森から住宅をつくる

民家研究その1「屋根のルーツ」

民家研究その2「土間」

民家研究その3「壁」

2001年8月建築塾
講義録より

民家研究その1「屋根のルーツ」

講師:安藤邦廣氏

1948年生まれ。九州芸術工科大学卒業。東京大学建築学科助手(内田研究室)を経て、現在筑波大学芸術学系教授。杉の四寸柱と板倉(落とし板)による構法を提唱し実践している。
主な活動・著作『茅葺きの民族学』(はる書房)
NPO 木の建築フォラム・季刊『NPO木の建築』編集長。


2001年8月の講座は、土〜日連続で茨城県で開催されました。講師の安藤氏の設計された茅葺きのそば屋・茲久庵(水府村)の見学の後、八郷町の安藤氏山荘でスライドレクチャーを行いました。



屋根の歴史は民家史である
 歴史的な流れを縦軸にして屋根の話をしてみます。
 屋根はもともと地域性が高い構造です。しかし、永く研究を続けているうちに、地域性から歴史的変遷に関心が移ってきたのです。歴史的な流れを踏まえなければ、実は地域性を見ることもできないんですね。
 これからの建築を考える上でも、歴史的変遷を下地にしなければ新しいものも見えてこない、ということは屋根に限らず言えることでしょう。

 今日は縄文時代に遡って、私の仮説を聞いていただきます。
 永く、屋根だけの建築が日本の住まいの基本でした。だから屋根の構造・空間・デザインが、日本の建築の原点になっている。それが現代の民家にまで受け継がれてきているわけですから、屋根を語ることは民家史を語ることにもなるのですね。

「縄文=茅葺き住居」の誤り
 考古学上の発見のおかげで、5000年前くらいまではいろいろとわかってきました。柱しか分からなかった建物の上屋なども判明してきています。
 三内丸山遺跡(青森県)と桜町遺跡(富山県)が、縄文の遺構として最近、重要な手かがりを提供しています。特に桜町では、5000年前の屋根の構造がそのまま出土するという衝撃的な事実がありました。垂木と小舞が屋根下地として泥の中から出てきたんですね。ススキの穂先もはっきりわかった。これまでは、土器の表面や鏡にかかれた文様などで推測するしかなかった屋根の姿を、具体的に実証する史料が出てきた。
 ところで、つい最近まで、縄文時代から茅葺きがあったということが常識になっていました。どこにいっても、柱穴から復元された縄文の住居では茅葺きで模型がつくられています。当然のようにね。
 しかし私は、縄文の住居を茅で葺くのは間違いだと思っていました。というのは、縄文は森の時代だった、茅は森には生えない、という理由です。
 「桜町遺跡で5000年前の茅葺きがみつかった」と報道された時、私の想像ははずれちゃったかなと思った。でもつい最近手紙が来まして、「年代測定の結果、屋根は1600年前であることがわかりました」とあった。木造の建物は5000年前だったが、屋根は5世紀位のものだった。それを聞いてほっとしましたね。やっぱり茅葺きが一般化するのは弥生時代以降だ、と思っています。

 では、何で屋根を葺いていたのか。
 「日本のポンペイ」と呼ばれる黒井峰遺跡(群馬県子持村)があります。榛名山の噴火で埋もれた、6世紀のものです。
 ここは竪穴住居で、炭化したものですが屋根の構造がはっきりと出てきた。下地の上に10センチくらいの茅が葺かれている。逆葺き【後述】です。その上に更に2寸〜3寸の厚さの土(粘土)が乗っているんです。茅を土で押えている。外から見たら土饅頭のような家ですね。雨は茅で防ぎ、その茅が風で飛ばされないように土が守る構造です。
 竪穴を掘ると残土が出るから、それを屋根に乗せる、という自然な作り方です。土で守られたシェルターのような感じで、安心できる住まいの形だったのでしょう。
 桜町の遺跡の時期とも近いです。つまり、6世紀頃、日本に渡来人がやって来て稲作を始めた。それ以前にも焼き畑という形で農耕はあったわけですが、この頃には半農半狩猟の庶民の住まいとして茅葺きがあった、ということはわかります。

