鈴木喜一建築計画工房
[改築] File no.17

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横寺の家

■所在地/東京都新宿区
■種別/改修 木造平屋建ロフト付
■設計/鈴木喜一建築計画工房(担当/鈴木喜一、渡邉義孝)
■施工/直営
■1995年竣工
■外壁/杉板張り 内壁/ジュラク仕上げ、レンガタイル貼り、他 床/無垢板、レンガタイル敷、他
■掲載雑誌/『住宅建築』(1996.4)


▲復活した囲炉裏のある居間

平成23年3月18日登録有形文化財(建造物)になりました 。

[Photo] 竣工写真

上左/路地側外観。
上中/玄関。一部フローリングの補修工事。
上右/居間。トップライトから静かに光が差し込む。
左/路地沿いの横寺の家。

photo.by アトリエR

改修後平面図を見る
改修後断面図を見る

[Story-01] ボロ家の大改造と傾きかけた我が家の修理

 ボロ家の大改造そして傾いた我が家の修理、これが1995年のぼくに与えられた建築的命題である。
 面倒でささやかな仕事だと前段でネガティブに言ってしまったが、実をいうと、ぼくはこの種の仕事が体質的に好きなタイプの人間である。ほっと胸を撫でおろすような気分になれる。かつ精神的な充足感もある。癒される感じもある。この安堵感や充足感はいったいどこからやってくるのか。
 思うにこれらの建築は身寄りのない孤児たちのような気がしないでもない。そして放っておけば、一掃されてしまう性質の孤児たちなのではないか。しかしそこには、人間がもっている生活感情の奥底を静かに刺激するような大切なものが潜んでいて、ぼくたちの素性を元に戻してくれる奇妙で不思議な力が内在しているように思える。それはいまや無価値なものと紙一重のぎりぎりの境界線上に危うく存在しているのだけれど……、それがぼくの中にやわらかく浸透してくる。
 と同時にこうも思う。
 彼らは何よりも語られたがっていて、つまり今を生きたがっていて、役に立ちたがっていて、ぼくはそのことを快く、そしてほほえましく感じている人間なのだとも。これらの中にある極めて小さな個人的な宇宙の、しかも温かい世界の眼差しがぼくの中にあるエゴをやさしく鎮めてくれる。……つまり、ぼくは癒されるのである。

*

 ぼくが気持ちよく年を重ねてきた建築たちを好きになったのには、はっきりした理由がある。
 というよりはっきりした転換点がある。それも特殊な建築の特殊な魅力にひかれるのではなく、ありふれた建築のありふれた魅力にひかれるようになったのには。

 転換点。
 それは今から20年ほど前のことになる。
 ぼくは26才。横寺の家は当時、高橋博邸。この原稿を書いているこのアトリエは当時、高橋建築事務所。これらの建築と明治生まれの建築家高橋博(1902〜1991)に出会って、ぼくの内部で建築に対する好みがすっかりかわってしまった。隠れた存在ではあるが市井の実力のある建築家として活躍した高橋は大正末から昭和初期にかけてロンドン大学に長期留学して建築設計を学んでいる。この時期、とくにイングランドの田園にひそむカントリーハウスや田舎町の何げない佇まいや風景にひかれていたらしい。その延長線上で、日本の民家とくに農家や町家に興味をいだいていった。その高橋のつくった建築に、ぼくは大きな影響を受けてしまった。彼の仕事の内容については、『住宅建築』1985年10月号及び『住宅建築』1993年6月号に詳しく紹介しているのでここでは省略するが、もし、20年前「義父高橋博体験」がなかったら、ぼくはモダニズムの洗礼を受けたまま、今とは全く違ったスタンスで人生の旅を続けていただろう。おそらく……。

