VOL.7
China  Sketch by Kiichi Suzuki

中国・河北省承徳


《承徳の農村風景》
5月9日、19時26分スケッチ終了。子供たちが時々のぞきに来るのでチューインガムをあげようとしたのだが、はにかんで受け取ってくれない。畑には、まだ働いている農民がいる。火車の音が遠く聴こえる。
古い農家の壁は日干しの土レンガで、壁厚は30〜40センチ位はある。屋根は木造でタルキの上にコーリャンの茎を流して土をのせ、その上に藁を葺いている。居室の壁、天井には白い紙が貼ってあり、煮炊きするカマドの煙が寝床の床面を温めて外部の煙突とつながっている。寝床には網代に編んだアシのカーペットが敷かれている。
今、ようやく民家に点灯、承徳の農村の一日が終わろうとしている。

  《苅衛民からの手紙》
拝啓。だんだん暑くなってきましたがいかがお過ごしでしょうか。承徳はずっといい天気でいい気持です。
さて、あなたはもう日本に帰りましたけど、承徳で一緒に暮らしたのがいつまでも忘れられません。あなたもきっと私のようだと思っています。私たちは知り合った時間は短かったです。けれども長い間に知り合ったと感じさせました。私たちは友達になりました。私の友達が日本にいると思ったら、中国から日本までの距離が短くなると感じます。「海内存知己、天涯若眦 」(世界に知る人がおれば遠い所も隣のようです)という中国のことわざの通りです。
鈴木喜一は 衛喜だと思うと、もっと親しいです。中国の習慣によると、私たちは兄弟です。あなたは中国に来る機会が多くて、今年の秋にまた来られると思って楽しみです。あなたの欲しいあの歌のテープは、もう手にいれました。それから、あなたが欲しいといっていた避暑山荘の定期券はもう私の友達に頼みました。 それでは一層のご自愛お祈りいたします。ご家族の皆様にもどうかよろしくお伝え下さい。
                           1993年5月25号 苅衛民


《小■■茶館》住宅建築宛の葉書
この町に来てから5日目です。中国語はさっぱりわかりません。ショウピン(焼餅)を2枚買って、このなじみの小■■茶館でお茶をしながら朝食です。ショウピンは素朴な円筒形の釜の炭火で焼いていて、とてもおいしい。中にほんの少し密が入っています。この茶館は承徳の街角のポケットシャングリラといったところです。比較的年配の男たちがのんびりとカボチャの種をポリパリとかじりながらお茶を飲んでいます。鼻歌を歌っている人もいます。ここではみんな、なぜかひまわりではなく、カボチャです。

《自由市場》
承徳の自由市場(バザール)は、綿の木の白い実が風に吹かれて粉雪のようにひらひら舞っている。

  《星火雑技団》
星火雑技団のメンバーは全員で46人(男30女16)、それに馬2頭。全国各地巡業のテント生活である。星火はシンフォアと発音するらしい。演技中にすばやくクロッキーをしたので、その画面に雑技団のスタンプが欲しいと思い、楽屋裏を訪ね、あっというまに友達になってしまう。言葉は通じないので笑顔とスケッチと筆談であるが、気持ちは十分以上に伝わる。団長は明天上午10点(明日午前10時)、下午3点(午後3時)、晩8点の興行だから必ず見に来いと言い、最後に、再来不要銭と付け加えた。

偶然に偶然に偶然が重ねられて旅のストーリーは成立している。旅は未知なるものをたっぷりと含み、それゆえに偶然の恩恵に浴し、その偶然に救われて一日一日をたよりなく確実に生きのびていく。不安と危難と一対のそこはかとない非日常の魅力がぼくをいつも旅への衝動に駆り立てる。
……1993年陽春、天津港から北京経由で承徳(CHENDE)に入った。以後、上海、杭州、紹興と旅は続いていくのだが、ここでは北京の北東約250キロ、承徳での滞在11日間をふりかえることにする。