夏の家と冬の家
 興味深いのは、黒井峰遺跡では二つの種類の家が発見されたことです。さきほどの「茅葺き+土乗せ」のタイプ、これは全体の2割程度だったようです。後の8割は平地式の住居でした。屋根も壁も純粋の茅葺きの小屋のような建物で、土は乗っていません。この二種が併存していた。
 これをどう解釈するか。定説はないですが、冬の家と夏の家ではなかったか、と考えられています。
 冬は土で塗りこめた気密性の優れた半地下の住居でこもって暮らしていた。夏は風通しのいい平地住居で暮らし、いろいろな作業もしていたのだろう。
 これは面白い説ですね。間宮林蔵の探検記に、ツングースやオロッコなどの北方民族の住まいの記録が克明に記されています。この中にやはり「夏の家と冬の家をもっている」と書かれているんです。冬の家は室(むろ)であり、夏の家はログのもの。
 寒暖の差が激しい日本では、北方系の人々のように夏冬で家を棲み分けていた、ということは十分に説得力がある話です。この北方文化の居住スタイルが、古代に関東地方まで浸透していた、と思っていいでしょう。関東ではその材料がススキや茅であった。

 縄文時代の家は、最近は茅葺きで復元することはなくなりました。遺跡や史料が次々とみつかったためです。
 だいたい木の皮で屋根を葺き、更に土を乗せる「土の家」が典型だということになってきました。
 実際に住んでみると非常に快適です。この家【注・八郷町の安藤邦廣氏の山荘】に入ったときどう感じましたか。私は夏でも、いつも締め切って帰ってしまう。しかし、一ヶ月後に来てもひんやりしてまったく涼しい。それは森で直射日光が当たらないことに加え、一階の半分が土間でできているからです。
 土の温度は15〜18度でほぼ一定です。だから夏涼しく、冬暖かい。井戸水と同じ原理ですね。だから地熱のおかげで、真冬でも10度以下に下がることはほとんどない。湿気を別にしたら極めて快適なんです。私自身、この家を土間にして本当にびっくりしました。縄文の人は、現代人とは違った智恵を持っていたんですね。
 森の中での生活では、茅よりも樹木の皮の方が入手しやすかった。板と違って道具なしで簡単に剥くことができる。耐久性も高く防水もでき面材になる、という安定した建築材料だったということです。直径30センチの樹から幅1mの面材がとれるんですから。これで屋根を葺くのがもっとも自然だった。

農耕の普及が風景を変えた
 やがて縄文後期になり農耕が始まると、焼き畑が一般化します。焼き畑をすると森林破壊が始まる。森林が破壊されたところにまず生えるのがススキなんです。ですから、焼き畑とススキとは一体のものです。こうしてだんだん茅葺きの材料が増えていく、という関係です。その過渡的な姿が、桜町遺跡で出た「下にクルミの皮、上に茅葺き」という二層構造といえましょう。それに土を乗せて押えるわけですね。
 つまり「森の破壊」と「農耕の開始」が重要であり、それにつれて屋根材も「木の皮」から「草」に変わっていく。風景も浮かびますね。森の中の住まいと、破壊された後の草原に立つ茅の家と。日本の神話にはクサナギノミコトがいますね。草や樹をなぎ倒すという言葉が、自然との関係を象徴しています。火を放つこともそうです。そういう中で、茅葺きが屋根として主流を占めてゆく過程が思い浮かびます。
 こうして草地という風景が日本のあちこちに出現します。
 日本の気候では、放っておくと草地になるわけではありません。植生としては、西日本では照葉樹林に、東日本では落葉の広葉樹林に遷移して安定してしまいますから。その間に何か、山火事や人為的な破壊があったら一時的に草原が出現する。それを維持しつづけて初めて「草原」の状態が続くわけですね。
 農耕の普及により、ある時期に人間は森を出て、草原で生活を営みはじめた。猿から人間になったみたいですね。ただ森がなくなることはない。薪や食料を供給する背後の里山として存在します。里山と草原が一体になって人間の生産活動を支えていた。

