僕のとなりの国にいるちがう顔の人たち


VOL.28

春雪好

柯橋古鎮・中国  Sketch by Kiichi Suzuki

柯橋古鎮・中国

 


1994年3月9日、紹興の西約12 ほどに位置する水の町、柯橋古鎮を訪れた。町に一歩足を踏み入れたとたん、これはいい町だぞ、という手応えが全身に迫ってきて、いつものようにぞくぞくとする衝撃感がやってくる。
こういう時のぼくは、まず前後の見境を失い、町と人を堪能するためにやや足早となり、徐々に間断なき行動のテンポが生まれ、この動きがやがてS作戦的独自な発想力とシンクロし、旅の一遍の物語を生み出していくのである。この物語の方向は、ぼくの場合、スケッチを描くということに収斂していくわけであるが、逆にスケッチを軸に物語が発生することもある。
いずれにせよ、町の中でぼくは、注意深く一枚のスケッチを描くためのポイントと絆をさがしているのである。この町で一番いいところを描きたい、そして描くためには、この町と精神的なつながりがどうしても欲しい。だから、時間を忘れてひたすら町を歩く。風景と対話する。鳥蓬船にも乗ってみる。にぎわっている屋台の人となる。なんとかコミュニケーションをとる。
空はどんよりと曇ってきた。民家の入口の門には、

  春風吹開幸福門
  瑞雪鋪平富裕路

などと漢詩が達筆で書かれている。自己流でこの意味を考えてみる。
春の風が吹いてきて、幸せの門が開かれる。みずみずしい雪が石畳にやさしく降りつもり、路上が豊かに広がっている。
……ほのかに軽やかで美しい詩である。感心してうなづいていると、気まぐれな天の配剤というべきか、なんと春の瑞雪が柯橋古鎮に降ってきた。思わず、春雪好、と空を見上げて独りごと。
ぼくは急いでこの町一番の高いビル 洋大 の屋上に駆けのぼり、いつのまにか調達している黒い傘をさしながらスケッチを始める。交差する運河といくつかの古い石橋が見える。狭い商店街の路地、にぎやかな屋台通り、木造アーケードの臨水街、小瓦屋根群……明代につくられたという融光橋には、傘をさした人々が行き交っている。鳥蓬船がそのアーチの下を潜っている。
今、柯橋古鎮に春の美しい雪が降っている。

目次に戻る 次のページヘ