VOL.19
台湾・ 淡水  photo and sketch by Kiichi Suzuki

台湾・ 淡水



「このワンタン屋、おいしくて有名。ここの主人、まだ若いけれど、大学出て、会社やめて、ワンタン屋になったの。成功して金持ちになった。最近、この三怪建ての建物、全部買ったんだよ」と陳月里さんが言う。


淡水から観音山を描いていると、陳月里さんに声をかけられた。

《淡水山上・老屋》
淡水を訪れた翌年の春、陳月里さんから一枚のスケッチが届いた。絵には、胸にジーンとくる短文が添えられていた。送給・鈴木喜一先生来淡水記念として、「この絵は先生の画に感化されて描きました。真似事です。けれども20時間かけました。これでも一生懸命です。いつかは描ける日を信じております」とあり、末尾に淡水山上・老屋、1989年4月陳月里習画と筆で書かれていた。


▲淡水の清水街

●台湾北部の港町・淡水
淡水河の向こうに観音山が見える。夏の夕暮れの風景を追って、海辺でスケッチブックに筆を走らせる。いつしか子供たちがぼくを取り囲んで、絵具をいたずらする。静かにふり払いながらぼくは描き続ける。観音山のふもとにある八里の村影が少しずつ沈んでいく。
 スケッチが終わるとうしろから、たどたどしい日本語で話しかけてくる女性がいる。
「日本人、ですか?」
 ぼくはいくぶん緊張して懐かしい響きにふりかえる。
「そうですが……」
 60歳は越えているだろうと思われる女性だ。
「とても、いいスケッチ、ここ、塗らないところいい」といってほめてくれる。「………」
「心配ない、家においで、お茶を飲もう」

彼女の名前は陳月里、67歳、台北生まれ。小柄ではあるが、昔日の美人の面影をとどめている。淡水の海岸からほど近い、三民街の小さな公園に面した建物の二階に住んでいる。趣味が高じたらしく、一階の店舗も借りて民芸店『石餅』を娘さんと一緒に開いている。話すほどに日本語がうまくなり、陳さんの身の上話が始まった。
彼女には四人の子供がいる。 三人が娘、一人が息子だという。長女はアメリカに留学して、そのまま結婚。40歳になるのだが、勉強が好きで大学を卒業してから何回も別の学校に行っているのだという。ニューヨークから始まって、シカゴ、LA、現在はサンフランシスコに住んでいる、という具合に、上から順番に丁寧に紹介してくれる。
淡水で一緒に民芸店をやっているのは、末っ子の秀美さんである。子供の頃から美術が好きで、淡水に憧れていたという。淡水は、日本でいえば長崎、神戸、横浜といった異国の匂いのする港町であるし、坂も水も豊富な上、とくに日没風景が美しいといわれる町である。きっと芸術家たちが好んで住んだ場所であったにちがいない。彼女の友人は、みんな「アーチスト」だという。年頃になってからは、結婚するなら「淡水の人」とかたく決めていたようだ。予定通り、淡水人である中学校教師と結婚した。文学の好きな御主人は、現在、教師をやめて淡水の清水街で寒山書房という小さな本屋を経営している。自分の好きな本を並べて、売れない小説を書いているのだ、と陳さんは書店経営におさまってしまった末娘の婿に少しだけ不満そうな口ぶりである。
秀美さんは待望の淡水に住むことになったが、なかなか子供ができない。
「子供ができないから、何かしなければ、ならない」といって始めたのが、この民芸店だと陳さんは店を見回しながらいう。陳さんは、台湾の古い民芸品や民具を集め、店番を担当している秀美さんは、自分の店はもちろん、友だちに頼まれた店のディスプレイもする。また、石版を彫ったり、刺しゅうをしたり、淡水河畔や何げない町家の写真を撮ったりする。
中国式の小さな湯呑みで何度もお茶を飲みながら(老人茶と呼ばれている)、陳さんとの話がいつまでもはずむ。日本語のわからない秀美さんが時々、陳さんから話の成り行きを聞いてうなづいている。
すっかり夜となって、台北に帰る予定が面倒になってきた。彼女たちも、ぜひ淡水に泊まれと言って、駅前にある萬 飯店の地図を書いてくれる。

