鈴木喜一建築計画工房
[保存・再生] File no.26

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川越六軒町の家(記録保存)

■所在地/埼玉県
■創建/明治15年(1882年)
■種別/実測・木造2階建て
■実測者/鈴木喜一,渡邉義孝,酒井哲,
     矢野裕之,高橋祐子,小林加代子,

上/正面からみる
▲photo.by
アトリエR


1・調査概要
■経緯と目的
2・写真
■写真

3・建物概要
■概要
■内部の特徴


1.調査概要

■経緯と目的


 大学の教え子から私のもとに、解体されようとしている川越の自宅をなんとかしたい、というメールが舞い込んだときには、残念ながら保存のための手段はもう残されていませんでした。
 これまで国の内外を問わず、随分こうした現場に立ち会ってきました。壊れゆく建物、壊されてゆく風景に対して、いつも無力な自分がいます。その中には、食い止めなければならない無謀な事情もあれば(例えば福島県の旧会津山村道場)、どうしてもせき止められない深い状況もあるようです。
 今回は後者の例ですが、「自分の生まれ育った家が壊れてゆくことをどう受け止めたらいいのか。どのような答えを出し、どのように終わらせたらいいものだろうか」という高橋祐子(当主の娘で私の教え子)さんのメールに端を発しています。
 保存はロマンチシズムでも残らない。より質の高い環境をつくりだす一つの方法であっても残らない。そこに歴史の厚みが読みとれても残らない。と痛感する次第です。しかし残念ながら実際、ほどんどのものがそういう運命なのかもしれません。
 私はせめて、古い建物はまちや人間の記憶と一体であり、未来と過去をともに夢想できる、ということを念頭において、記録保存に取りかかりたいと考えています。この世にあるものはすべて過ぎゆく。永遠なるものは「人間の記憶」であり、そのためのささやかな「記憶」なのだと思っています。  

(1999年3月 鈴木喜一)

高橋祐子さんの依頼を受け、1999年3月26日から約一週間、急遽、私たちは実測調査を行った。本調査報告書は、117年生き続けた貴重な蔵づくりの民家の最後に、期せずして立ち会った記録である。

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2.写真

[Photo]写真 クリックすると大きな画像にリンクします 

最上左/蔵の牛梁(黒書がみえる)
最上中/便所外部と手ずバチ
最上右/繊細な格子戸


上左/磨き込まれた廊下の床
上中/和室より庭をみる
上右/和室より庭をみる


中左/蔵の箱階段
中右/蔵の2階


下左/庭より母屋の屋根と蔵を見る
下右/スケッチ(鈴木喜一)

photo.by アトリエR

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3.建物の概要

■概要


明治15年(1882年)創建(蔵のみ、主屋は不明)。
川越大火(明治26年)以前の建物なので現存している川越の蔵の中でもかなり古い部類に入る。建物は四代目高橋幸助の建立。前面道路からの外観は、下見板張りだった外壁を波板鉄板で覆ったこと以外は竣工当時の姿を保っており、明治の蔵の雰囲気を現在によく伝えていた。大掛かりな改修も特になかったようである。長い年月の風雨にさらされた外周部は傷みもひどく、特に屋根瓦の破損箇所が多く一部はずり落ちていた。しかし、内部の基本的な骨格はしっかりしており、堂々とした存在感があった。
高橋家は先々代まで織物製造仲買商、高橋屋幸助(五代目)商店として栄えており、明治35年10月28日発行の埼玉県営業便覧奥付(定価壱圓五拾銭)六軒町商店通りの広告にも紹介されている。
当時は自家製品ばかりでなく、近在の人たちに賃機で織らせ、それを集荷して東京方面又は地方へと販売していたようだ。もちろん唐棧も仲買で扱っていた。その後、商売は順調だったが、世界的な大恐慌は繊維業界にも襲ってきた。
時の当主六代目清三郎(現当主高橋政雄の父)は昭和4年、深刻な不況から思いきって業種転換、大宮の硝子商の知人にすすめられて硝子商を始めた。それが時流にのり、これまで多忙な毎日が続いてきた。

所在地 :埼玉県川越市六軒町2丁目8番地11、8番地12
敷地面積:816.99 F
延床面積:295.45 F
創設  :四代目高橋幸助
当主  :高橋政雄

● 敷地
L字型の敷地で角地に対して隣地を囲むように二方向(西、南)に道路に接している。幹線道路に面した西側に店蔵及び袖蔵が位置し、その奥に母屋が建っている。南側道路面は駐車場及び作業場がある。敷地の北側は駐車場となっている。

