鈴木喜一建築計画工房
[増改築] File no.14

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アユミギャラリー

■所在地/東京都新宿区
■種別/改修(旧高橋建築事務所)木造二階建て
■原設計/
高橋博
■改修設計/鈴木喜一建築計画工房
■施工/直営
■1953年創建・1993年改修
■外壁/リシン 内壁/漆喰・クロス他 床/無垢板
■掲載雑誌/『住宅建築』

平成23年3月18日登録有形文化財(建造物)になりました 。

▲photo.by アトリエR

 

[Photo] 

上左/ギャラリー内部。木製建具とマテバシイを通して軟らかい光が差し込む。
上中/出窓を道路(神楽坂通り)側から見る。
上右/2階のアトリエ。現在は鈴木喜一建築計画工房。
左/道路側外観。

photo.by アトリエR

改修前平面図を見る
改修後平面図を見る

   

[Story]都会の中の小さな家

────「建物は古いから貴重なのではなく、そこに歴史を読みとれた時に貴重になる」「日本には経済的充実があるが、歴史的富の蓄積がない。保存とはより質の高い環境をつくりだす一つの方法である」
だれの言葉なのか思い出せないのだが、ぼくの建築ノートにカッコ付きで記されている。
「美しいものなら全体構成に欠かせない大切なものであって、それ故に保存 する価値がある」 これはアメリカのスーザン・フロストの言葉。
「どのような保存であれ、保存はロマンチシズムを根底として築かれたある種の精神によってしか支えられない」 これは19世紀イギリスの社会思想家、ジョン・ラスキン。
ニューヨークの現代都市計画家、ローレンス・ハルプリンは「ある種の建物と場所は、純粋に機能的な意味を超えた理由により、保存される理由がある」といい、その理由は「異なった時代の趣向と文化を反映し、未来とともに過去を思い出させる」としている──── 


 建築の保存再生とはいったいどういうことなのか、時代や時間を超えて人々の記憶に語りかける風景とは何なのか、今回、誌上に紹介したこの小さな建物を通してしばらく考えてみたい。
 この原稿を書くにあたって、『住宅建築』1985年10月号の「高橋博の住宅建築」をもう一度読み直している。今から8年前の原稿だが、それをさかのぼること10年、ぼくは学生時代にこの建物と出会っている。
 その時の印象体験を、ぼくは静かな衝撃とメモしているが、それは今でもはっきりと記憶に残っている。あの時、自分の中にあった無自覚なもの、無意識な何かが、この建物に触発されて静かに立ち現れてきたんだと思っている。
 それまでに学んだ建築教育や建築の実践が、建築の現象的な一つの側面であったことを理解したのかもしれない。ぼくの内部で建築に対するものの見方の組みかえが唐突に行われていた、そんな心地よいショックだった。
 そのような個人的な思い出をもつ建物ではあるが、それをもう少し拡大して、この建物が現地にとりあえず保存されたことの意味、それが現在ギャラリーとして社会に開かれたということにポイントをあわせながら、ことの経緯をたどり、記述を試みてみよう。
§

 この建物は、終戦後の1953年に高橋建築事務所として新宿区矢来町に木造二階建てとして建てられたものであるが、1984年12月、一階部分をギャラリーとして転用、広く一般に展示スペースとしていったん開いたものであった。以後この中で、絵画、版画、写真、印刷、建築、クラフトなど多岐にわたる内容の115回の展覧会が重ねられ、コテージ風の外観やインテリアの独特な雰囲気もあって、訪れる人に親しまれる建物として生き続けてきた。
 しかし、1989年12月、同一敷地内における新設ビルの計画が本格化したのが主な理由で閉廊せざるを得なくなってしまった。ギャラリーはこの空間を知った人たちのだれからも惜しまれて静かに幕を降ろした。
この建物はどうしても壊したくない、ギャラリーは再開したい、というのが閉廊にあたってのぼくたち関係者の切なる願いだったが、メドは立たなかった。

§

 閉廊から再開の経緯を話す前に、この建物について少し触れておくことにする。
 高橋建築事務所の一連の仕事については、先にも記した『住宅建築』1985年10月号に詳しく紹介しているが、この建物は、その高橋建築事務所の1953年から1970年頃までの活動拠点であった。隠れた存在ではあるが、市井の実力のある建築家として活躍した義父高橋博(1902〜1991)のアトリエであった。大正末から昭和初期(1923〜1930)にかけてロンドン大学のバートレッド・スクール・オブ・アーキテクチュアに長期留学して建築設計を学び、とくにイングランドの田園にひそむ自然な住まいや田舎町の何げない佇まいを好んだという高橋が、愛着をもって使っていたことが容易にわかる建物である。
 この建物の背後には、質の高い仕事を物語る分厚い板や丸太がぎっしりつまっている材料小屋、大工の休憩所、木造倉庫などの付属建物があり、土間には丸鋸も据え付けられていて、木の匂いや古い大工道具などが往時の活況を想像させ、なぜか人の心を安心させるような自立の空気が流れていた。
 1970年以降の高橋は高度成長期とすれちがうように、徐々に仕事を引き受けなくなり、その仕事場の風景は時代に取り残されたようにひっそりと静まりかえっていった。

