鈴木喜一建築計画工房
[保存・再生] File no.22

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会津田島の馬宿復原

■所在地/福島県南会津郡田島町
■種別/移築・復元・木造2階建て
■設計/鈴木喜一建築計画工房
   (担当・鈴木喜一)
■施工/東邦土建工業
■1988年竣工
■外壁/土壁 内壁/漆喰壁,土壁,板壁 床/縁なしタタミ,三和土
■掲載雑誌/『住宅建築』(1988年7月号)

上/正面(南側)外観
▲photo.by
アトリエR


1・会津田島へ
2・中付駑者の宿として
3・解体前の馬宿

4・解体調査
5・移築復原
6・竣工写真


会津田島へ


 昭和六十年冬、大竹キチヨ家は、新築のために取り壊しの予定にあった。
 家を支える構造材はしっかりしているものの、茅の葺きかえ時期になっていたし、長い間の風雪に各部の傷みは激しく、北屋根の谷からは雨が漏って軸部を腐らせていた。土台等にも崩れが見られ、実際の生活に不便が多かった。手を入れて住みたい気持ちは十分にあった。しかし、新築の方が経済的にも楽だと周囲から進められていた。昔ながらの家には捨てがたい愛着もあったが、これを直すにしても、たいへんなことになると思ったという。 この大竹家の取り壊しの話しを聞いて、町の教育委員会が慌てた。大竹家は江戸時代からの馬宿として残っている数少ない重要な民家の一つとされ、民俗文化財として是非残しておきたい生きた資料だった。
  南会津郡田島町の依頼で、私は早稲田大学の渡辺保忠先生と大竹家を訪ねることになった。雪の降っている寒い日だった。当時は、会津鬼怒川線がなく、鬼怒川から車で山王峠を越えて田島に入った。峠には山王茶屋と呼ばれている明治初期に建てられた立派な旅籠もあった。ずいぶん奥深いところだと思いながら荒海川沿いを走っていると、左側に茅屋根が半分以上残っている古内の美しい集落が見えた。車は、その集落に向かう小さな橋のところで、反対側に曲がり、今泉の大竹家に着いた。
  大竹家は推定で約二百年前後を経過していると伝えられ、当時の面影がまだよく残っている馬宿であった。町としては、この馬宿をどのような形で残したらいいのだろうか、どのような方法で残したらいいのだろうかと思い悩んでいた。住宅設計の仕事を専門としている私にとっては、生き続けてきた民家を大切に残していくということはうれしい話だった。
 建築というものは一般的に、古いものを壊して、サラ地に新しい建物を建てることだという見方がある。少なくとも日本の建築の現在は、古いものの破壊の上に成り立っている。いや、古いとまではいかない、十分に使える建物を次々に壊してきたともいえる。現在、人間の生活環境において、歴史性というのはどうしても考えなければならないテーマだと私は思う。町も、そして個々の家も生きものとして変化するのはあたりまえだし、変わる活力があるのは頼もしい。しかし、すべてが一変し、何の脈絡もなしに新しい光景が次々と出現してしまうのもどこか狂っている。
 私は渡辺先生の指導を受けながら、この民家を丁寧に解体し、移築復原の実践者としてこの地に足を運ぶことになった。昔の棟梁や職人たちがどのような思いで、どのような技術で一つの家を作っていったのか、その中でどのような人がどのような知恵を持って暮らしてきたのか、この家の復原にかかわることで学んでいきたいと思った。


中付駑者の宿として

 大竹家が重要な民家として、移築復原されるようになったのは、先にも書いたように、この家が馬宿として江戸時代から明治にかけて会津西街道の中付駑者の間で盛んに利用されていたということからであった。自動車、汽車等の近代輸送機関の発達により衰亡した職業の生証人としての家であった。
 中付駑者とは物資を馬の背中に積んで輸送する業者のことで、今でいえば、さしずめ宅急便業といえるかもしれない。当時は会津若松から田島を経て栃木県今市に至る道と、会津若松から田島を経て桧枝岐に至る二つの道で活躍していた。田島から若松までの距離は約十二里(四十八キロ)、田島から今市までは約十八里(七十二キロ)である。馬体の小さな南会津の地馬は、重い荷を付けてこの距離を一日で歩くのは困難だった。途中の村でどうしても一泊、あるいは二泊しなければならなかった。これが馬宿のおこりである。
 大竹家は田島と今市間の馬宿として、馬車輸送に変わる明治中期頃まで栄えたものと思われる。しかし、それ以後は泊まる客もなく、農家に戻った生活が地道に続けられていた。

