鈴木喜一建築計画工房
[増改築] File no.15

BACK/INDEXNEXT


高尾事務所

■所在地/東京都豊島区
■種別/改修(大正時代の民家)
■設計/鈴木喜一建築計画工房
   (担当・鈴木喜一、渡邉義孝)
■施工/佐藤工務店
■1995年竣工
■外壁/杉板竪張り 内壁/クロス 床/カーペット、フローリング
■掲載雑誌/『住宅建築』(1996年4月号)
株式会社高尾事務所

▲photo.by アトリエR

[Message]ヤモリからのあいさつ

 雑司ケ谷の家に住んでいたのは斉藤さんのおじさん一人だったとみんな言うけれど、実はぼくたちもずっと一緒に住んでいたんだ。ぼくたちはおじさんが好きだった。何といってもおじさんはオリジナルな人で味があったし、時代の流れにも頑固に反発していた。よくわからないけれど、生きることにテーマがあるという感じだった。世界は世界で勝手に回らせておけばいいさ、みたいなところがね。

 高尾さんはその斉藤のおじさんの甥にあたる人で、彼が若い頃、よくここで話をしていたよ。高尾さんがきちんと正座していたのがとても印象的だった。おじさんはあぐらをかいていて、ぼくたちも欄間のところで聞き耳をたてていた。おじさんは世界で起こっていることをなんでも知っている人だったから、高尾さんはそういう話をいっぱい聞きたかったみたいだね。でもおじさんは少し意地悪だから、高尾さんが気の効いた質問をしないと、おもしろい話をしないようだった。

 高尾さんはその後どこか遠いところに引っ越してしまったから、おじさんはかなり寂しそうだった。だからぼくたちはずっと一緒に住んでいたんだ。
 一昨年おじさんが亡くなって、この家がどうなるのか、ぼくたちはずっと心配していたけれど、高尾さんが戻ってきて「この家は壊したくない」って言ったのでほっと安心した、と同時に正直おどろいてしまった。こんなボロ家が直して使えるなんて思ってもいなかったから。しかも高尾さんはコンピューター関係のむずかしい仕事をしていて、ここをその新しい事務所にすると言うので、ちょっとアンバランスじゃないのかなとも。
 それからスズキキイチさんっていう建築家がやってきて、家をじっと見て、しばらく考えていたけれど、やってみようよ、と言ったので、高尾さんはとてもうれしかったみたい。

 工事が始まったのでぼくらは隣のボロ家に避難して進行具合を見ていたんだ。不思議にくすぐったい気持ちだったよ。だって丁寧に直してくれるんだから。サトウ棟梁や若い大工さんはとにかく一生懸命で、心を込めてボロ家と格闘していた。サトウさんは時々腕を組んで考えていたけれど、いつも「なあに、どっから手をつけようか考えているだけさ」って言うんだ。
 指揮するスズキさんはなかなか楽しい人で、遊び心もあって、古い欄間をもう一度使おうとか、床の間はそのままにしようとか、屋根を思い切って高くしようとか、自由な発想がポンポンと出てくるので建築家ってすごいなあと思ってしまった。それをワタナベさんがせっせと図面にしてきて、必要な人に配るんだ。彼は毎日オートバイで現場にきて、少しずつできあがるのを写真におさめて、ノートに何やらメモしていたよ。
 ぼくらが棲んでいた壁は、当然、剥がして新しくなるものだとばかり思っていたら、スズキさんは、この壁だけはどうしても保存する、と言ったので、またまたびっくりしてしまった。だって、ぼくらの壁の杉の板は、ところどころに穴があいているし、風化の度合いも激しくてぺらんぺらんに薄かったから。今度ばかりはスズキさんの考えはちょっと無謀だと思った。そりゃあ、ぼくらにとっては住み慣れたあの壁がいちばん落ち着くんだけれどね。高尾さんも少しびっくりしていたので、スズキさんは残したい理由を真剣に説明していた。「あの壁はただの古い壁というよりも、長い時間の流れがつくりだした一つの実体なんだ。絵のようなもの。風化したテクスチュアも、色合いも、枯れた蔦の跡も、細い路地の風景をつくっている不可欠の要素なんだな。屋根を含めて内外装がほとんど一新する中で、この壁を過去と未来の境界線上に浮かべてみたい。言ってみれば新しい時代と古い時代の水際。この壁はあらゆる夾雑物を受け入れる寛容性を持っていると思う。単なる皮一枚の看板じゃなくて、皮一枚なんだけれど大切な実体、根底にあって変化を担う持続的なものなんだよ」 高尾さんは、しばらく腕を組んで考えていて、
「キイチさん、この壁には昔からヤモリが棲んでいてね。新しくしたら彼らの居場所がなくなっちゃうなあ……、この家にはネズミもダニもいたけれど、ヤモリもいるんですよ。……そう、ぼくはあのヤモリってやつが好きでね。確かに、壁を新しくしたらヤモリは棲むところがなくなってしまうんだよなあ」
と言ったので、ぼくたちは手を叩いて喜んだ。自分たちが主役の壁なんて、けっこう得意なものだ。
 家は一方で解体されて、一方では組み立てられていったんだけれど、その途中でワタナベさんが古い柱の上部に貼ってあった竣工当時の新聞紙を発見したんだ。彼は「やっと会えたあ」といって興奮して声をあげた。その新聞の切れ端は大正11年6月のものだったらしい。この家は関東大震災にも敗戦の失意にも耐えたということになる、と彼はうなづいていた。
 この工事を通りがかって見ていく近所の人たちは「これほどのボロ家でも直して使えるんだねえ」って、こればかり、失礼しちゃうね。でも中には「ウチも建て替えではなく改造にしようかしら」というおばさんもいたからうれしかったね。

