僕のとなりの国にいるちがう顔の人たち


VOL.8

乗り合い自動車


タイ・チェンマイ  Sketch by Kiichi Suzuki

タイ・チェンマイ

 


ぼくの机の下にぎっしり詰まっている旅日記の一冊を無作為に抜き取り、無雑作にあるページを開いてみた。そのページに閉じこめられていた小さなストーリー。
1988年11月19日の午後、ぼくはチェンマイ郊外のテキスタイル・ショップの前で赤い乗り合い自動車になんとなく乗っている。乗客は一人だけなので助手席に座ることになる。
「どこに行く」と運転手に目で聞かれて、とくに答える言葉が見つからない、という日記のメモもちょっとおかしいが、あてのないタイ北部の旅の最中であることがわかる。
しばらく間をおいて、
「タイハウス、……タイの伝統的な家を見たいな」と言っていた。
「……タイハウス?」
運転手は怪訝な表情を浮かべ首を傾げながらともかくほこりを立てて走り出した。目的地はどこでも良かった。チェンマイの下町みたいなところで降ろしてもらい、しばらくうろうろしてスケッチができればそれで上出来、という気楽な感覚である。あわよくば、タイの伝統的な木造の家の集落が見たいという気持ちもないわけではない。でも、その類いの風景はもうチェンマイには見られないようである。市街のあちらこちらでビル・ラッシュが進行中である。
運転手の名前はチャー・ルウ、当時42才、貧しいので結婚できないという。ほんの片言の英語でお互いのアウトラインをつかもうとするのだが、話は微妙に伝わらない。チャー・ルウは民宿のかなりある住宅地を案内してくれる。
「このあたりがタイのゲストハウスだ」
路地を走らせながら民宿を見つけるたびに停車して、確かめるようにぼくの顔をうかがう。どうやら彼は、ぼくがこのあたりの民宿に泊まっていると思いこみ、その民宿を探して走っているようなのである。
意志の疎通がなかったことに気づき、ぼくはやんわりと「バザールに連れて行ってくれ」と言ったが、その前に粗末な、としか言いようのないタイの長屋の一室、つまり彼の住まいでお茶を飲むことになる。その後、バザールまで送ってくれた彼は、もう友達だよ、と言ってとうとうお金を受け取らなかった。
チャー・ルウ、……元気で生きているだろうな。

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