草原を維持するメリット
 では草原はどのくらいあったのか。
 昭和30年代までは、国土の11%が草原だった。これはものすごい量です。九州全体位ですよ。では田んぼの面積はどうかというと、たった10%なんです。日本の風景で田んぼがどこでも目に付くと思うでしょうが、たった10%です。草原はそれより多かった。日本人の生活の基盤は草原だったといってもいい。放っておいたら森に還ってしまう草原を、みんなが維持し続けた、それは必要だった、草原にしなければ生きていけなかったことを語っているんです。
 ところが今はこれが5%位に減っている。替わりに植えられたのが杉だったのです。それで国土の12%が杉林になった。

 ではなぜ草原を維持していたのでしょう。
 茅葺きのため?
 実はそれだけじゃない。肥料のためだったんです。農耕で大切なのはたい肥をつくることです。山からとった草を家畜の敷き藁等にして肥料にしたわけですが、その途中で一度屋根に葺いた。しばらく屋根として使ったものをまた下ろして肥料にしたのです。それが一貫した流れであった。草原―草―農耕―建築が、一体のものだった。風景は人間がつくったものであり、建築もまた人間がつくってきたものである、だから建築も風景も同じ根っこからできているということを知って欲しいですね。

受け継がれる「木の皮の文化」
 では、農耕・森林破壊・草原への定住という過程を経て、森の「木の皮の文化」はなくなったのか、というとそうではない。山間部に行くと今でも森の生活は生きています。京都の北山から奥に入ると林業地帯があり、そこでは家々の屋根は杉皮で葺かれています。まだ家業としては林業ですから森の生活を伝えているんですね。民家は近世以降の立派な造りに変わっていても、屋根を何でつくるかという点では非常に古い歴史を引きずっている。だから屋根を見ればその地域の風景がわかる、屋根にこそ風景が反映されている、屋根が風景そのものである、ということなのです。
 ここでは今も数寄屋の屋根材として杉皮が生産されています。杉を切り倒してから、一ヶ所から切れ目を入れ、きれいに剥いでいきます。ツルッと剥けるんです。服を脱いで肌が見えたように、本当に美しい。これをきれいにのして使うのです。皮の剥ける時期は短く、水分を吸い始めて、しかし虫がつき始める前、春先だけだそうです。秋になると水分が減り、もう皮は簡単には剥がれない。
 こうした技術は何も数寄屋建築ができたから発達したのではなく、「森の生活」の時代からの伝統、それに裏付けられたひとつの形なのだと思います。
 茨城の県北にも杉皮葺きの民家があります。それも、山地の文化として、日本の縄文以来の狩猟採集の古い生活の営みをずっと受け継いだ形を、現代的に受け継いでいる、ということでしょう。数寄屋には杉皮は使うが、檜皮(ひわだ)は使わない。数寄屋は室町時代以降ですから、このあたりから杉の時代になったといえるかもしれません。
 一方、檜の皮は剥き方が違います。
 檜は檜皮葺きの原料になりますが、社寺仏閣にしか使いません。しかし檜皮の技術は外来ではない。そもそも中国の寺は磚(せん=瓦)葺きですから檜皮ではなかった。
 思うに、当初から日本には檜の皮を使う土着の技術があったところに仏教が伝えられた、それが一緒になって仏教建築が確立されていった、という流れでしょう。檜皮は木を切り倒さずに、立ち木から剥くのです。十年に一度剥きます。再生産という観点からはこれが一番いいわけですね。杉皮は一度きりですから。