1.袖蔵

2.店蔵

3.母屋

4.廃屋

5.赤煉瓦の塀

6.外構

7.縁側

8.便所

9.奥の間

10.仏間

11.洋間

12.茶の間

13.食堂

14.祖母の部屋

15.浴室,離れ

● 袖蔵
木造二階建。間口2.5間、奥行き4.5間。二階の梁の墨書きから明治15年の上棟であることがわかる。

施主:四代目高橋幸助
棟梁:関屋重藏
左官:平野喜太郎
鳶職:横田市藏

墨書きに左官職の名前が入っていることから、当時は左官工事が重要な位置を占めていたことが改めて確認できる。二階へのアプローチは2箇所あり共に箱階段で上り下りしていたようだ。二階には荷卸し用の吹抜があり、上部には滑車もついている。織物商時代の領収書などが無造作に床に散らばっており、明治時代から時が止まってしまったような空間だ。
店蔵と袖蔵の接続部の梁は丸く削りとられ、袖蔵の防火扉が店蔵の梁に当たらないように工夫されている。このことから、袖蔵があって、店蔵ができたのか、店蔵があって袖蔵がくっついたのか。両者が建てられた時期的なずれから、生じた仕事だろうと予想された。後の調査で店蔵の小屋組から墨書を発見。同時代の建立と判明した。全く同じ時代に建ったわけだが、ではなぜ、梁をわざわざ削りとる必要があったのか?かえって謎が深まるばかりだった。
袖蔵の入り口は立派だ。
土戸と格子戸が二重になっている。裏の座敷に通じる入り口もめずらしい斜め潜り戸がついている。今では力強く押さないと動かないが、当時は斜めに引きずり上げると自動に下がる、半自動引戸だったそうだ。外部は厚さ300mmもある防火戸(漆喰塗り)で密閉できるようになっている。蔵の大半は厚塗りの漆喰壁で覆われている。

●店蔵
袖蔵同様、明治15年の上棟であることが、二階の大梁の墨書きから判明した。店蔵の基本形は間口3間、奥行き2間5尺でほぼ、正方形の軸組からなる。4隅に210mm角の太い欅の通し柱が建っており、この上に二階が乗っている。正面、桁行方向の梁は成が510mmもあり、3間もの無柱空間を軽く繋いでいる。床は土間、壁は漆喰塗、天井は二階の床板がそのまま仕上げとなっている。
かつて店だった土間はアルミサッシで半分に区切られ、高橋硝子店の事務所として使われていた。店の棚には、瀬戸物やガラス食器が並べられていることから、建築材料だけでなく、日常雑器なども扱っていたようだ。梁から硝子のサンプルボード(3尺×6尺程度の大きさの木枠に硝子の切れ端が所狭しと掛けてある)が吊られており、硝子店の様子が色濃く残っている。

●母屋
建築当初は二階建てだったと伝えられる。高橋清三郎(祖父)の代に隣家(鍛冶屋)からの貰い火を受け、北側桁行方向が半焼。火災後に平屋建てとして改修されたそうだ。廊下の物入れの天井板をはがすと、炭化した梁や束が残っており、火事の痕跡を確認することができる。今回の調査で、小屋裏から棟札が見つかった。炭化した棟札だ。しかしながら、現在の小屋組自体も炭化したままなので、小屋全体が建設当初のものであると思われる。小屋組からは、二階があったと痕跡は見つけられなかった。
棟札は炭化しているものの、かろうじて文字は読めた。建設年月日の解読は残念ながらできなかったが、施工者が蔵のそれと同じであったことから、おそらく蔵と同時に建てられたものだと推測できる。母屋の棟札には、普請に携わった家相人も入っていた。

●廃屋
店蔵の南に通路を挟んで、廃屋がある。瓦屋根で床の間まであり、それなりの家だったようだ。いつ頃建てられたかは定かではないが、おそらく戦前のものと思われる。昭和末期まで一部使われていた。元は借家として貸していたが、建物の傷みが激しくなってきたので、人に貸すのを止め、使えるところを細々使っていたようだ。今では、侵入者を拒むかのごとく、段ボールや廃材が玄関部分を占領していた。奥の間の屋根が抜け落ちており、太陽光線だけが時の止まった空間の中を自由に出入りしていた。

●赤レンガの塀
塀は蔵が出来た後に建てられているらしい。この赤レンガの塀はイギリス積みで、上部は角を斜めに互い違いに出すような形で積まれている。さらに、煉瓦塀の上に瓦を敷いて蔵との外観の調和を試みるなど、デザイン性豊かなハイカラな仕事とも言える。表通りは高さ4メートル近くあり、間口は10メートル。南側は16メートルの長さがあった。大正12年9月1日の大震災の折にもびくともせず、また幾風雪にも耐え今日に至っている。北側は、便所の横にかろうじて残っている部分があるものの、ほとんどが取り壊されていた。

●外構
レンガ塀のくぐり戸を通って、敷地に入ると下町の路地に入ったような錯覚を受ける。建物の間の路地、ブロック塀、フェンスに吊られたプランター、通路に所狭しと植えられた植物など、下町の路地を思わせる生活の日常風景があった。
敷地の内部ではあるが、公私を分けるような空間構成になっていたのは、廃屋が借家だったこと、硝子店の作業場が奥にあることなど、生活の中で公私の区別を動線的に明確にする必要があったからだろう。


