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高橋博という建築家について、現在の日本で、どれだけの人たちが、どれほどのことを知っているといえるだろうか。1902年(明治35年)、山口県生まれのこの建築家の名前を、たとえば手近にある日本の建築家名鑑や、建築家の各種団体の会員名簿などを探したり、さらには、各大学の建築学科の卒業生名簿などを探してみても、その建築家にあたると思われる人物の名前を見出すことはできないだろう。しかし彼はれっきとした日本人の建築家であり、設計者としての実力を示すかなりの数にのぼる作品を造り、その一部は今も残っている。今回、『住宅建築』誌上で紹介する彼の一連の作品は、昭和のはじめから戦後にかけての彼の作品群のなかで、現存するか数年前まで健在であった建物を紹介したものである。
言葉を変えていえば、高橋博という建築家は、日本の近代建築史のなかで、かなりの実績をあげた建築家でありながら、なぜか文字どおり、“忘れられた建築家”となってしまった一人、ということができるだろう。彼は、なぜそのように“忘れられた”存在となってしまったのだろうか。彼は、自分の仕事や行動について他人に伝える時に極端に自己抑制的であり、建築雑誌などを通じて設計を世間や建築界に伝えたり、その仕事の内容を特別なものとして強調しよう、などとほとんど考えなかった、という。おそらくこれが彼が“忘れられた”第一番の理由と考えられる。さらには、青年期から今日にいたるまで、たとえば特定の同志たちとグループを結成して、なんらかの建築的主張をしたり、そのための運動にも参加したりもしなかったこと、もあげられよう。高橋は、若い頃から今にいたるまで、ほとんど設計組織に所属せずに一人で、地道に設計活動を続けてきたらしい。したがって、高橋のことを、友人として、同僚として語る仲間も少なかったにちがいない。
その意味では彼は、作品の高い質や内容を別にすれば、一般の市井の建築家としての半生を送ってきた、ということができるかもしれないが、しかし実際に高橋の経歴をひもといてみると、彼が一般的な建築家たちとは、かなり異なった道を歩んできた人物であったことがわかってくる。特に高橋が1923年(大正12年)、英国に留学し、ロンドン大学の「バードレット・スクール・オブ・アーキテクチュア」において、建築設計を学び、1930年(昭和5年)の帰国後まもなく、独立して設計事務所を開設したという経歴は、他の同時代の建築家たちのそれに比べてかなり特異なものがあるように思える。ここで、高橋の家族による「聞き書き」を参考にして、建築家高橋博の83才の今日までの略歴をまとめておこう。
高橋は現在の山口県阿武郡阿東町嘉年に生まれた。阿東町は山口県と島根県の県境に接した町(当時は村)であり、北東にひと山越すと、森鴎外の出生地としても知られる津和野の町があるような場所に位置していた。大きな農家の4人兄弟の次男として生まれ、その地方の山林を所有する豪農の一人であったらしい祖父に可愛がられて育った。高橋家は、京都からときどき能楽師がやってきて逗留したりするような素封家であり、屋敷内にはいつも木挽きさんがいて、大きな丸太を板に挽いたりしていたことを覚えているという。おそらく家の普請などもときどき行われ、少年高橋の建物への興味をどこかで惹いていたかもしれない。 中学校は山口市の出て山口中学に入り、それを卒業後、今度は広島へうつって、広島高等工業高校(現在の広島大学の工学部の前身)に入り、卒業した。
その後、大阪へ出て、そこで一年間、牧師について英語を習い、1923年、東京に関東大震災が襲ったと同じ年にロンドンに向かった。この留学費用のかなりの部分は、彼の祖父の援助によって賄われたという。高橋は前述のように、ロンドン大学付属の「バートレット・スクール・オブ・アーキテクチュア」へ入ったが、彼は毎日、プリンス・アルバート通りの先の動物園にちかい下宿から、リージェント・パークのなかをとおって学校へ通った、と回想している。学校では、石膏デザインをやらされたり、博物館で敷地の模様のスケッチをさせられたり、長い休暇中の宿題に古い教会の実測をしたり、また夏期休暇にはステンド・グラスの工房に入って勉強したりした、と語っている。大英博物館のブリティッシュ・ライブラリーにもよく通い、ここで逆に日本の歴史や文化に関心を持つようになった、という。ロンドン滞在中のアルバイトは、日本からやってくる財界人や政治家や華族たちの案内人であり、このガイドが縁で、後に彼が建築家として独立した時に、貴重な施主として仕事をくれた人がかなりあった、と話している。当時の海外旅行者の社会的階層からそういうこともあったにちがいない。事実、英国からシベリア経由での帰国時も、三井家の某令嬢のエスコート役を勤めながら、帰ってきたらしい。
