鈴木喜一建築計画工房
[改修] File no.36

BACK/INDEXNEXT


武蔵野美術大学吉祥寺校四号館

■所在地/東京都
■種別/改修・木造2階
■設計/鈴木喜一建築計画工房(担当:鈴木喜一、渡邉義孝、草道康代)
■施工/千葉工務店
■2001年竣工
■外壁/焼杉板

●工事プロセススライドショーを見る

上/北側外観
▲photo.by
アトリエR

 
武蔵野美術大学吉祥寺校四号館改修工事は、1955年に建てられた大スパン架構の木造2階建て校舎を現地で改修し、新たなニーズのもとで全面的に再生をはかったものである。この建物は、当初は教室として使われていたが、その後はほとんど放置されている状態だった。
 まず、徹底的な構造調査が先行して行われた。神楽坂建築塾塾生もボランティアスタッフとして参加した。その結果、細い部材ながら合理的な架構がなされていたこと、大スパンの床組のために合わせ梁が使用されていたこと、足元の土台や柱は腐朽による損傷が激しいことなどが判明した。
 改修計画では、2階に研究室が入り、小屋裏にも床を設けることから、単なる耐震補強だけでなく、さらなる荷重の増加への対応が要求されたが、基本的に元の建物の考え方を尊重し、既存の架構を最大限活かすことが課題となった。
 その後、関係者の協議をもとに改修設計が行われ、約6ヶ月の工事期間を経て、四号館は新しい姿で生まれ変わった。大胆なファサードの変更の一方で、内部には既存部材の再利用やあらわしなどにより、この建物が経てきた時間の流れをそここに感じられるような空間が広がっている。[設計:鈴木喜一建築計画工房 施工:千葉工務店]

活用のための提案] 実測調査及び土台廻り・軸部等総合調査より

 これまで武蔵野美術大学吉祥寺校四号館の現状、及び腐朽、破損状況について細かく言及してきたが、本報告はその結果、この建物が今日という時代の機能に沿うことができなくなったということを提言するものではない。
 確かに本文の冒頭にも紹介したように、この建物は昭和30年に建てられたもので、現存する武蔵野美術大学の校舎の中では最も古い遺構である。しかも一般的に、必ずしも材料や経済が豊かであったとはいえない時代の建物である。
 しかし、無名で古い建物が、即ち遺棄すべき建物で老朽化した建物という図式では語ることができない。これまで当工房では近世から近代まで多くの民家の保存、修理、改修に立ちあってきたが、その経験と今回の実測状況を踏まえた上でこの四号館を見れば、まだまだ建築として壮年期を生きていると言えるだろう。しかも、限られた木材の有効利用を構法的に解決しようとした当時の関係者の創意を伝える貴重な建物ということもできる。
 高度成長期以来、時代は急速な勢いで年輪を重ねている建物たちを廃物化してきたが、ここ数年、長く持続可能な建築の在り様を追及する気運が高まってきた。それは専門家だけでなく、市民、行政の間でも生まれつつある。
 こうした潮流の中で、四号館の保存とそのゆるやかな更新、かつ活用という命題はまさに新しい時代が希求している最も大切なテーマだと思われる。
 最後に、活用にあたっての提案を簡潔に述べておくことにする。

★吉祥寺キャンパスの全体的な環境整備構想とそれに基づく四号館の位置づけを考えたい。そのことによって、四号館までのアプローチが再構築できるであろう。
★戦後という時代のモダニズムを注意深く読み取ったデザインとするべきである。
★北面に正面ファサードをつくろう。東面も裏の道路から容易に望見できるので重要なファサードである。
★改修工事においては法規制や近隣状況についての配慮が必要である。
★屋根裏に洋小屋が大がかりに残っているので、この空間を積極的に活用するべきだろう。
★改修にあたっては、使用用途の検討と同時に設備の更新が必要になるだろう。便所や湯沸室の増設、空調設備等の新設が考えられる。また、基礎部及び木構造下部の点検、それに基づく構造補強は必要条件である。
★さらに、残す部分とつくる部分を明確にしながらも各要所で多様な判断がとられるべきであろう。保存か撤去かという二極化した構図は避けてできるだけ柔軟な馴染ませ方を追及すべきである。
★たとえ積極的に活用するということがなくても、最低限の修理はする時期である。

 

 

[Photo]竣工写真 クリックすると大きな画像にリンクします 

▲東側道路から見た、北側外観

▲ロフト部分外観


▲一階廊下と二階への既存大階段
▼二階東側研究室

▲ロフトへの階段
▼一階多目的講義室(中央にちょうな斫りの補強柱)

