VOL.14
中国・黒龍江省哈爾濱(ハルピン)/斉斉哈爾(チチハル)   Sketch by Kiichi Suzuki

中国・黒龍江省哈爾濱/斉斉哈爾



●李永東


●扎龍村の車窓の風景(チチハル)


●チチハル扎龍村の民家

●哈爾濱(ハルピン) / 晩秋
1993年11月15日、北の町。
晩秋のハルピンは夕方4時になるともう暗くなってくる。おまけに痛いように冷たい。ぼくの身なりはと言えば、ズボン下を2枚(1枚は毛糸のもの)、ズボンが2枚、靴下も2枚、靴の中にはホカロンを入れている。上着の方は、やはり厚い下着を2枚、その上にトレーナー、シャツ、セーター、ジャケットという格好で、はっきりいって着膨れ、リュックの中の衣類は全部着込んでみました、という状態である。
午後3時58分、この時間で零下8度から10度ぐらいだろうか。露店のイスを借り、覚悟を決めて、あかりが灯され始めた中央大街を猛烈なスピードでスケッチする。歩き回った一日は、どうしても一枚の絵が描きたい。どんな厳しい状況下でも、その一日を絵の中にに封じ込めたいと切に思う。冬にさしかかったぼくの旅は、言ってみればスケッチ巡業なのである。
着彩を始めると画面がたちまち凍ってしまう。たっぷり水をつけて素早く塗るのだが、少しもたついているとジャリジャリとシャーベット状になってしまう。それでも必死に描き続ける。……だが、細部はとても描けない。自然(冷気)が画面を省略する。
4時34分、終了と同時に手が硬直している。描きあがった画面にはステンドグラスのように氷の幕ができている。

●斉斉哈爾(チチハル) /鶴
  1993年11月18日、さらに北の町。
チチハルでバスに乗り遅れてしまった。
鶴がどうしても見たかった。扎竜自然保護区へタクシーを走らせる。約一時間、車窓は冷たい平原が延々と続いている。11月下旬の自然保護区はとても静かで、夏季に賑わっているだろうと思われる店はすべて閉店。鶴もあまりいないようである。
気を取り直して保護区の湖上を歩いてみる。氷厚がかなりあるので、余裕で歩いていたが、時折、氷のひび割れる不気味な音を聴くとビビッてしまう。こんな寒さの中で氷が割れたらどうしよう。
湖上では葦を刈る3人の男がいる。根元が凍ってこの季節が一番刈りやすいのだそうだ。ぼくも混じって葦を刈る。体を動かすことによって中から少し温かくなる。氷の上を自転車でスイスイ走っていく男がいる。
お目当ての鶴は、ほとんど南に出張中。揚子江を越えていったいどこまで行ったのだろう。どんな事情があるのか、南に行くことを断念してしまった残留組の鶴は何となく暇そうだった。落花生を与えると鋭いくちばしで殻を破って実だけを食べている。
……じっと眺めていると鶴はやはり気品があって美しい。飛ぶ姿は神々しく実に優雅である。

●斉斉哈爾 / 李永東の33時間・
昼下がり、帰りのバスを待っている。
售票処(切符売り場)の石炭ストーブにあたらせてもらう。季節はずれの自然公園の窓口をあずかる村の娘たちは黙って編み物をしている。土間には葦が散乱している。おじいさんが二人、そして黙ってタバコを吸い続けている男が一人。
時間がとうに過ぎてもバスは来ない。娘たちは編む手を休めずに、たぶんバスが壊れたのだと平坦に言う。よくあることらしい。
「4時46分のハルピン行の火車票を買ってあるのだが……」とぼくが切符を見せると、それまで一言も話さなかった男が、腕時計を見てからやおら立ち上がり、何を思いついたのか外に電話をかけに行く。タクシーでも呼ぼうとしたのか。しかし、電話はつながらない。
男は近くの村まで歩いて行くからついて来い、と命令する。風貌と態度、それに人を射るような目が『ゴルゴ13』の東郷に似ている。李永東と名乗る。年令不詳の壮年。広い自然保護区の中の一本道を歩いて行く。空は晴れて陽がさしているが、やわなぼくは、顔も耳も真っ赤になってしまい、顔面麻痺状態。タオルを顔に巻いて、目だけを出して歩くことにする。底なしに冷たいが、人気のない厳しい自然の道を歩くのはなぜか気持ちが良い。
後方から車のエンジンの音がする。振り向くとトラックが走ってきた。大量の草を載せ、その上にも人が座っている。