 ロープ一本でよじ登り檜皮を剥く「原皮師(もとかわし)」は日本に数人しか残っていないそうです。杉と違って、形成層がある薄皮一枚を残して剥くんです。それが取られると木は死んでしまうからです。
 そのおかげで十年後にまた皮を使える。実は最初に剥く皮よりも、十年目に剥き直す皮の方が上等なんですよね。まさに循環型、これぞ縄文人の智恵というべきでしょう。
 白山の近くの山間部では、栗の板で葺いた屋根も見られます。栗や椹(さわら)は耐久性が高く割裂性がいい、つまり割りやすい。これなども森の暮らしを感じさせますね。栗は北陸で、椹は信州などで見られます。よく板葺きの上に石を乗せますね。そうした技術は、限られた地方だけれども、現代まで受け継がれているわけです。更に棟には栗の巨木をどんと置いています。
 山地の文化は平地の文化に侵食されて衰退していきますが、細々とであっても信州や白山麓に焼き畑をする習慣とともについ最近まで残っていた、その家々が、茅葺きよりももっと以前の土着の屋根の形を「森の生活の末裔」として現代に伝えていた、ということです。

▲桧の皮を剥ぐ原皮師

文化の重層性を屋根に見る
 諏訪盆地には石置き屋根が見られます。諏訪は御柱祭りなど、縄文的色彩の強い地域ですね。また、農耕の平地文化と山地の文化とがせめぎ合っている興味深いエリアでもあります。「樺葺き」は白樺の皮を葺いたもので、それが飛ばされないようにぎっしりと石が乗っている。これも、草こそ生えていないけれど、縄文の屋根を受け継いでいるといえるのではないか。一方、母屋には、当時の最先端の技術であった茅葺きを導入する。新しい技術を取り入れながらも、しかし一部には縄文的なスタイルを残す、重ねていく、重層する構造なんですね。
 樺葺きはユーラシア大陸から北欧にかけて、最も普遍的な屋根です。デンマーク・ノルウェー・シベリアに至る北方の森林文化の流れです。それがオホーツク海から北海道、関東・信州まで到達しているんです。だから信州あたりが北方系文化の南限と言えるでしょう。こうした長い歴史を、屋根は色濃く反映しているんですね。
 板葺きと茅葺きが混在する信州では、大きくは「板葺き→茅葺き」の流れの途上にある、という側面と、日常の機能によって使い分けるという側面があるのでしょう。やはり茅葺きが定着したのは、弥生時代に入り、稲作が日本人の主たる生業になってから。それが日本の風景となった。この風景を支えていたのは稲作農耕だったのです。

生産サイクルから見た茅葺き屋根
 では、「縄文的な」板葺きの時代から、「弥生的な」茅葺きの時代に話を進めましょう。
 五箇山の合掌造りの民家は有名ですが、これは養蚕のために特化した形で、近世以降に確立されたものです。それ以前は焼き畑が主だった。
 この地域の茅場を見てきました。焼き畑は急斜面が有利です。ばっと燃え広がって畑をつくり、いろいろな穀物をつくり、土地が痩せてくると最後にソバをつくり、ついに放置されると茅が生えてくる。その茅を肥料に使ったり屋根に葺いたりする。更に放置すると森に還ります。
 焼き畑に適した急斜面の奥地に茅場が残っているのは、こういう理由からです。茅を刈って担いで降りるという作業は、だから絶対に必要なことだった。この茅を刈ることによって田んぼができ、家も守られるんです。毎年十日間のこの作業で、人々は生きていけたんです。
 茅はいろんな働きをします。
 秋に刈ってきた茅は、まず冬の雪囲いとして四周に立て掛けられて民家を守る。春になったら屋根に葺かれ、その時降ろされる古い茅は、更に肥料となる。家畜の敷き藁にもなる。そういう生活のサイクルの中に位置づけられていた。
 ここで、日本の茅が厚く葺かれている理由がわかるのです。民家の屋根は60〜90センチはありますね。
 イギリス人の屋根屋さんが日本に来てビックリした。「日本の茅葺き屋根はなぜあんなに厚いのか」と。「イギリスでは30センチ以上に葺くことはない。それで防水も断熱性も問題ない。日本の方が暖かいのに」。
 その答えは「日本の屋根は農耕の一環だから」ということです。イギリスの茅葺き屋根の材料は小麦藁です。また放牧では家畜の糞などがそのまま肥料になるので、この小麦藁を肥料にすることはあまりない。また毎年、上から新しい藁を葺くだけで、古い藁を降ろすこともしないという。
 日本の屋根は、屋根そのものが肥料のかたまりだった。屋根が厚く大きいということは、それだけ肥料を所有しているということだった。これは農民にとって決定的です。豊かな農耕のシンボルだったんですね。これでイギリス人も納得してくれました。
 ではなぜ今、茅葺きが滅びつつあるのか。
 簡単なことです。農業を止めたからです。農耕のサイクルが途切れた以上、こんなに厚く無駄の多い屋根を維持することは合理的ではなくなったんです。だから現代に、この屋根の形だけを再生するというのは意味がない。もし茅を使うならもっと薄い屋根であるべきだし、違った形になるでしょう。