§

 1977年春からぼくたち夫婦が住居としてこの建物の二階部分に住み着いた。二階事務所の一部は和室に変更し、裏の倉庫と接続してこれをファミリールームに改造、大工休憩所はアトリエ、倉庫、暗室、浴室に、子供が生まれるのを契機に木のベランダをつくるという具合に、少しずつ改修していった。早稲田通りに面した南の8畳の部屋だけは、ぼくの書斎兼仕事場として引っ越してきた当初から今までずっと変わらずに使い続けている。
 1984年12月、先輩の画家の立案がきっかけで、先述のように一階部分を改修してアユミギャラリーとしてオープンしたが、5年後の1989年12月に閉廊することになった。
 同時に裏の木造倉庫などは取り壊され、ぼくたちの住居部分は新宿区横寺町に移動して職住分離の生活となった。

§

 東京を中心とする首都圏に政治、経済、文化、通信、ありとあらゆる分野に一極集中の風が意図的に吹き荒れた。地価の未曾有の暴騰を巻きおこし、高橋家でも事業計画に沿って、法規制枠内での最大容積の新設ビル計画進行が余儀なくされた。環境の変化をきわめて好まなかった義父高橋であったが、新設ビルをやむなく実施することを決意し、その計画にあたって、
「矢来の建物の事務所部分はできれば残したい」
「施主試案に基づいて設計施工として実施する」
という方針を示唆し、新設ビルのデザインに関しては、
「現代的な材料で構わないが落ち着いたタイルぐらいは張ってだれが見ても気持ちがいいものにしてほしい」と語った。
1991年4月、前面道路から約10メートル後退して地下2階地上6階の『高橋ビルディング』が落成。木造の高橋建築事務所は全面保存されたが活用方法については未定の状態が続いた。
 1991年11月、高橋博89才、逝去。

§

 アユミギャラリー閉廊から再開までの道程は困難なストーリーであった。それは逆に再開へのバネにもなったのだが、再開した今となってみれば、その困難な霧はたちまちに消えてどこかにいってしまったようだ。
 この建物には愛着があった。どうしても壊したくない、ギャラリーは再開したい、というのがぼくたちの根底にあったエネルギーだが、それは単に、ぼくたちの個人的な意志ではなく、大きな全体の意志だったように思う。

 高橋の意志であり、この建物の意志であり、この空間を知った人の意志であり、町の意志であり、社会的な意志であったような気がする。
その意志の中心部にぼくたちが偶然に配置され、この建物をできるだけ上手に現代社会と連絡をつけることを約束され、それをぼくたちが引き受けたということかもしれない。

§

 町に対する責任、社会的意義から出発して残したということではなく、とにかく愛着があったからスクラムを組んで残したというのが正直なところである。しかし、残す以上は最良の活用をして現役で役に立ってもらいたい。できれば衆目に親しまれて、ぼくが受けたあの静かなショックを人々に与え続けてほしいと思った。
 バージニア・リー・バートンの絵本で『ちいさいおうち』というのがある。静かな田舎に建てた小さな幸せな家が、いつしか都市の中でしょんぼりした家となり、そして自然の中に移築して再び活気をとりもどす家になるという話である。
「この家に来るとあの話を思い出すよ」とよく友人たちに言われ、その都度うなづいてしまうのだが、エンディングはかなり違っている。

§

 この建物は、そもそも昭和28年の東京の町に建てられたものである。町に建てられた特徴として、道に面して実に親しく接しているのである。ポイントは出窓の膨らみ、その外部のマテリアルとして柔らかな煉瓦が丹念に積まれ、腰上の建具は細かくバイアスにデザインされて白いペンキが塗られている。
 その出窓と歩道のわずかな土地に、ユズリハ、ヒイラギ、アオキなどの木々が植えられていて、道行く人たちにやさしい。町に対する建築の在り方がさりげなく節度をもって表現されていて、町に語りかけているといった風情がある。それが内部の豊かさにもつながっている。
つまり、この建物は町と一体であるということが言えそうなのである。とすれば、この建物の保存は個人レベルの問題ではなく、むろん経済効率の問題でもなく、町の記憶としてここに残るのが最も自然であったといえるだろう。
 考えてみれば、このように町との接点をもった建物は、ぼくたちが見落としているというだけで、かなりたくさん現実の町に隠れているかもしれない。あるいは、勝手に役に立たないとされ、たいして人目にもつかないで消えていってしまったのかもしれない。

§

 岡本茂男氏の風来写真館『石のある風景』を皮切りにアユミギャラリーが3年ぶりに再開された。
1993年4月3日、この再開記念展のオープニング・パーティーには、50人ほどの気心の知れた仲間たちが集ってなごやかな春の夜会になった。この場所が、ここで行き交う人たちの表現や人生の運行に少しでも役に立てればいいのだがと思いながら、ぼくはとにかくほっとして久し振りにビールを飲んでいた。
 この先、この建物にどんな困難な霧が現れることになるのか見当もつかないのだけれど。  


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