私のなかの建築
高橋博の住宅建築

文/鈴木喜一


 今から10年前に、はじめて高橋博という明治35年生まれの建築家の存在を知り、静かな衝撃をうけた記憶が残っている。
 当時、建築という世界に足を踏み入れたばかりの学生であった私にとって、建築への視角における隠れた支点を与えられたような気がした。以後、その建築は私のなかでどうしても消えないものとして、いつまでも揺らぎ続ける存在となってしまった。
 事務所(高橋建築事務所)で図面を見ては、山野の家那須の家市川の家、田園調布の家、……等を訪ね歩いた。欝蒼とする緑の中で、山野の家の田舎屋や茶席の堂々としたたたずまいをはじめて見た時、近代合理主義建築の流れから遠く離れたところで脈々と息づく寡黙な建築の美しい姿を見た思いがした。ひっそりとだが見事に生きている人間に触れたような気持でいっぱいになった。
 戦前、戦後を中心に住宅建築の仕事が多かったが、すでに壊されてなくなっているものも少なくなかった。新しい時代の殺伐としたテンポのなかで、こうした建築は静かに消えていってしまうのだろうか、と思いながら訪ね歩いたことを一つ一つ心の中にころがして沈殿させていく時間が続いた。

 山口県の山奥の比較的裕福な一農家に生まれた建築家は、20才から30才という青春時代の大半を、1920年代(1923年=大正12年〜1930年=昭和5年)のイギリスに学んだ。その時代は多くの日本人建築家が近代建築の目撃のために欧米へと出かけた時代でもある。コルビュジエのもとに、グロピウスのもとに、バウハウスへ、アメリカへ、ヨーロッパの旅へと……そして、いち早く欧米の近代建築思潮を感受して、日本に伝えたすぐれた建築家が輩出した時代であった。しかし、彼が学んだイギリスは当時もアーツ・アンド・クラフツ運動の影響が色濃く残り、ヨーロッパ大陸諸国に比べて、容易に近代モダニズムへの脱出が実現されない体質であったと思われる。
 ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に通って敷物のパターンの模写を模写したり、中世の教会建築の実測、ステンドグラスの工房やレンガ工場での実習、というロンドンでの学習ぶりをふと話したことがあった。また、ストラトフォード・アポン・エイポン周辺の魅力的な木骨造りの家並みやエジンバラの街の美しさを回想していることもあった。そして、ケント、サセックス等イングランドの田園にひそむ自然な住まいを好んで歩きまわったという建築家は、時代思潮の先端を鋭敏に捉えていく変革者としての使命を全く背負っていなかった。ただひたすら、自身の好む建築を、自身のために感じとりながら、衒いなく積み重ねていったにちがいない。
 20代という大切な時期を、意識してか、時代の潮流に流されることなくモダニズムの外に身を置いていたまれな建築家だったと思われる。

 1983年夏、山野の家(1947年〜1958年)の取り壊しの話があった。約4,000坪のその大きな敷地に配されていた旧館、寮、田舎家はすでに姿を消して、今度は茶席が壊されるという。すでになくなられている施主、木下氏の長女・木暮和枝さんに案内していただき内部を見せていただいた。
 充実した瑞々しい内部、磨きあげた手斧でコツコツと仕上げた柱、梁、骨太ではあるが緻密な細部、厳しく選ばれた材料。訪れることの多かった外国人たちは、煉瓦の応接からゆっくりと室内空間を楽しみ、「流麗」(elegant)という言葉を残したそうである。
 その空間には、誰もが近代から現代を走り抜けることで空洞化してしまった大切なものであったと、あらためて感じられるようなものであった。すぐれた建築家のもとに確かな技術を持つ職人たちの手仕事がしっかりと集積された建築空間であった。
 大学での師、長谷川堯先生にどうしても見て欲しいとご足労頂いた。写真の記録だけでもと面識のなかった写真家の畑亮夫氏に相談した。ほこりにまみれた家を学生たちと一緒に掃除をしたりした。
 暑い夏の終わりに近づいた日、畑さんのレンズによって山野の家はその最後の姿をとどめることができた。それからまもなくして山野の家は跡形もなく消えた。それはあまりにも若すぎる建築の命だった。
 畑さんとの二人三脚が始まった。現存している主な住宅作品を記録していくことであった。それらの住宅はどれも様式というものにはあてはめることのできない独自のスタイルをもつものであった。明治という時代に生まれ、幼年時代から文学的感性と野性をあわせて身につけた人間の気骨、そして青春時代をイギリスという風土に十分に浸った人間の持ち味がのぞいていた。しかし、それ以上に、その経験の中から、日本を見る優しい視線を感じないわけにはいかなかった。とりわけ、伝統的町家や農村建築に対する謙虚な接し方をうかがうことができた。それは遠く山口県阿武郡の生家をとりまく環境への回帰もあるのかもしれないとも思われた。みるたびにあらためて圧倒され、はじめて触れた時と同じように心が揺れる建築であった。

 建築家高橋博は私の義父である。私にとって近くて、あまりに遠い建築家である。建築をしりぞいておよそ15年をこえた今でも、日常生活のしばしに建築家としての本筋を生きたというような自負が感じられる。
「建築をやめる前にせめて一つ小さなかわいらしいコテージをつくりたかった」
「自分の建築は一代限りのもの」
「風が吹いたら揺れるような建築がいいんだよ」 ……等とわずかな話の断片にも建築に対する深い含蓄がある。生まれ育った環境、学んだ世界、それら生きた時代のすべてが本格的であり、そのなかで個に徹して悠々と歩いてきた建築家は、自身の呟きのようにひそやかに建築の旋律を残した。
 この不思議な建築の旋律を聞きはじめてから10年が経った。
 この身勝手な建築の追跡は、じつに多くの人たちの手をわずらわせることになってしまった。とくに共同作業を進めてくれた写真家の畑亮夫氏、『住宅建築』編集長の立松久昌氏には適切な指導と多大な協力をいただいた。
 私にとって、心動かされる建築とはいえ、自分の無力さを知らされる建築でもあるわけであるが、今後もこれらの建築を静かに見つめていくつもりである。

すずききいち/建築家


忘れられた建築家(文/長谷川堯)

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