冬の家を捨てた日本人
 「屋根も壁も茅葺き」という形では、アイヌのチセがあります。茅葺きの屋根と、煙を充満することで、天空の放射による寒さを防いでいた。囲炉裏そのものは決して暖かいものではありません。煙が大切なんです。
 古代には2種の家があったのに、日本人はいつの時代からか、冬の家を捨てて夏の家だけに住むようになった、と私は考えます。
 まず北方の民族が縄文文化をつくった。東北・中部に拠点があり、人口も多かった。森の生産性は、東日本の広葉樹の森の方が高いですね、大型の動物もいますし。その頃は夏冬で住み分けていた。そして冬の家がメインだった。
 それが、何かの理由で危機に直面し、農耕を受け入れた。気候変動かもしれません。鹿児島の錦江湾が縄文時代に爆発し、とても寒い夏があって人がたくさん死んだようですし。
 そして冬の家を捨てた。
 そこに入ってきた稲作農耕は、江南(揚子江の南)や雲南省を起源とする、文字通りの南方系文化ですね。あたたかいところの文化を受け入れた時に、まあ、やせ我慢をしたんでしょうね、夏の家をメインにした。
 吉田兼好が鎌倉時代に「夏を旨とすべし」と言っています。これはおそらく、「稲作文化総体を受け入れる」という考えがあったのではないかと思うんです。
 住まいを夏向きにするか、冬向きにするか、選択肢は二つある。どちらでなければならないということはない。文化の問題です。それはまず食料の問題。森に糧を求めた縄文では北方の文化であり、農耕に変わったら夏を旨とすべしという南方の文化、という具合に。以降、日本では通気性優先の家が主流になっていった。
 さきほどのアイヌのチセも、沖縄の笹葺きの家も、通気性という点ではよく似ています。すみずみまで行き渡ったのでしょうね。
 ただ森林が破壊されて木が無くなったために、関西を中心に土壁が普及する時期が室町期にあったことも事実ですが。

 現代、日本人は再び冬の家をつくり始めた。「高断熱・高気密」のことですね。
 北海道から始まり、今や関西まで「高断熱・高気密」です。シックハウスになってまで、それがいいとみんな思っている。欧米の文化をただ受け入れたからではないですか。日本は或る方向に行くと、みんな一斉に流れていく傾向がありますからね。