*

 そろそろ散歩にでかけよう。そして少しテンションをほぐそう。なにしろ今日はすばらしい青空なのだから。
 神楽坂から江戸川橋に向かって気持ちよく路地を歩いていたら、もう目白台である。ここまで来たら雑司ケ谷の高尾さんのところに行ってみよう。久し振りである。あのボロ家はいまや立派に再生されて、最新のデジタルオフィース(COMPUTER GRAPHICS PRODUCTION)になっているのである。高尾さん夫妻はこの大改造をほんとに喜んでくれて、ぼくが描いた高尾事務所の外観スケッチをインターネット上のホームページで紹介していたりする。興味のある方はぜひアクセスしてほしい。デジタルとアナログが融合した、新しい時代の息吹が伝わってくる……、などと考えて歩いていたら、あっというまに豊島区雑司ケ谷一丁目。突然だが、こっそりオフィスに侵入してしまおう。床暖房がぽかぽかと温かい。
「よお」とぼくは高尾さんにあいさつをする。
「やあ喜一さん、めずらしいなあ。ところで、シャングリラの旅の途中でパスポートとられちゃったんだって……」とうれしそうな高尾さん。
「やられたよ。一寸先は読めないってやつだね。これをスズキキイチ旅の定理 と呼ぶ」
「ふーん、旅の定理ね……、じゃあ定理 は何なの」
「出会いと別れをかみしめる」
「ふーん、出会いと別れね」と言って高尾さんは高い天井に視線を移しながら、彼に多大な影響を与えた伯父さん(斉藤滋郎1918〜1994)との出会いを語り始めた。
「……喜一さん、この家にたった一人で住んでいたぼくの伯父は文芸関係の、しかも古いタイプの編集者だった。厳しい人だったよ。言うべきことがちがっていた。ぼくは彼から精神的な影響を受けたんだ。親がもう一人いるという感じだった。幼児期から20才にかけて……、いつもお勝手から入って正座して話を聞いていたよ。18、19の頃かな、よく二人で明け方まで話をした。
ぼくが大学に入って、家を出て、それからは伯父とは話さなくなってしまった。ぼくは影響を受け過ぎて距離が必要な時期だったのかもしれないな。伯父はその後、表の世界とのギャップについていけなかった。日本はちょうど高度成長期に入り、その合理主義にはついていけなかったのだろうなあ。つまり、彼の晩年は精神的に非常に厳しい状況にあったんだ。家の中は本でぎっしり、バリケードを構築していたという感じだったよ。孤立していた。そこで彼は死んでいった。すごく汚い部屋だったけれど、スーツを着て、ネクタイして、オメガの時計をして……。ぼくが5年前にここに戻ってきて、伯父のところにあいさつに行ったら、
『いいよ、いいよ、ここは汚いから入らなくていいよ』って。裏の路地でうちのかみさんがたまに伯父に会うと『洋は元気にやってるか?』と聞くんで、
『はい、元気にやってます』と答える。するといつも伯父は、
『あーそうか、それならいいんだ』
……喜一さん、ここでこうして仕事をしていると、あの伯父の気をもらっているようだよ。服でも、カバンでも、時計でも、その人のものを身につけているとパワーが出るでしょう。建築という器も同じだと思うよ」

*

 いい話だった。高尾さんの話の余韻をかみしめながら、ぼくはヤモリの棲む壁を見つめる。屋根を含めて内外装は大胆に更新したが、蔦が這いヤモリの棲む、路地側の壁だけは、以前のままに保存したのだった。ぼくはこの壁を過去と未来の境界線上に浮かべてみたかったのだ。
 再びぼくは歩き続ける。そして今度は横寺の家に向かっている。きっとこの原稿のことが少し気になるのだろう。
 午後のひだまりの中……。傾きかけた我が家、いや傾きが少し直った我が家を眺め続ける。昔と少しも変わらない。いったいどこを直したんだろう。わずかに屋根裏の窓がついただけ。変えたんだけれど、この家は何も変わっていない。横寺の家を飽きもせずにぼんやり見ていると、やっぱりどっしりとした明治生まれの義父高橋博が生きていた頃を思いだす。
 ぼくは彼を尊敬していたし、彼の仕事もすごく好きだった。自分のやった仕事が絶望的になるぐらい好きだった。高尾さんが伯父さんから影響を受けたように、ぼくも義父から影響を受けた。でも接点がなかった。一度として建築の話をしたこともなかった。なぜだかわからないけれど、ぼくらは言葉の通じない外国人のようだった。いや、ぼくは高橋家で全く発言資格をもっていなかったようにも感じていたし、それはたぶん彼の意志だったと思う。

 突然、ガラガラガラと勝手口の戸が開いて、
「喜一くん、どうしたんだ」
 ざらざらしたホームスパンの茶色の上着をきた義父が出てきて低い声で言ったような気がした。ぼくは驚いてとにかくにっこりとあいさつをする。
 義父は無言でうなづいて奥に消えていった……。そう、彼はいつも無言だった。だが、その無言のうちに教えられたことが山のように多かった。
「喜一くん、どうしたんだ」と再びぼくの後ろで声がする。ぼくの背をとんとんと叩くのは10才になる息子の悠である。寝袋を手にしているのは友達の小野田クンである。最近、彼らはとても仲が良い。「今夜は二人で屋根裏に寝るんだ」と言って勝手口から土間へと元気に入っていった。
 青空はもう夕暮れにさしかかっている。さあ、そろそろアトリエに戻ろう。


