たない。)
スコットホールが建てられたのは、建築事務所の態勢が整い、外国人宣教師や上流階級のための作品が多かった時代から、社屋建築や一般(キリスト教徒でない中産階級)の日本人のための住宅建築を手掛け始める時代に入ったばかりの、いわば充実期にさしかかった頃に相当する。
ヴォーリズの合理性
■ユニークといえば彼の伝道の姿勢もそうである。直接的な伝道が難しい場合の、こうした現実的なアプローチはアメリカで宣教師の心得として教えられるのだろうか。
たとえそうだとしても、彼の仕事はやはり、伝道者としての使命感と、ものづくりの好きな性分が共存するという一貫性のとりにくい個性のなせるわざだと思われる。それを異なる宗教、異なる住文化の中でうまく生かしめたのは、多くの生徒たちに慕われ、多くの支援者を得ることにも見られるような彼の人間性と、合理的精神であろう。「合理的精神」というとドライで冷徹なそれを連想させるが、自分の「気持ち」をより受け入れやすく、より長期的に役立つ形にして相手に届けるため、実際的な手順を踏んで工夫をこらすのが、真の合理性であり現実性であることを彼の仕事は気づかせてくれる。
(建築の仕事、特に住宅建築では、大正期はアメリカ住宅のかたちをそのまま持ち込む啓蒙的導入も行なっていて、一概に、浸透のために身を砕くばかりであったとは言い切れないのだが、それでも彼は「アメリカの建築家ではなく、日本で建築を作った特異なアメリカ人であったのだ」と山形政昭氏は著作の中で評価している。参考文献参照)
熱烈な伝道への意欲と人を魅了する充分な力を持ちながら、かつ酔っ払わず、独善に陥らず、実生活から人を支えようとしたヴォーリズの健康さには、建築家ならずとも学ぶものは大きいだろう。
高揚よりも安息を目指す空間
■ただしこうした特性は、神秘性や精神の高揚といった、宗教の派手な側面からは遠ざかった外貌をなすという難点はある(内面では原動力として存在しているのだが)。スコットホールはたいへん美しいし規模も小さくはない。しかし威圧感や華美になることは慎重に避けられており、良質で気取りがないかわりに、部分的には意匠上こだわらなさすぎではないかとさえ感じるところもないではなかった。
「ヴォーリズにとって建築は作家の一方的な思想の吐露ではなく、あくまで人びととの語り合いであった。」(「建築人物群像」1995、この本のヴォーリズ評は短文ながら卓見。参考文献参照)スコットホールは、聖性・非日常性の演出より、どちらかといえば日常の安定・調和・温かみの中で人に力を与える空間として作られたようだ。この場合、教会建築という非日常空間に、彼の以下のような住居(=日常空間)哲学がそのまま生きているかのようである。「食堂が最も楽天的に理想的にでき、(……)入るや否や、(……)心持よくなり、(……)温い気分満ちましたならば、一般人類の生活のために、楽しい努力をささげる根本の力を得ることとなりますでせう。」(ヴォーリズ「吾家の設計」1923、模範的食堂について)
ヴォーリズは、調和のある日常風景が人にとってどれほど大きい支えとなるかを、どこかで痛いほど感じ、知っていたのであろう。高邁な理想を常に、より日常的なものの細部へ溶け込ませようとした彼の特性の両面……上記のような……のどちらにも、最も明瞭な形で出会えるのが、教会建築という題材であり、スコットホールもその実例のひとつだという気もするのである。
生活秩序や細部への配慮、技術への通暁を短絡的に迎合や堕落とみなし、その内実では「技術」へと偏った形で激しく傾倒する「宗教」……この国でこの極例が生まれ、世の人を「より高い世界へ引き上げる」ために実力を行使したのはそれほど昔のことではない。……いまを生きる人が、ヴォーリズの建築作品を訪れることは、決して無益ではないと思われる。
【早稲田スコットホール概要】
建造物名称:早稲田教会(スコットホール)
竣工年:1921(大正10)年
所在地:東京都 新宿区 西早稲田 2-3-1
構造:煉瓦造(屋根・床/木造)
様式:ロマネスク
設計監理:W・M・ヴォーリズ建築事務所
施工:不詳
改修年:1991(平成3)年
東京都指定・歴史的景観保存建造物
●一柳米来留(ヴォーリズ)の作品の歴史は、赤煉瓦建築および木造コロニアル建築の多い大正期、鉄筋コンクリートを主要構造として種々の様式をデザインした昭和初期の二つに大別される。このスコットホールは前者のものであるが、後者の時代においても、これとほとんど同じ意匠が一度住宅建築で使われている(広岡家・目黒別邸 S5)。赤煉瓦の教会建築では大阪教会(T11)や神戸女学院ソール記念礼拝堂(S8)などの名作が現存している。
●アメリカの宣教師、ハリー・バクスター・ベニンホフ(1874〜1949)はバプテスト伝道団から日本に派遣された翌年(M41)、大熊重信の要請をうけて早大生のためのキリスト教主義学生寮「友愛学寮」を設立。のちに寮外にも門戸を開いた教育事業センター「早稲田奉仕園」として発足し、学生へのキリスト教主義教育のほか、奨学金や学寮の提供、国際交流事業の推進などの活動を開始する(T6)。 翌年、アメリカ・バプテスト総会で報告されたこれらの活動に、深く興味を抱いたJ・E・スコット夫人(1851〜1936、以下詳細は不明)が、亡き夫の記念にと教会の建設資金を寄付。スコットホールの名はここから来ている。
●1923(T11)年、関東大震災では塔屋が崩壊し、のちに竣工当時より低めに改築された。「この建物の煉瓦の味わいには、これを手伝った若き日の今井兼次の労苦がこもっているとされている。」(「教会建築」日本基督教団出版局、1985)
●1991(H3)年、落成70周年を記念した「スコットホール再生保存計画」に伴う改修工事では、東京都の「歴史的建造物の景観意匠保存事業」(近代洋風建築の所有者を対象とする)の補助金助成措置を受けて、「屋根瓦の全面葺き変え、外壁煉瓦取り替えなど」(東京都生活文化局)が行われた。
●日本建築学会編「日本近代建築総覧」(1980)では、早稲田教会(スコットホール)の備考欄に○印が付されている。○は「とくに重要なものあるいは注目されるべきもの」の意。
■参考文献 近江栄・藤森照信編「近代日本の異色建築家」朝日新聞社 1984 「日本基督教大事典」教文館 1988 山形政昭「ヴォーリズの住宅」住まいの図書館出版局 1988 土崎紀子・沢良子「建築人物群像」住まいの図書館出版局 1995
(中島理慧)