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■内部の特徴


●縁側
かつては吹き放れた外縁だった。当時の職業の推移を物語るかのように不二サッシがはめ込まれている。雨戸もぐるりと回っている。雨戸の一筋敷居は出隅に返し(金物)が付いており、かなり凝ったつくりだ。雨戸の建具には無双も切ってあったそうだ。太い丸桁が縁の軒を支えている。
静かである。ここから庭の石灯籠が見える。そのほのかな灯りを楽しんだいたにちがいない。105mm幅の桧の縁甲板が8枚、そしてかつて縁框となっていた。
縁の曲がり角は両外側が留め張りで内側が石畳張りとなっている。縁を回って便所につながっている。

●便所周り
便所に至る廊下には900mm×900mmの欅板が張られている。縁から便所に曲がるところには板戸の開き戸があった。これがいい建具である。表は格子戸で、裏が縦板戸になっていた。便所の天井板にも欅の一枚板が使われていた。花柄を透かした装飾板で、見事な仕事である。便所の内部は現在、新建材のボードで覆われてしまい建設当時の趣が分かるのは、この天井板だけである。
母屋から便所に至る廊下と便所の入隅に(つまり外に)手洗いがある。後付であろうこの手洗いは、特に趣向を凝らしたということでもないが、コの字型に囲まれた空間のポイントとなっている。また窓を開けて外で手を洗うのも面白い。

●奥の間(10畳)
高橋家で最も格式の高い部屋である。天井が高く(2780mm)、面皮の杉長押は材料も吟味され、仕上げも緻密である。床の間には床柱が二本ある。向かって右が欅、左が杉の面皮柱と思われる。床板は厚さ30mmの欅の一枚板、床框は黒檀。共に上質な材だったが、解体時に取り外してみると、裏に虫が喰っていたので、破棄された。縁に面して3尺の平書院がある。書院の変り組障子は菱形を基調としたデザインで斜めのラインが床に動きを与えている。略書院ながらも、丁寧な仕事がうかがえる。
室内の仕上げは、畳、塗り壁、竿縁天井である。長押に打たれている釘隠しは柏の葉を三枚図案化したもので空間に花を添えている。これは高橋家で保存してある。
部屋は北側の床以外は3方襖で仕切られている。夏になると、主要な襖は葭戸に替えていたという。実際に昨年まで入れ替えを行っていたというので、風流な暮らしが延々と続いていたということになる。
縁側に面して障子の中にスリガラスが入っているが、たぶんこれは後補のものであろう。せんだいから始められたガラス商としての、腕と趣向が随所に古い家に盛り込まれている。鶴の絵の入ったガラスが先代の仕事で、それが割れて今のガラス(スタッコのようなスリ硝子)となった。
ふすまと欄間を隔てて、仏間(7畳半)へつながる。上部の欄間は欅の板欄間。欅欄間は対のうち、北側の一部分のみ高橋家で保存している。

●仏間(7畳半)
ここも奥の間と同様の仕上げであるが、天井高が180mm程低くなっている、といっても2600mmもあるから、現在通常につくられる和室よりは一回り高い。仏壇が備えつけられている。

●洋間(3畳)
屋根の掛かり方や、壁の付き方から判断すると、建設当初は蔵と母屋の間の中庭だったと思われる。床、壁、天井共、新建材が使われている。

●茶の間(7畳半)
店蔵から直接出入りできるようになっている。店の控え室的な空間であったと思われる。現在はこの動線を塞ぎ、アコーディオンカーテンで1畳半の納戸と6畳の居間(茶の間)に区切っている。茶の間には神棚がある。廊下に通じる古い縦繁の引違い帯格子戸は職人の繊細な仕事の跡がある。障子が外せるようになっている。茶の間の玄関側には木肌のアルミサッシがはめ込まれていた。

●食堂
昔は土間だったとの話。祐子さんの母上がお嫁さんに来た時に現在のように改造したという。床はビニル床シート貼り。壁は合板張りで、天井は石膏吸音ボード張りであった。廊下と食堂を分ける型ガラスの間仕切りには相当な工夫がされている。けんどん式のような使い方で、当家の職能を意識させる建具である。

●祖母の部屋(4畳
天井高1960mmと極端に低い。床は畳敷、一部板の間。壁、天井はベニヤ張りペンキ仕上げ。当初から和室として建てられた場所ではないようである。屋根は母屋と同じ瓦が敷かれていることから、母屋と同時に建ったと思われる。浴室に通じる引き戸があるが、現在はベニヤで塞がれていた。

●浴室及び離れ
ここの部分は屋根(トタン)から見ても、後に増築された箇所であると判断できる。祖母の部屋と平行して接するように、構造的にも独立して建っている。離れは6畳にも満たない部屋だが四方に出入口がついており、用途が不明なつくりだ。離れから引戸を経て浴室へ。ここの引戸の滑りが悪く、家人はいつも苦労していたらしい。

●店蔵二階
店蔵の二階には母屋の玄関脇からアプローチする。階段を上がるとアトリエ、その奥に和室がある。アトリエの床はビニル床シート貼り、壁もビニールクロスとなっており、近年の改修だということがわかる。天井は格天井で、建設当時の面影を残している。階段ホールには腰壁から上が中軸回転する硝子入りの間仕切り(用途不明)や、木枠硝子引戸など、硝子を使った建具がここでも見られる。
奥の和室にはしっかりとした床の間があるが、母屋の奥の間ほどには手が込んでいない。


 


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