茅葺き屋根の普遍性
 茅葺きには普遍性があります。茅をオシボコで押えて縄で縫う。これが基本です。
 縄とは何か。藁です。
 茅葺きは茅を使うとともに、同量くらいたくさんの藁を使うことを知っていますか。今日も現場で見てもらいましたが、合掌(扠首)、垂木、小舞の竹を結んでいるのは全部藁です。釘はまったく使っていない。そして茅を押えるのも藁。だから藁が無ければ茅は葺けないんですよ。
 茅葺きがこれほど普及したのは、藁という材料が安かったからなんです。藁は農耕の副産物。このことを見ても、屋根というものが、いかに人々の生産システムと一体のものであったかがわかるんです。
 こうして弥生時代に、稲作農耕と一体のものとして夏型の茅葺きの民家が導入され、約千年かけて普及していく。その際に各所で土着の屋根と交じり合います。そこで地域独自の屋根を生んでいく。ここが建築のダイナミックな面白さです。
 茅葺きの穂先の向きについて簡単に触れます。
 日本以外の東南アジアや欧州では穂先を下に向ける「逆(さか)葺き」です。穂先は圧迫されると茎より細くなるから、上の方が嵩が増え、勾配がきつくなる傾向がある。すると排水しやすくなり、薄く葺いても雨が漏らない。
 日本では穂先を上に向ける「真(ま)葺き」で、つまり根元が外に向く。そのままでは雨が漏りやすいから、裏に枕となるノベガヤを入れて「起こす」必要がでてくる、すると当然厚葺きになってくる。
 要するに逆葺きは簡単で薄くすむ、真葺きでは雨仕舞いは不利だが技術があれば厚く美しく葺け、茎が外に面するから耐久性が高い。実は日本でも万葉集の頃は逆葺きだったようです。それが真葺きに変わっていった。おそらく肥料の保管のために厚く葺いたのと、耐久力のためでしょうね。

農耕化の象徴としての藁葺き
 茅葺きの文化は、まだ裏に里山がある、そういう風景のなかで成立していました。
 朝鮮半島は農耕が早く進み、人口も多かったため、焼き畑を始めたのも早かったんです。農耕が進むと、果樹園などが広がり、土地利用が進んだ。そのため茅場もなくなる、茅がなくなると屋根材として藁を使うようになります。農耕が進み茅場がなくなると、屋根を葺く材料は畑でとれる穀物の材料以外にはないという最後の局面に達します。
 藁葺きは農耕化の最後の姿なのです。藁葺きの屋根があるということは、その土地が完全に農耕化されたという象徴です。朝鮮半島がその姿です。日本でいうと、関西では奈良盆地、河内平野、関東では埼玉、群馬、栃木などが明治以降藁葺きに変わっていきました。
 穀物の中でも、韓国では小麦は使わず、稲藁を逆葺きに葺いた丸い屋根となっています。韓国の農家の屋根には、土をのせる文化がずっと残っていて、土の上に藁を葺き雨仕舞いをしています。しかし断熱性など屋根の基本は土なんです。農耕化したあとも、やはり土を使って古い形を残しているといえます。日本は完全に草だけに変わっています。ここが韓国と日本の文化の違いで、日本は何かのシステムを受け入れると一辺倒になりやすい。
 韓国では冬の家と夏の家を今でも持っていて、オンドルが冬の家でマルが夏の家ですね。日本は冬の家を捨ててしまったということが、屋根からも分かります。
 韓国や台湾の屋根は逆葺きで丸くなっています。毎年秋に収穫を感謝することと、家を守るという意味で、取れた稲藁で葺き替えます。日本の屋根はそうではない。厚く真葺きにして、何十年か耐えられるようになっています。北方の文化が入っていることも関係しているのでしょう。唯一つ他と異なっている屋根は、奈良盆地にある屋根です。小麦藁で葺かれ、毎年葺き変えています。藁を毎年屋根に捧げるという、ある種の儀礼的な意味と韓国の屋根文化とがこの地域で融合したように思えます。
 ナラという地名はハングルで「国」という意味です。渡来してきた朝鮮の人が、自分の国をつくるという意味を込めてつけたのでしょう。新しい土地の文化を受け入れながら、それに自分たちの持っていた文化を重ねることで、新しいスタイルができたという一例です。