翌朝、8時起床。ぐっすりと寝込んでしまった。カーテンを開ける。光がまぶしい。淡水河と観音山が見える。じつにいい天気だ。
いそいで身支度をして町に出る。朝の小さな通りは活気がある。花売り、肉屋、魚屋、雑貨屋、衣類、総菜屋、果物売り、鶏売り……。狭い道には日よけのテントがかかり、外でも内でもない柔らかい路地空間がつくられている。
食堂の店先で小椅子を借りてスケッチをする。この店は半分以上外気に解放された簡易食堂、つまり屋台と食堂の中間と言ったところである。調理している主人の手際のよい料理術をじっと眺めているのも楽しい。ビールを飲みながらお喋りしている男たちの食卓には、強力な火に包まれて出来あがったばかりの料理が次々と運ばれていく。……まだ11時前、ぼくはおいしそうな匂いをじっと我慢してスケッチにうちこむのである。
陳さん親子と約束した午後1時に、民芸店「石餅」を訪ねた。ちょうど暑い盛りである。二人ともうれしそうな笑顔である。今日の陳さんは、いくぶんおしゃれのような気がする。「金門民居建築」という立派な本が机の上においてある。ぼくが建築を仕事としていて、伝統的な民居建築に興味があると言ったので、さっそく用意してくれたのだろう。
本を繰ると素晴らしい民居群が紹介されている。「金門に行ってみたい」というと、兵隊しか行くことのできない島だから無理だろうという答えだった。地図を広げ、台湾中部の古い港、鹿港の町に丸をつけて、ここにぜひ行って欲しいという。
しばらく店で休んでから、日よけの傘をさした陳さんに連れられて、ぼくは淡水ツアーに出かける。まず馬偕博士の淡水キリスト教会に行ってみる。馬偕博士はジョージ・レスリー・マッケー(GEORGE LESLIE MACKEY) といい、1871年イギリスから淡水にやってきて、1906年に没するまでの35年間、熱心に布教活動を続けた宣教師であり、また、学校や病院を創設して淡水に文化の種を撒いた人として知られているそうだ。
淡水工商、淡江中学の近代洋風学校、馬偕記念堂(オックスフォードカレッジ)と博士ゆかりの建物を見学する。そして最後に紅毛城(サンドミンゴ城、1629年創建)といわれているスペイン人が作り、オランダ人が改修したといわれるほぼ四角な要塞を訪れる。
淡水河に向かって砲台が設置されいているこの要塞で、スペイン人、オランダ人が激戦を繰り返したと伝えられている。1861年からは天津条約に基づきイギリスが領事館としてつい数年前まで使っていたそうだ。淡水における略奪の歴史を証言する記念的な建築である。
暑い海岸沿いを歩くと日本家屋も時折見られる。日本が植民地として統治した時代(1895〜1945年) に、日本人の大工によって建てられたものである。どちらかといえば無骨で大陸的なおおらかさの見られる台湾民居に比較すると、同じ木造でも日本のそれは繊細な仕事ぶりがうかがえる。一昔前、この通り(中正路)には多くの日本家屋があったそうだ。台湾政府はこれをできるだけ早い機会に一掃したい意向であると陳さんは言う。できることなら残してほしいという気持ちがぼくの中にないわけでもないが、植民地支配のもとに収奪された台湾の暗い50年を思うと日本家屋の保存あるいは修復、再生といった言葉を口にすることはできなかった。たとえそれが、建築のアポーリアとしての保存であったとしても……。

夕方、三民路の公園に座り、なじみになったワンタン屋のなんとも味のある三階建ての建物をスケッチする。真昼の散歩をして疲れた陳さんは、少し休むからといって店に戻ったものの、時々、ぼくのスケッチの進行具合をのぞきにくる。
そして今度は……、いつもと違う様子の陳さんが、少し笑いながら両手を後ろに結んでやってきた。そして背中に隠し持っていたクレヨン画をいきなり見せてくれた。『金山の暁陽』と題してある。ぼくは、しばし筆をとめる。
「……きれいだね。陳さんも絵を描くんだ」
「私は、いつもは、描かない。感動した時にだけ描くの。金山の朝日は、とてもきれい」
「金山か……」
「時間があれば、連れていくのに……」
白い小さな布に描いたものだが、本当にきれいな絵だ。ぼくは、うれしい気分になって描き続ける。
一時間あまり描いただろうか。パレットの後片付けをしていると、陳さんがスケッチブックを持って、陽が落ちるから早く、早くと呼んでいる。淡水の町は一枚も描いたことがないと言っていた彼女が呼んでいる。
急ぎ足の彼女の後を追いかける。港に出ると、残念ながら今日の日没は太陽が見えない。しかし、美しい薄紅を見せて暮れていこうとしている。二人で必死に夕陽を追う。彼女は色鉛筆、ぼくは水彩。(1988年夏のこと)

 


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