昭和六十年冬、大竹キチヨ家は、新築のために取り壊しの予定にあった。
家を支える構造材はしっかりしているものの、茅の葺きかえ時期になっていたし、長い間の風雪に各部の傷みは激しく、北屋根の谷からは雨が漏って軸部を腐らせていた。土台等にも崩れが見られ、実際の生活に不便が多かった。手を入れて住みたい気持ちは十分にあった。しかし、新築の方が経済的にも楽だと周囲から進められていた。昔ながらの家には捨てがたい愛着もあったが、これを直すにしても、たいへんなことになると思ったという。 この大竹家の取り壊しの話しを聞いて、町の教育委員会が慌てた。大竹家は江戸時代からの馬宿として残っている数少ない重要な民家の一つとされ、民俗文化財として是非残しておきたい生きた資料だった。
南会津郡田島町の依頼で、私は早稲田大学の渡辺保忠先生と大竹家を訪ねることになった。雪の降っている寒い日だった。当時は、会津鬼怒川線がなく、鬼怒川から車で山王峠を越えて田島に入った。峠には山王茶屋と呼ばれている明治初期に建てられた立派な旅籠もあった。ずいぶん奥深いところだと思いながら荒海川沿いを走っていると、左側に茅屋根が半分以上残っている古内の美しい集落が見えた。車は、その集落に向かう小さな橋のところで、反対側に曲がり、今泉の大竹家に着いた。
大竹家は推定で約二百年前後を経過していると伝えられ、当時の面影がまだよく残っている馬宿であった。町としては、この馬宿をどのような形で残したらいいのだろうか、どのような方法で残したらいいのだろうかと思い悩んでいた。住宅設計の仕事を専門としている私にとっては、生き続けてきた民家を大切に残していくということはうれしい話だった。
建築というものは一般的に、古いものを壊して、サラ地に新しい建物を建てることだという見方がある。少なくとも日本の建築の現在は、古いものの破壊の上に成り立っている。いや、古いとまではいかない、十分に使える建物を次々に壊してきたともいえる。現在、人間の生活環境において、歴史性というのはどうしても考えなければならないテーマだと私は思う。町も、そして個々の家も生きものとして変化するのはあたりまえだし、変わる活力があるのは頼もしい。しかし、すべてが一変し、何の脈絡もなしに新しい光景が次々と出現してしまうのもどこか狂っている。
私は渡辺先生の指導を受けながら、この民家を丁寧に解体し、移築復原の実践者としてこの地に足を運ぶことになった。昔の棟梁や職人たちがどのような思いで、どのような技術で一つの家を作っていったのか、その中でどのような人がどのような知恵を持って暮らしてきたのか、この家の復原にかかわることで学んでいきたいと思った。
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