 という具合で我が家は元の古い板のまんまです。ぼくたちに会いたくなったら、ぜひ遊びに来て下さい。ではこの挨拶はこれでおしまい。元気でね。

 

 

[Photo]竣工写真 クリックすると大きな画像にリンクします 

左/南側外観
右/西側の路地。高尾事務所は最奥の下見板壁。路地の雰囲気は変わっていない。
下左/玄関。かつての欄間が活かされている。
下中/ロフトから見た事務室。
下右/事務室内部。中央に床の間が残る。

photo.by アトリエR

   

[Story]高尾事務所工事日記

1994年12月1日《この家は壊したくない》
雑司ケ谷に住んでいる友人のデザイナー高尾洋さんが、私の旅からの帰りを待ちかまえていたらしくアトリエにやってきた。
「喜一さん、長い間どこに行ってたんだよお」と口をとがらせて肩を叩く。
「トルコ、ブルガリア、マケドニア、ギリシアあたりをぐるっと……」
「ふーん、シャングリラの旅に迷ってたってわけ……、実は、この家を壊したくないんだけど……」
と言って彼が見せてくれた写真は相当に古い家であった。これを直してデザイン事務所に再生したいのだという。
「この家にはかつてぼくの伯父が住んでいたんだ。文芸関係の編集者でね。彼の晩年は精神的に非常に厳しい状況にあったんだ。家の中は本でぎっしり、バリーケードを構築していたという感じだったよ。そこで彼は死んでいった。その伯父にぼくは大きな影響を受けている。その彼の情念のようなものがあってね、壊したくないんだよこの家は、何とかならないかな……」

▲改修前の南側外観


1994年12月5日《アナログとデジタルの融合》
豊島区雑司ケ谷1丁目。設計スタッフの渡邉君と一緒に現場見学。
「大丈夫かなあ……」と心配そうな眼差しの高尾さん夫妻。12坪あまり、大正時代に建てられたというその平屋の家は、柱は傾き、床は抜け、天井は破れていて、文字どおり廃屋と言うのにふさわしい状況であった。しかし、よく見れば、ところどころに欄間の透かし彫りや、床の間のしっかりした地板、材料そのものもやや華奢だが、よく乾燥されていて狂いが少ないものだった。何とか残したいという施主のロマンチシズムがまるっきり的外れなものとも思えない。「やってみようよ。この建物で最新デジタルの創造活動をするってわけか。おもしろそうだね。伯父さんもきっと喜ぶと思うな。残すところは残す。壊すところは壊す。創るところは創る」
「どのくらいかかるかな?」
「必要なだけかかる、でも必要以上にはかからないよ。目安としては新築とほぼ同じだと考えておいて」
1995年1月27日《本当にコレやるの?》
「鈴木さん、本当にコレやるの?」
雑司ケ谷の現場に案内した佐藤清棟梁の第一声はこうだった。これを改造してコンピューターのデザインオフィスにするんだ、と私は計画案を広げて淡々と説明する。棟梁が驚くのは無理もない。厳しい顔をして家をじっと見ている。私も最初はこういう顔つきで周囲を見回していたのかもしれない。
「大丈夫かな、棟梁?」
「なあに、どっから手をつけようか考えていただけさ」