●斉斉哈爾 / 李永東の33時間・ 
  東郷が、いや李永東が両手を広げ道の真ん中に立ちはだかる。まさか、と思ったが草の上に乗るらしい。トラックに満載された葦の上に寝転んでしがみつく。ここで受ける風は、さらに冷たい。……降ろしてくれ、東郷、と目で訴えても、李永東は素知らぬ顔をしている。
でこぼこ道の分岐点でようやくトラックと別れた。また黙って歩き続ける。ぼってりとかわいい、これぞ『大地の家』と言っていいような土の集落があり、ぼくは喜んで写真を撮ろうとするが、寒さのためかシャッターが動かない。牛やブタもいる。土の家には必ず太い煙突がある。部屋はオンドルになっているようだ。李永東からかなり遅れをとってしまった。彼は振り向かない。
扎龍村のある一軒の家に通される。清潔な家である。おばあさんと母と娘がいる。おばあさんが砂糖湯を入れてくれる。体が冷えきっているので、これはとてもありがたい。家族は、バスが来なければここに泊まればいいんだから、といってくれる。李永東はジュースとお菓子をどこからか買ってきてオンドルパン(温床)の上に無造作に置いた。白黒のテレビを見たりする。4時過ぎようやくバスが来た。もう外はすっかり暗くなっている。

●斉斉哈爾 / 李永東の33時間・。
もう火車には乗れない、あきらめよう。バスから見る夕焼けは地平線の上で美しい。さっと一枚のスケッチをする。 一時間後、バスはチチハルの町に着いた。街灯があまりないので、闇の中でザワザワと物売りや自転車や行き交う人々が動めいている。まだ5時をちょっと回ったばかりである。
李永東はバスから降りてタクシーを拾う。乗れと指示する。チチハルの火車駅まで送ってくれるのかと思いつつ、タクシーはあっというまにチチハルの火車駅を過ぎ去る。おっと、李永東はいったいどこに連れていこうというのか。タクシーは市街をどんどん離れていく。いまさらあわてても仕方がない、虚心の構えだ、もう流れに身をまかせよう。硬直してはみっともない。道なき道のようなところを大分走ったような気がする。
素朴な土の集落についた。一軒の家に立ち寄り、そして朝鮮料理店で車はようやく停まった。店の中はハングル語が飛び交い、テーブルにはキムチが並んでいる。イルボン(日本人)が来たぞ、と言って店員たちはめずらしがっている。李永東が御馳走してくれる。ぼくはチチハル産の名月島 酒を飲む。李永東は地酒の強いコーリャン酒をグイグイ飲みはじめた。
李永東は極めて寡黙で無表情な男である。目は鋭い眼光を放っているが、その奥にやさしい瞳も併せもっている。そして、不意にかすかな笑みを浮かべるのだった。
しばらくすると一人の日本語を話す男がやってきた。 名前は権茂根、64才。50年前、京都に4年間住んでいたという。50年ぶりに話す日本語はたどたどしいが、話すごとに慣れてくるようでもある。韓国で生まれ、おじいさんに連れられて日本に行った。日本名は安岡茂根。一つ違いの妹も一緒に行ったが、中国に来る時、妹はそのまま日本に残ってしまった。妹に会いたい、生きているだろうか、捜す方法はあるだろうか、とつぶやく。
李永東は黙って白酒をあおっている。

●斉斉哈爾 / 李永東の33時間・「
  李永東の家に行くことになった。この集落は明星村、朝鮮民族ばかり約1000人が住んでいる。キムチにするのだろう、どの家の前にもたくさんの白菜が山積みされている。
突然の訪問に奥さんはびっくりしているが、気持ちよく歓迎してくれる。権茂根さんも一緒に来て少し話をする。権さんもまた寡黙な人である。郷愁にふけっているようだった。目元も少し危うい。それでも、ゆっくりと日本語を反芻するように語ってくれた。
「1942年、京都市中京区大竹町38番地、第五国民学校4年、安岡茂根。妹の名前は宋玉必、結婚して名前も変わっているだろう。日本のことは忘れたことはないがあまりにも遠い時間が過ぎていった。日本語は懐かしい。この村に日本人が来るとは思っていなかった。……生まれは韓国、日本で育ち、そしてチチハル。チチハルは満州国から中国になり……、兄弟、親戚、義理も人情も、みんな遠く引き裂かれてしまった。これは戦争の、……日本の軍国主義の悲劇です」
李永東が権さんの日本語を静かに聞いている。彼は、いつからか、ぼくを権さんに引き合わせようと企画したのだった。

●斉斉哈爾 / 李永東の33時間・」
  権さんが帰宅して、しばらく李永東の写真アルバムを見せてもらいながら、彼の人生の断片を垣間見る。彼と奥さんの古い写真を見て、時々、顔を見合わせて笑う程度の途切れた会話が続く。夜も更けてオンドルパンで眠りにつくことになった。外は凍てつく寒さだが布団の中はポカポカと温かい。不思議な夢のような一日が、見知らぬ家の中で深く沈み込んでいった。
 その後も含めて、李永東がぼくに対して行動したことをまとめてみると、
 ・扎龍村のバス停まで連れて行ったこと
 ・チチハル駅でぼくを降ろさずに、明星村まで強引に連れて行き、権さんに会わせたこと
 ・自分の家に泊めてさせたこと
 ・ハルピンまで同行したこと
 ・ハルピンの叔母の家で晩餐会をしたこと
 ・満席だった北京行寝台車の切符の手配を、甥に強力に指示したこと
 ・ぼくが北京行の火車に乗るまで見とどけたこと
 ・かなりのお金を使ったこと
 その間の33時間、すべてぼくのために費やされたのだった。

 


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