1991年11月
義父高橋博が亡くなり、しばらく横寺の家は空き家となってそのままに放置されていた。人の住むことのない家は、路地を通る人たちに「ボロ家」とか、「幽霊屋敷」とも呼ばれるようになってしまった。
1995年、相続税の支払いに窮する高橋家だが、当面、横寺の家の物納だけはなんとか免れた。そして、ぼくたち家族がこの家に住むことになった。
横寺の家は昭和22年、義父が自宅兼アトリエとして建てた建築で、当時は材料も少なく、生乾きの木を使って緊急に建てたので、夜になると木が音をたてて割れていたそうだ。
大きな切妻屋根、低く長い下屋の庇、細かく打たれた格子などが街道筋の町屋の風情を漂わせ、東北地方あたりの米蔵の雰囲気にもどこか通じるものがある。同時に玄関脇のレンガ壁や居間の暖炉回りなどにはヨーロッパのコテージ感覚もうかがえる。
この家をよく見ると、何回となく増改築や改装、修理を繰り返して生き続けてきたことがわかる。柱や敷居や鴨居につけられた数多くの痕跡がその物証である。義父は自分の家を直すのが好きだった。その時々の生活の状況にあわせて自在に住まいの器を更新し変換し増幅し、時には削除もした。つまり、横寺の家は伸縮自在だった。
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1995年6月
この家にもっと長生きしてもらおうと、ぼくは重たい腰をあげて修理に取りかかった。
棟梁たちは斜めに傾いていた家を水平近くまでグイと持ち上げ、腐朽した柱を根継ぎし、敷居や土台を差し替え、丸太梁を増補する。歪んでいた建具はすべて調整し、物置にしまっておいた木製建具をつめて新しい窓をつくった。
フトコロの深かった屋根裏に書庫をつくる。板の間を和室につくりかえる。台所の板の間は土間に戻す。子供部屋を間仕切り、庭にベランダをつくる。
「鈴木さん、あけてびっくり宝物みたいな仕事はたいへんだよ」と言いながらも佐藤棟梁は結構楽しそうである。
「戦後の材料のなかったころにしてはいいものを吟味して使ってあるね。昔の組手は勉強になるよ。目に見えないところの仕事がしっかりしている。おれが修業していたころの親方を思い出すなあ」
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義父が大切にとっておいた栃の厚い一枚板、これを台所の天板とし、ステンレスのシンクを落としこむ。
義父のかつての寝室からは落ち着いた小さな庭が見える。
屋根裏部屋でクリスマス・パーティーをしたという。ツリーを飾って子供達7人がケーキやサンドイッチを食べながら楽しんでいたらしい。ぼくはその頃、タイ南部の国境の町スンガイコロクあたりでパスポートをとられて一人オロオロしていた。
長女歩の友達、昭菜クンが来て、今夜の我が家は5人。炭をおこしてイロリでお餅を焼いて食べている。さりげない話が続いている。雪が静かに降っている。
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「鈴木さん、どこ直したの」と友達に言われて、ぼくはにっこりとうなづく。どこを直したかわからないように改修しよう、自分の操作をできるだけ抑制して義父のつくった空間に馴染ませていこうと考えていたのだから。
我が家で大活躍しているのがレンガを敷いた土間である。この土間は現在、台所、食堂、洗濯室、洗面、脱衣、勝手口、ユーティリィティーと多機能である。TVのない我が家の団欒はどうしてもここが中心となるようだ。
義父がいた頃、家の中心はやはり居間だった。ここで紅茶を飲みながら何となくおしゃべりするのが高橋家の日常だった。ところがいまのところ、この場所は悠と小野田クンのミニ四駆のレース場になっている……。
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改修にあたり散財は覚悟した。でもぼくにはたいしたお金がない。……しかし、家は直さなければならない。ということで、普段お世話になっている気心の知れた職人さんたちに友情出演してもらうしかなかった。
大工さんは佐藤棟梁グループ、材木は軽部さんから、左官工事は山田さん、板金工事は大坂さん、煉瓦工事は荒川さん、給排水工事は木村さん、襖の張り替えは八幡さん、畳工事は教え子の鈴木君、建具と塗装はやはり教え子の種田君にといった具合で個別に直接依頼した。その職種は実に18種の多岐にわたった。昨年の東京の夏は観測史上最高の暑さだったというが、そのうだるような暑さの日々、面倒な修理工事を丁寧にやってくれたみなさん本当にありがとうございました。
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