 

解体前の馬宿


 馬宿は会津西街道(旧日光街道)の旧道に面していて、間口八・五間、奥行六間の曲がり家であり、前庭を比較的広く取った構えであった。この前庭で馬方が荷物の上げおろしをしたといわれている。旧道をへだてた北斜面には土蔵が建っている。
 裏には共同の用水が流れていて、今泉のもう一軒の馬宿であった隣家の児山家に続いている。また、裏庭には石積みの井戸があり、その井戸の近くには横に広がったイチイの木がある。大きな梨の木、桑の木、グミの木も屋敷地に植えられていた。
 入口をはいると、土間(通りにわ)があり、下(右手)に間口三間半、奥行一間半の馬屋跡があった。馬が四頭入れるように、マセンボウで仕切られていた。古い栗の柱の痕跡を見るとそれがよくわかる。床は土間よりも一尺位掘り下げてあり、わらを敷いて堆肥を作った。馬宿としては、はるか昔に営業を終えているが、農耕馬がこの地方から姿を消したのは、昭和二十年代末から三十年代にかけてといわれている。
 ある古老の話では、長年、働いてくれた馬が病気で動けなくなっても死ぬまで家で看病したという。カッテのいろりからは、いつも馬の様子が伺うことができた。それでも馬が死ぬと、獣医が来て死亡診断書を書いた。役場には人間と同じように馬籍があって、その抹消手続をとり、埋葬許可書をもらう。村はずれの馬捨て場に穴を掘り、馬を埋める。心ある人は馬頭観音の石碑を建て、馬の冥福を祈ったといわれている。この馬宿はまさにそうした人と馬の住まいであった。
 土間の奥にはいろりを切ったシタユルイの部屋があったといわれ、細工仕事をしたり、年寄りの居間として使われていた。馬宿時代は馬方が宿泊していったものと思われる。
 土間の上(左手)には、カッテと呼ばれる十五畳以上ある大きな広間があり、約一メートル角のいろりが切ってある。このいろりのことを、シタユルイに対してウワユルイと呼んでいる。カッテと土間の境には大黒柱と小黒柱が並んでいる。この二つの柱には、十二月十二日と書いた札が何枚も張られている。家内安全、火の用心の札で、当地の十二歳の子供が十二月十二日に書く風習になっているという。帳面柱の上には神棚が二つ並べられている。台所に近い北側の天井には荒神様が祭られている。昔、家には神と人が一緒に住んでいた。そして、先祖とも一緒に住んでいたことがわかる。
 内部を細かく見ていくと、小さな痕跡からこの家がある時期に床の間や座敷の改造をしたことがわかってくる。おそらく、この家が馬宿として一番羽振りがよかった時代であったにちがいない。構造的な欠陥も若干見られるがその時の改造結果だろう。建具も昔のものが想像できた。格子や無双の意匠も推定できた。縁側は吹き放たれていて、オリの部分の縁だけは部屋になっていただろう等とこの家の歴史をさかのぼっていく。むろん、今となってはわからない部分も多かった。屋根や天井を剥がさなければ判別しかねるところも多かった。
  渡辺先生は丁寧に解体していくことによって、一つ一つ疑問が解けていくだろうと話された。むろん、この建物がいつ建てられたのか、誰によって建てられたのかということもきっと墨書きからわかるだろうと。さらに、復原にあたっては、手仕事の生きていた時代を一つの基準とするべきだが、当初の原形まで戻すことはしない方がいいだろう。家は人々とともに生きてきたのだから、住みよくしていった跡を大事にするべきで、そのものに即して柔軟に判断していくことが必要だと言われた。また民俗の重要な問題として、つかんでもつかみきれないものとしての精神生活が形としてあらわれている。それを大切にしていくことだと話してくれた。


