明治15年(1882年)創建(蔵のみ、主屋は不明)。
川越大火(明治26年)以前の建物なので現存している川越の蔵の中でもかなり古い部類に入る。建物は四代目高橋幸助の建立。前面道路からの外観は、下見板張りだった外壁を波板鉄板で覆ったこと以外は竣工当時の姿を保っており、明治の蔵の雰囲気を現在によく伝えていた。大掛かりな改修も特になかったようである。長い年月の風雨にさらされた外周部は傷みもひどく、特に屋根瓦の破損箇所が多く一部はずり落ちていた。しかし、内部の基本的な骨格はしっかりしており、堂々とした存在感があった。
高橋家は先々代まで織物製造仲買商、高橋屋幸助(五代目)商店として栄えており、明治35年10月28日発行の埼玉県営業便覧奥付(定価壱圓五拾銭)六軒町商店通りの広告にも紹介されている。
当時は自家製品ばかりでなく、近在の人たちに賃機で織らせ、それを集荷して東京方面又は地方へと販売していたようだ。もちろん唐棧も仲買で扱っていた。その後、商売は順調だったが、世界的な大恐慌は繊維業界にも襲ってきた。
時の当主六代目清三郎(現当主高橋政雄の父)は昭和4年、深刻な不況から思いきって業種転換、大宮の硝子商の知人にすすめられて硝子商を始めた。それが時流にのり、これまで多忙な毎日が続いてきた。
所在地 :埼玉県川越市六軒町2丁目8番地11、8番地12
敷地面積:816.99 F
延床面積:295.45 F
創設 :四代目高橋幸助
当主 :高橋政雄
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敷地
L字型の敷地で角地に対して隣地を囲むように二方向(西、南)に道路に接している。幹線道路に面した西側に店蔵及び袖蔵が位置し、その奥に母屋が建っている。南側道路面は駐車場及び作業場がある。敷地の北側は駐車場となっている。
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袖蔵
木造二階建。間口2.5間、奥行き4.5間。二階の梁の墨書きから明治15年の上棟であることがわかる。
施主:四代目高橋幸助
棟梁:関屋重藏
左官:平野喜太郎
鳶職:横田市藏
墨書きに左官職の名前が入っていることから、当時は左官工事が重要な位置を占めていたことが改めて確認できる。二階へのアプローチは2箇所あり共に箱階段で上り下りしていたようだ。二階には荷卸し用の吹抜があり、上部には滑車もついている。織物商時代の領収書などが無造作に床に散らばっており、明治時代から時が止まってしまったような空間だ。
店蔵と袖蔵の接続部の梁は丸く削りとられ、袖蔵の防火扉が店蔵の梁に当たらないように工夫されている。このことから、袖蔵があって、店蔵ができたのか、店蔵があって袖蔵がくっついたのか。両者が建てられた時期的なずれから、生じた仕事だろうと予想された。後の調査で店蔵の小屋組から墨書を発見。同時代の建立と判明した。全く同じ時代に建ったわけだが、ではなぜ、梁をわざわざ削りとる必要があったのか?かえって謎が深まるばかりだった。
袖蔵の入り口は立派だ。
土戸と格子戸が二重になっている。裏の座敷に通じる入り口もめずらしい斜め潜り戸がついている。今では力強く押さないと動かないが、当時は斜めに引きずり上げると自動に下がる、半自動引戸だったそうだ。外部は厚さ300mmもある防火戸(漆喰塗り)で密閉できるようになっている。蔵の大半は厚塗りの漆喰壁で覆われている。
●店蔵
袖蔵同様、明治15年の上棟であることが、二階の大梁の墨書きから判明した。店蔵の基本形は間口3間、奥行き2間5尺でほぼ、正方形の軸組からなる。4隅に210mm角の太い欅の通し柱が建っており、この上に二階が乗っている。正面、桁行方向の梁は成が510mmもあり、3間もの無柱空間を軽く繋いでいる。床は土間、壁は漆喰塗、天井は二階の床板がそのまま仕上げとなっている。
かつて店だった土間はアルミサッシで半分に区切られ、高橋硝子店の事務所として使われていた。店の棚には、瀬戸物やガラス食器が並べられていることから、建築材料だけでなく、日常雑器なども扱っていたようだ。梁から硝子のサンプルボード(3尺×6尺程度の大きさの木枠に硝子の切れ端が所狭しと掛けてある)が吊られており、硝子店の様子が色濃く残っている。
●母屋
建築当初は二階建てだったと伝えられる。高橋清三郎(祖父)の代に隣家(鍛冶屋)からの貰い火を受け、北側桁行方向が半焼。火災後に平屋建てとして改修されたそうだ。廊下の物入れの天井板をはがすと、炭化した梁や束が残っており、火事の痕跡を確認することができる。今回の調査で、小屋裏から棟札が見つかった。炭化した棟札だ。しかしながら、現在の小屋組自体も炭化したままなので、小屋全体が建設当初のものであると思われる。小屋組からは、二階があったと痕跡は見つけられなかった。
棟札は炭化しているものの、かろうじて文字は読めた。建設年月日の解読は残念ながらできなかったが、施工者が蔵のそれと同じであったことから、おそらく蔵と同時に建てられたものだと推測できる。母屋の棟札には、普請に携わった家相人も入っていた。
●廃屋
店蔵の南に通路を挟んで、廃屋がある。瓦屋根で床の間まであり、それなりの家だったようだ。いつ頃建てられたかは定かではないが、おそらく戦前のものと思われる。昭和末期まで一部使われていた。元は借家として貸していたが、建物の傷みが激しくなってきたので、人に貸すのを止め、使えるところを細々使っていたようだ。今では、侵入者を拒むかのごとく、段ボールや廃材が玄関部分を占領していた。奥の間の屋根が抜け落ちており、太陽光線だけが時の止まった空間の中を自由に出入りしていた。
●赤レンガの塀
塀は蔵が出来た後に建てられているらしい。この赤レンガの塀はイギリス積みで、上部は角を斜めに互い違いに出すような形で積まれている。さらに、煉瓦塀の上に瓦を敷いて蔵との外観の調和を試みるなど、デザイン性豊かなハイカラな仕事とも言える。表通りは高さ4メートル近くあり、間口は10メートル。南側は16メートルの長さがあった。大正12年9月1日の大震災の折にもびくともせず、また幾風雪にも耐え今日に至っている。北側は、便所の横にかろうじて残っている部分があるものの、ほとんどが取り壊されていた。
●外構
レンガ塀のくぐり戸を通って、敷地に入ると下町の路地に入ったような錯覚を受ける。建物の間の路地、ブロック塀、フェンスに吊られたプランター、通路に所狭しと植えられた植物など、下町の路地を思わせる生活の日常風景があった。
敷地の内部ではあるが、公私を分けるような空間構成になっていたのは、廃屋が借家だったこと、硝子店の作業場が奥にあることなど、生活の中で公私の区別を動線的に明確にする必要があったからだろう。
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