高橋が日本に帰ってきた1930年(昭和5年)の日本は、まさに不況のどん底にあった。前年の、アメリカに始まった世界恐慌は、各国の経済を混乱させ、破綻させた。もちろん日本の経済も例外ではなかった。そのような情勢の仲へ、高橋は帰国してきたのである。
ちょうど同じ年に、フランスのル・コルビュジエのところから、建築家前川國男が帰国した。前川は、当時の建築界における最先端のデザインである、コルビュジエ直伝、もしくはCIAM流の、合理主義的な建築デザインを、日本において披露しようと、活動をはじめつつあった。彼の、その後続く長い戦いの第一ラウンドは、同じ年に行われたあの東京帝室博物館のコンペティションであったが、結局、インターナショナルな性格を提示した前川案は二等になり、ナショナリズムを前面に押し出した渡辺仁の計画案が入選して、数年後実現した。このことを別なかたちでいうのならば、1930年という時点において、日本の建築界に、〈インターナショナルとナショナリズム〉の対立が顕著化したということである。この結果、この年以後の約15年ほどは(つまり1945年まで)、ナショナルなデザインの優位(いわゆる帝冠式の横行)、1945年(昭和20年)以後は逆にインターナショナルな建築手法が圧倒的勝利を納めることになったのである。
日本で仕事を始めることになった高橋博もまた、彼自身がその時点で、そのことをはっきりと意識していたかどうかはともかくとして、そのような建築界の基本的座標に無関係ではいられなかったにちがいない。というのも、高橋が前述のように“忘れられた”建築家になってしまった遠因が、この対立的座標の存在にあるのではないかと、推測されるからである。もし彼がその両極のどちらかに属して、設計活動をおこなっていれば、けっして“忘れられる”ことはなかったと思われる。逆にいえば、彼はそのどちらでもない別の道を模索する建築家として、建築ジャーナリズムなどの表面から消えてしまったのだ。帰国直後の高橋は、建築家になるよりも、むしろ研究者あるいは著述家になりたい気持がつよかった、という。しかし「生活していくために」設計の仕事をはじめた。最初は、その頃躯体工事が終わって、まもなく内装工事がはじまろうとしていた国会議事堂の設計チーム、つまり大蔵省の臨時建築部局に参加し、インテリア・デザインの仕事をした。しかしすぐに上司と対立してそこを辞め、1936年、いよいよ自分で設計を始めるようになり、翌37年、妻静江と結婚。これ以後1930年代いっぱいにかけて、東京を中心にかなりの数にのぼる住宅を設計している。
高橋によれば、独立後の最初の仕事は、大曲の三井高修邸であったというが、おそらくこれも英国留学中のつながりによるものだであったと考えられる。今回、本誌に詳しく紹介した「市川の家」は、高橋のこの時期の仕事を知る上で、貴重な作品である。
この頃の高橋は、比較的施主にも恵まれていたらしく、住宅の設計の時などは、金に糸目をつけないで仕事ができたという。たとえば「市川の家」の場合、施主は「金はいくらかかってもいい」と、ほとんど制限なしの状態であり、設計の参考にするために京都へ何度も通って、日本建築を調べることができた、と話している。
この他にも、田園調布の下村邸、赤倉の田中山荘、下田の三井別荘、などの他にも、弓道場や茶席などもつくっていて、かなりの量の仕事を残していたようだが、詳細は明らかではない。
1940年から敗戦の45年までの間は、主に鉄鋼関係の会社の建物を設計してすごした。戦後は、1947年、自分の設計事務所を株式会社組織に組みかえて再出発した。同年、神楽坂に自邸を建て、それとともに設計室も新築した(設計室は現在、一部改修されて、「アユミギャラリー」となっている)。それ以後の1960年代の前半までの間、つまり、高橋の建築家としての40代と50代の期間において、数多くの質の高い住宅を設計している。今回収めた「山野の家」、「市ヶ谷の家」をはじめ多くの作品が、それぞれ強い和風のデザインをもつ点を特徴としている。一方洋風のデザインで、高橋の戦前の英国留学のせいかといったものをにおわせているのは、「那須の家」のコテージ風の外観やインテリアにうかがうことができるが、しかしそれとてもイギリスのデザインの直写といった感じは全くなく、むしろどちらかといえば日本の民家の構造と雰囲気に近い表現である。高橋にはこの他にも、戸塚共立病院や、築地の料亭「田村」、などを設計し、さらに戦前からのつながりで、鉄鋼関係の企業の建物も多く設計したという。