▲既存キングポストトラスのある屋根裏

▲一階多目的講義室での講義の様子

photo.by アトリエR


 

武蔵野美術大学吉祥寺校四号館/INTERVIEW/鈴木喜一
改修工事を終えて

 いきなり改修設計に入ったわけではなかったんですよね。まずはこの建物が改修できるかどうかを知るために、「実測調査及び土台廻り・軸組等総合調査」を行ないました。
 相当痛んでいて、壊すための調査であれば、「壊すべきである」という言い方もできる状態でした。ただ、基本的には残すための調査だったんです。痛んでいても、なんとか再生することを提案していったんです。
 僕もおよそ二五年前の学生の頃、毎日このキャンパスに通っていたんですが、この建物についての記憶と言えば、そういえば倉庫のような地味な建物があったな、という程度のものです。誰か、だまってこっそりと絵を描いたりしてるような、そんなことが許されてしまうような無法地帯の暗い建物だったんです。その雰囲気もなかなか良いなと思ったりしましたが、いずれこの建物は無くなってしまうのかなあとも思っていました。
 それが、酒井道夫先生から、調査して直せるものだったら直したい、通信教育課程の新しい拠点にしたい、という話があったんです。この仕事に関われるのは、通信の卒業生である僕にとって、とても幸せなことだった。しかも、武蔵美で一番古い建物に関われるという、二重のうれしさがあった。
 実測調査でつぶさに見ていったわけですが、外観は本当に何の変哲もない四角な建物になっていました。竣工の約三年後に曳き家した時、90度振って現在地におさめた関係上、それまで見えていなかった北面が現在の正面となって現れたのですね。意匠的にはあまり考慮されていない状態でした。ですから、人間でいうなら顔みたいなもの、つまりファサードを北側につくろうと考えました。それがロフトなんです。
 内部空間にはうっすらとモダニズムの香りが残っている。材料が乏しかった時代の建物ですが、建具や階段等にその頃の時代の意匠を感じることができました。これを注意深く読み取って改修していきたいと思いました。
 用途としては主として、一階にアトリエと多目的講義室、二階に研究室をつくりたいという依頼だったんです。ニーズには無かったのですが、屋根裏を覗いた時、これはおもしろい空間になるな、と感じた。この状態でそのまま天井裏にしておくのはもったいない。使用目的はともかく、ぜひロフトをつくらせてほしいと提案してできたものです。
 再生行為というのは、まるっきり残すということだけではなくて、新しい用途にあうようにつくっていくことも必要です。残す部分とつくる部分、元に戻す部分などいろいろ混じっていいのだと思います。例えば今回はアルミサッシュは全部取り外し、創建当時の木製の枠を利用して木製建具に戻しましたし、落書きや油絵が飛び散った床の跡なんかはそのまま残しました。あれは長い時間がつくった芸術なんですよ。酒井先生と床を見ながら「これはジャクソン・ポロックだよねえ」等と話していました。
 そんな風に様々な時代が混在していいんですよね。あまりつくり過ぎないように、かといって消極的にならないように改修設計を進めました。構造的には、地震が来たらいつ倒れてもおかしくない状態だった。それで山辺豊彦さんに構造解析をお願いして、しっかり固めてもらいました。
 合わせ梁の中央に補強した手斧ちょうなはつりの大黒柱は、フランス中部に分布しているシトー派の修道院建築をイメージしています。シトー派の建築は、ヴァナキュラーなんだけど民家よりも少し建築的なんですね。四号館を最初に見た時の静寂な感じと内部空間の設計態度が僕の中でシトー派建築と重なったんです。
 手斧はつりは、真っすぐな材がとれない時代に出来るだけ平らな材にしようとして施された技術なんです。これは七〇才位の棟梁にはつっていただきました。人間が手でつくったということをこの四号館に持ち込みたかったんです。
 施工は神楽坂建築塾研究生である千葉弘幸さんが代表を務める千葉工務店に特命で依頼しました。彼の元で、やはり建築塾の修了生である永吉辰朗さんが現場監督としてよくやってくれました。新潟から泊り込みで来てくれた十人位の大工さんたちも根継ぎや補強工事等、面倒な作業を実に手際よく進めてくれました。塾生のみなさんにもボランティアとして床の掃除や塗装を手伝っていただき、いろんな方の力で出来上がった仕事だったなと思っています。(『住宅建築』2002年3月掲載)


問合せ
BACK/INDEXNEXT