解体調査

 はじめて馬宿を訪れてから半月後、三月初旬から四十日間にわたって解体調査を行った。建築調査とあわせて民俗調査(武蔵野美術大学生活文化研究会)も行われた。南会津の三月はまだ雪の降る日も多かったし、根雪もたくさん残っていた。
 私たちは、時々いろりで暖をとりながら、解体前に細かな現状図面を起こした。馬宿のなかで十日が過ぎた。解体はその事前調査が終わってから少しずつ行われた。普通の家なら一日か二日で壊すところを約一ケ月を要して解体していった。解体というより、剥がしていったといった方が正確かもしれない。
 家が少しずつ姿を現すことと反対に、少しずつ消えていくということは不思議な感じがした。一日の作業が終わって宿舎に帰る時、一回り小さくなった家をいつまでも眺めていることが多かった。どんどん過去に入っていく感じがした。
 茅むきの日は気持ちよく晴れあがった初春の一日だった。その日は茅屋根職人だけでなく、近所からも大勢の応援がきて屋根に登った。地走りの人も随分多かったし、女衆も食事や酒盛りのための準備に忙しく働いていた。総勢五十人を越えていた。日本の屋根を守ってきた結(共同体)が、ここではまだ生きていると思った。考えてみれば会津は茅手と呼ばれる草屋根職人の里であった。
 解体期間中は再建に備えて、見落としのないようにと、気が抜けなかった。痕跡をたどりながら復原考察も重要な仕事だったし、解体している大工棟 梁や茅職人にいろいろ教えてもらうことが多かった。
  解体中にわかったことは少なくなかった。まず古番付が柱の根元から発見され、改造部分の領域もはっきりした。架構方法も明確になったし、技法も確認できた。復原に際して再用材と取替材の判別もできた。
 解体も終わりに近づいた四月十三日、霧雨の降るなかで職人たちの中から大きな歓声がおこった。小黒柱の上部の長いホゾに墨み書きが発見されたからだった。そのホゾの二面には建築年代と棟梁の名前が書かれていた。
享和元年 七月十二日
大工棟梁 仁ノ助
享和元年とは一八○一年、馬宿は今から一八七年前に建てられていたものだった。その日の喜びは、昔の職人にやっとめぐりあえたという喜びであった。

移築復原


 昭和六十二年夏、馬宿は再建地も定まり、田島町の野外博物館構想の第一歩として移築復原の運びになった。工事は解体にかかわった人たちの手によって慎重に進められていった。工事期間は昭和六十三年三月末までの八ケ月間にわたった。私は東京と会津田島を行ったり来りしたこの三年間を思い起こしながら、この仕事の重要性をあらためて自分に問い直している。 昔の技法を再用しながら、少しずつ復原されていく馬宿を見るたびに、職人たちの技術や生活をもっと深く知りたいと思うようになった。例えば、棟梁のこと、茅屋根職人のこと、土壁職人のこと、鍛治職人のこと、建具職人のこと……そして、この家の中で生きてきた人たちのこと。
 伝統的な人々の習俗や生活が、あわただしく立ち去ろうとしている時代である。数多くの謎を残して。新世紀を迎えるにあたって、明るい材料が見いだせない現在、馬宿を復原したことは、私にとっていったい何だったのか、今しばらく、南会津の遠い昔から現代に語りかけてくる鼓動を静かに聞いていたいと思っている。
 この馬宿復原にあたっては、本文にもあるように、早稲田大学教授渡辺保忠先生の丁寧なご指導をいただいた。民家の門外漢である私には、先生の手ほどきが大きな支えだった。先生は馬宿復原を記念して、ぼくが好きな言葉だといいながら「更上一層楼」という言葉を書いてくれた。中国唐代の在野詩人といわれる王之 の有名な歌の最後の一節である。更に上る一層の楼、この言葉は私にとって、職人たちにとって、田島町にとって、鍵のように大切な言葉だと思う。
 また、武蔵野美術大学民俗学研究室の相沢韶男先生には、解体調査時から復原にいたるまで適切な助言をいただいた。そして、写真家の畑亮夫氏、『住宅建築』編集長の立松久昌氏に暖かいご支援をいただいた。馬宿の当主であった大竹キチヨさん、いつも宿泊をこころよく引き受けてくれた野外活動センターの池田さん、教育委員会の渡部浩夫氏、佐藤高慶氏はじめ多くの人たちの協力を深く感謝いたします。


参考文献
田島町史第四巻民俗編     田島町史編纂委員会
中付駑者の習俗        文化庁文化財保護部

[Photo]竣工写真 クリックすると大きな画像にリンクします 


上左/東南側外観
上右/東側外観


左/ニワ(土間)から正面にトンボロ,左に馬屋を見る
右/ニワより下のユルイを見る


下左/廊下からイリ,デドを見通す
下右/ニワからカッテにあるイロリを見る


photo.by アトリエR


 


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