1968年、妻静江死去。高橋はこの頃からあまり仕事を引き受けなくなり、以後悠々自適の生活を神楽坂で続けて、今日にいたっている。
ちなみに高橋博と同年輩の建築家には、どのような人たちがいただろうか。1902年生まれの建築家としては、たとえば山口文象(1902年〜1978年)や、川喜田煉七郎(1902年〜1975年)、清水一(1902年〜1972年)などの他に、東畑事務所を主宰する東畑謙三などがいる。山口や川喜田が典型な敵名存在であるように、他差にこの世代の建築家たちの努力から、日本のモダニズムは本格化していくのであり、たとえばその2年後には、市浦健、坂倉準三、図師嘉彦、谷口吉郎、などの建築家が誕生していることでもその時代的趨勢がわかるのである。1930年代初めの、日本の建築界の若い建築家たちにみられたモダニズムへの強い傾斜のなかで、高橋博はなぜかその種の動きに対して、全くといっていいほど、デザイン上の関心を寄せていない。これにはさまざまな理由が考えられるが、彼が留学していた1920年代のイギリスの建築界が、大陸のドイツ、フランスなどのようには、モダニズムに熱心ではなかった、という事実がどこかに関係していたかもしれない。他方で、高橋自身も、前述のように、英国にて、その他の歴史や文化や芸術に興味を感ずるよりも、むしろ遠く離れてやってきた日本のそれへの愛着をもつようになっていたために、前衛的なデザイン論や、運動論には興味がもてなかった、のかもしれない。いずれにせよ高橋にはル・コルビュジエも、ミースも、グロピウスもあまり関係ないものに思われていたようなのだ。しかしとはいっても高橋の場合逆に、日本の1930年代を支配した「帝冠式」に代表されるような国粋的な日本主義に共感をいだいていたかといえば、けしてそうではなかった、といえると思う。高橋は、日本の大正時代に思春期を送ることのできた世代特有のリベラルな思想をもち、同時に言葉の純粋な、また正しい意味での〈個人主義者〉であった。そんな高橋は、どちらかといえば、イギリスの19世紀末から今世紀はじめにかけての、田園都市的な環境と、そのなかにたつカントリーハウスとか、あるいはコテージといった建物に惹かれるものを感じていたとしても不思議ではなく、またその延長線上で、日本の民家――農家や町屋――に興味をいだいていたのだと思える。そうした傾向が彼の一連の作品のなかにあらわれているし、彼の言行にもそういった意味の発言が多い。
高橋の和風建築は、茶席などをふくむいわゆる〈数奇屋〉の作品が多いが、ただ彼の〈数奇屋〉は、どちらかといえば、「真、行、草」のうちの、「真」に近い〈数奇屋〉だということができよう。そこには、高橋よりやや年上の建築家、たとえば吉田五十八の〈数奇屋〉にあるような華麗さとか、切れ味のよさといったものはないし、また、村野藤吾のそれにある、繊細なディテールや独特のおさえたスケールもない。しかしそのかわり、高橋の〈数奇屋〉には、吉田や村野のそれにはない、ある種の剛直さ、骨太さ、といったものがあって、ひとの心を安心させるような、すがすがしい何かがあるのだ。といって決して武骨というわけではなく、すっきりしている。要するに設計者の誠実さがあらわれている。おそらくそれは、彼が少年期をすごした山口の環境や、民家の空間体験が投影しているものと思える。また木挽きが木を板にしていくのを、じっとみつめていた少年の眼差しが、生きているともいえるだろう。おそらく高橋にとって〈木〉は彼の原体験にかかわる素材であったにちがいない。実際、高橋が材料としての木をあつかう時の手法には、その選択や仕上げに独特の好みや工夫が発揮されていいて面白い。
いずれにせよ、高橋博が“忘れられた”建築家であったという事実を逆にいえば、私たちが彼を見落としていたということでもあったのだ。彼が、彼より一世代前の様式的意匠にたくみな建築家であったら、見逃すことはなかったろうし、あるいは反対にもう少し後の世代の徹底したモダニストであってもおなじであっただろう。しかしある意味で、ほんとうの建築家たちはそうしたカテゴリーをこえた、それをはみだしたところに、かなりたくさん隠れているかもしれない……、そういったことを高橋の建築を見る時には考えずにはいられない。
彼の建築の内容について詳細に論じて検討するのは、まさにこれからの課題である。
はせがわたかし/建築評論家
私のなかの建築(文/鈴木喜一)
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