……美しい風景を見た。多くの人たちに出会った。すぐれた画家の静かなアトリエで素晴らしい絵を見た。密入りのおいしい焼餅(シャオピン)をほおばりながら街角のポケットシャングリラ(小■■茶館)に毎日通った。星火雑技団のメンバーとは大の仲良しになってしまい、このまま一緒に中国各地のドサ回りだ、という気分にもさせられてしまった。
ある雨の降る夕暮れ時、友人になった青年医師 衛民の自転車の後ろに乗せてもらって彼の長屋住まいの家庭を訪ね、おいしい食事をたっぷりごちそうになり、夜半まで尽きることなくおしゃべりをした。あれは実に楽しい夜だった。承徳医学院では医師たちを相手にぼくの特別授業(日本の民家と題してスライド約200枚を上映、このスライドは杭州の国立浙江美術学院で上映するつもりだったのだが……)、これは残念ながら十分に真意を伝えられなかった。専門領域の相違もあるが、それ以上に言語の壁はやはり厚く、心地良い敗北感を感じて苦笑いをしてしまうのだった。でも20人あまりの医師たちは実に辛抱強く見てくれたので頭の下がる思いであった。
熱河画院の実力のある書画家たちとの交流、承徳医学院要職の方々たちとの豪華な会食、夜の停電とそのたびに蝋燭を持って来るかわいい小姐、シャブシャブ屋で開かれたぼくの送別会の夜。こう指を折ってみても両手では納まらない承徳ストーリーの数々……、その中から今回は馮管子村(FENG YENG ZI CUN)を訪ねた日の記録を紹介してみよう。

1993年5月8日(土)、晴れ。
承徳賓館230号房。7時15分起床。シャワーを浴びて身支度を整え、今、約束の8時30分を回っているのだが、露店でのんきにラーメンを食べている。道路を隔てて医学院の門前では3人がぼくをいまだ遅しと待っている。
王海林、王海梅、苅衛民、すでに知己の友人のような気のする承徳医学院の先生たちである。今日は4人で自転車を走らせ、あてどないシャングリラへの旅というわけである。
リーダーは王海林、中医科医師37才、人体だけでなく電気関係のトラブルも簡単に直してしまう名医である。王海梅、語学教師27才、学生たちに慕われる若き女性教師、趣味は幅広く音楽を聴くこと。苅衛民、中医科医師27才、少林寺拳法で鍛えた足は空高く上がり、レンガなどは空手で軽く割ってしまうのである。
まず4人で活版印刷屋に行く。依頼していたぼくの名刺をみんなで校正する。幸いなことにみんな日本語がかなり出来るのであった。雑談をしながら自転車で承徳郊外へ。
9時38分、ラマ寺に行く前に農家をぶらっと見学。久し振りに豚を何匹も見た。ほとんどの豚は横になって寝転んでいたが、ぼくが熱心にのぞきこむと慌てて立ち上がりオロオロしてしまう。
農家の多くは中庭をはさんで豆腐をつくっている小屋を持っていた。その小屋をのぞきながら、ユバも出来ているので口に含んだりしてみる。家の主人たちは町の自由市場に荷台付き自転車でこの豆腐を売りに行くようだ。中庭にはポンプの井戸(深さ約10メートル)と地下のムロ(大地の冷蔵庫約3×3メートル)があり野菜や果物を貯蔵している。日当たりのいい場所には大きなカメがいくつか置いてあり、唐辛子、キャベツ、トマトの苗などが植えられている。そして必ず犬がいる。
ある農家の庭では、さっき見てのどかな気分になっていた豚君たちの、その仲間の豚の解体現場を見てしまった。見なれない光景である。真顔で見つめるぼくの肩甲骨あたりを後ろからグイと抑え、苅衛民はニヤニヤ笑いながら言う。「今、ここを解体しています」

ラマ寺を見学。どの仏像にも瞬間の動きとユーモアがあり見ていて飽きることがない。思わず話しかけてしまう。境内には松の大木ばかり、少林寺の 衛民は宙に舞って、その一本の松に迫心の蹴りを入れる。これは医師だけではなく映画俳優にも使える。
12時15分、昼食。小さな売店を占領してプーレ 酒、焼立てのシャオピン、ソーセージ、そら豆、南京豆などをぱくつく4人であった。
食後はリンムー(鈴木、つまりぼく)の好きそうなところを探し求めてサイクリング、承徳市を遠く離れて名もない村へ。選んだ場所は馮管子村。小さな美しい農村集落で、人々はみんなやさしく質素に日々を過ごしている。散歩をしてからぼくは村の民家でしばし昼寝をしたあと、小高い丘の上に腰を降ろしてスケッチを始める。セーターを脱いでちょうど気持ちの良い5月の陽光、風ものどかに流れてぼくのスケッチは進行していく。王海梅はぼくの2Bの鉛筆を一本貸してくれないかと言い、一緒に村の風景のスケッチを始めている。 苅衛民は木にもたれて海梅の持参したウォークマンを聴いている。王海林は静かに遠くを見ながら心の一部を天空とつなげているかのようだった。

 


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