[Story-02] 横寺日誌

1991年11月
 義父高橋博が亡くなり、しばらく横寺の家は空き家となってそのままに放置されていた。人の住むことのない家は、路地を通る人たちに「ボロ家」とか、「幽霊屋敷」とも呼ばれるようになってしまった。
1995年、相続税の支払いに窮する高橋家だが、当面、横寺の家の物納だけはなんとか免れた。そして、ぼくたち家族がこの家に住むことになった。
 横寺の家は昭和22年、義父が自宅兼アトリエとして建てた建築で、当時は材料も少なく、生乾きの木を使って緊急に建てたので、夜になると木が音をたてて割れていたそうだ。
大きな切妻屋根、低く長い下屋の庇、細かく打たれた格子などが街道筋の町屋の風情を漂わせ、東北地方あたりの米蔵の雰囲気にもどこか通じるものがある。同時に玄関脇のレンガ壁や居間の暖炉回りなどにはヨーロッパのコテージ感覚もうかがえる。
 この家をよく見ると、何回となく増改築や改装、修理を繰り返して生き続けてきたことがわかる。柱や敷居や鴨居につけられた数多くの痕跡がその物証である。義父は自分の家を直すのが好きだった。その時々の生活の状況にあわせて自在に住まいの器を更新し変換し増幅し、時には削除もした。つまり、横寺の家は伸縮自在だった。

*

1995年6月
 この家にもっと長生きしてもらおうと、ぼくは重たい腰をあげて修理に取りかかった。
 棟梁たちは斜めに傾いていた家を水平近くまでグイと持ち上げ、腐朽した柱を根継ぎし、敷居や土台を差し替え、丸太梁を増補する。歪んでいた建具はすべて調整し、物置にしまっておいた木製建具をつめて新しい窓をつくった。
 フトコロの深かった屋根裏に書庫をつくる。板の間を和室につくりかえる。台所の板の間は土間に戻す。子供部屋を間仕切り、庭にベランダをつくる。
「鈴木さん、あけてびっくり宝物みたいな仕事はたいへんだよ」と言いながらも佐藤棟梁は結構楽しそうである。
「戦後の材料のなかったころにしてはいいものを吟味して使ってあるね。昔の組手は勉強になるよ。目に見えないところの仕事がしっかりしている。おれが修業していたころの親方を思い出すなあ」

*

 義父が大切にとっておいた栃の厚い一枚板、これを台所の天板とし、ステンレスのシンクを落としこむ。
 義父のかつての寝室からは落ち着いた小さな庭が見える。

 屋根裏部屋でクリスマス・パーティーをしたという。ツリーを飾って子供達7人がケーキやサンドイッチを食べながら楽しんでいたらしい。ぼくはその頃、タイ南部の国境の町スンガイコロクあたりでパスポートをとられて一人オロオロしていた。

 長女歩の友達、昭菜クンが来て、今夜の我が家は5人。炭をおこしてイロリでお餅を焼いて食べている。さりげない話が続いている。雪が静かに降っている。

*

「鈴木さん、どこ直したの」と友達に言われて、ぼくはにっこりとうなづく。どこを直したかわからないように改修しよう、自分の操作をできるだけ抑制して義父のつくった空間に馴染ませていこうと考えていたのだから。
 我が家で大活躍しているのがレンガを敷いた土間である。この土間は現在、台所、食堂、洗濯室、洗面、脱衣、勝手口、ユーティリィティーと多機能である。TVのない我が家の団欒はどうしてもここが中心となるようだ。
 義父がいた頃、家の中心はやはり居間だった。ここで紅茶を飲みながら何となくおしゃべりするのが高橋家の日常だった。ところがいまのところ、この場所は悠と小野田クンのミニ四駆のレース場になっている……。

*

 改修にあたり散財は覚悟した。でもぼくにはたいしたお金がない。……しかし、家は直さなければならない。ということで、普段お世話になっている気心の知れた職人さんたちに友情出演してもらうしかなかった。

 大工さんは佐藤棟梁グループ、材木は軽部さんから、左官工事は山田さん、板金工事は大坂さん、煉瓦工事は荒川さん、給排水工事は木村さん、襖の張り替えは八幡さん、畳工事は教え子の鈴木君、建具と塗装はやはり教え子の種田君にといった具合で個別に直接依頼した。その職種は実に18種の多岐にわたった。昨年の東京の夏は観測史上最高の暑さだったというが、そのうだるような暑さの日々、面倒な修理工事を丁寧にやってくれたみなさん本当にありがとうございました。


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