▲解体中

1995年2月21日《ヤモリの棲む壁》
屋根の形は大きくふくらませたが、細い路地に面した下見板の外壁だけは、どうしても残しておきたかった。年輪がくっきりとした押縁、ところどころに穴があいている杉の下見板、たくましい笹は遠慮なしに壁の内部にも侵入している。その風化した壁を、私は無謀にも保存したいと思ったのだ。高尾さんも少しびっくりしている。
その理由を私は彼に説明する。
「あの壁はただの古い壁というよりも、長い時間の流れがつくりだした一つの実体なんだ。絵のようなもの。風化したテクスチュアも、色合いも、枯れた蔦の跡も、細い路地の風景をつくっている不可欠の要素なんだな。屋根を含めて内外装がほとんど一新する中で、この壁を過去と未来の境界線上に浮かべてみたい。言ってみれば新しい時代と古い時代の水際。この壁はあらゆる夾雑物を受け入れる寛容性を持っていると思う。単なる皮一枚の看板じゃなくて、皮一枚なんだけれど大切な実体、根底にあって変化を担う持続的なものなんだよ」「看板建築じゃなくて、実体建築ってわけね」
「そう」
「喜一さん、この壁には昔からヤモリが棲んでいてね。新しくしたら彼らの居場所がなくなっちゃうなあ……、この家にはネズミもダニもいたけれど、ヤモリもいるんですよ。……そう、ぼくはあのヤモリってやつが好きでね。確かに、壁を新しくしたらヤモリは棲むところがなくなってしまうんだよなあ」


1995年3月4日《解体工事》
みぞれが降っている中で工事が始まった。一応設計図が出来ているものの、工事は蓋を開けてみなければわからない。まず解体工事である。
「いやあ、始まっちゃったね」と私。
「見てよ、鈴木さん。この柱もこの柱もこの柱も、みんな根元が腐ってるよ、こりゃあみんな根継ぎだ」
「もう漕ぎ出しちゃったから、行くしかないよね」
「いやあ、まだ船は引き返せる距離だよ」と棟梁は笑っている。
1995年3月6日《大正11年の竣工だった》
解体作業が進む中、渡邉君がアトリエに戻って来るなり「先生、やっと会えましたよ」と興奮している。解体現場の柱の上部に貼ってあった竣工当時の新聞紙を発見したらしい。丁寧に剥がしたその新聞の切れ端は大正11年6月のものだった。この家は関東大震災にも敗戦の失意にも耐えたのである。

1995年4月5日《上棟式》
棟梁が四隅にお神酒をかけ、そのお神酒を全員の杯に少しずつ注いでいく。春の上棟の宴となった。高尾さんの家族や事務所のスタッフ、工事関係者などを含めて15人。
「近所のおばさんがいてね」と高尾さんがみんなに話し始める。「通りがかって見ていくんだけれど、これほどのボロ家でも直して使えるんですねえって、失礼しちゃうね。ウチも建て替えではなく改造にしようかしらだって」
「やっぱりやる以上は、こんなにきれいになったんだねえっていわれるようにしたいよね。渡邉さん、ボロの時の写真もちゃんと撮っておいてよ」と棟梁。なごやかである。私は取り外してある古い透かし彫りの欄間のおさまり場所を考えている。

▲上棟


1995年5月8日《欄間の復活》
「先生、見ました? ロフトの手摺りの透かし彫りの欄間、スッゴクいいですね。新鮮だわ。とっておいて良かった」と奥さんが喜んでいる。
「玄関扉の上に付けた家紋の欄間も素敵だし、事務所に床の間があるっていうのも落ち着くわ」と続けている。
そう言われると私もうれしい。捨て難い細部の意匠をどう生かしていくかというのが、この仕事の大きなテーマだった。それは伯父さんを生かすことだとも私は思っていた。
1995年7月9日《竣工パーティー》
竣工パーティー席上の施主の言葉である。
「この家はかつて編集者の伯父が住んでいました。その伯父に私は大きな影響を受けました。この家はどうしても壊したくなかった。だから鈴木喜一さんにお願いしました。そして素晴らしい事務所に生まれ変わりました。この建物を実際につくってくれたのは佐藤棟梁でした。工事が進み、形が出来上がっていくのは楽しかったです。私は毎日現場を見ていました。見ていないようで、朝晩、暗くなった後でも必ず見ていました。親方と若い人の緊張感がとても良かった。本当によくやってくれました。感謝しています。私は最近仕事がハードで、疲労もピークという状態ですが、こういう時だからこそ、この木の落ち着いた感じ、アナログ的な雰囲気に包まれたこの事務所がありがたい。この建築の価値を身にしみて感じています」


問合せ
BACK/INDEXNEXT