屋根の地域性
 棟は屋根の顔です。屋根の地域的なバリエーションは棟に現れます。この様々な形は日本の気候風土が多様であったことを示しています。また、それと同時に、地域の文化、地域の生業、つまりどういう生活がそこで営まれていたかを反映している。そのことを少し読み解いていきたいと思います。
 大きく分類すると日本の茅葺き屋根の棟の形状は6つに分かれます。それらは更に2グループに分けることができます。
 まず、何かを棟に置いて、その重さで棟を押さえているもの。置千木(おきちぎ)、芝棟、瓦巻がその形です。
 もうひとつは何かで縫って棟を押さえるもので、笄(こうがい)棟、針目覆(はりめおおい)、竹簀巻(たけすまき)がそれです。それぞれは、置くものが違う、あるいは縫い方が違うのです。
 笄棟は、昔花魁(おいらん)が使っていた笄というヘアピンのようなものを、棟を中心線にして両側から屋根に差し、それに縄を巻いて棟を押さえる形です。雨が漏らないように笄は屋根の横に斜め上向きにして差します。針目覆は、縫い目(針目)のところを竹で包んだ茅束で覆った形です。竹簀巻は、竹の簀子で棟を巻いたものです。
 次に、何かを置いて棟を押さえる方法で、一番新しいのは瓦で押さえる瓦巻です。古くは、クロスした部材(千木)を置いて押さえる置千木と、土を置いて芝等を生やした芝棟があったと思います。
 ここで分布をみてみると、非常にはっきりと分布を示す二つがあります。
 一つは針目覆で、見事に西日本にしかない。だからこれは西の文化なのです。芝棟は東北日本にしかない。この二つはちょうど日本を関ヶ原のあたりで二つに分けて分布している。私はこれをみると、それぞれは北方の文化、南方の文化の影響を受けていると考えてしまいます。
 笄棟は能登半島から白川郷にかけてと沖縄、鹿児島等の南方にしかないんです。この離れた地域に同じ分布があるということは、いろんな可能性があり、民族、歴史について考える場合には重要な意味を持っています。
 置千木は分布でみると、実は山地にしかない。つまり山の文化といえます。分布だけみてこのようなことをいうのは飛躍に過ぎないが、今はその他の諸条件から考えた結果だけを述べています。そういった仮説を踏まえてこのあとの話を聞いてほしいのです。
 竹簀巻は竹のない地域には分布していない。竹の山地で発達したものと考えられ、関東から甲南地域に多いんです。

▲棟納めの分類

▲笄棟の拡大図

結(ゆい)の屋根/笄棟
 次に棟の仕舞い方のパターンを見て、どのような技術があるかみてみましょう。
 初めに笄棟、これは古い形といえるでしょう。棟の構造が簡単であるということ、屋根の中の構造と一体化されていないため、簡単に取り外しができることが理由です。
 棟を押さえる縄のない与那国島のような地域は、栗の枝や藤ツルで縛ります。鹿児島の笄棟は縄で縛り、縄だけを毎年交換していました。 沖縄では台風でも棟が飛ばないように棕梠(しゅろ)縄などの丈夫な縄で縛っていました。沖縄では更に頂部を網代で覆っています。それぞれ味わいは違いますが原理は一緒です。なぜ、北陸と南方とに同じ形の棟仕舞いがあるのかと考えても、気候などに共通点はなく、説明ができない。
 ひとつの手がかりとしては、白川郷にも沖縄にも、職人がいなかったという点が共通しています。
 つまり「結(ゆい)」なんです。自分たちでできる技術であったということが一番大事な要因で、簡単な構造であったということです。笄棟は職人によって専門化される以前の屋根の形であると考えると、この分布も説明できるのではないでしょうか。他の地方の平地の農村では、屋根職人が早くから出現していた。そしてどんどん高度で専門的な技法に変わっていった。しかし沖縄と北陸では職人が生まれずいつまでも自分たち自身で屋根を維持しつづけた。だから簡単な笄棟が残されていたのだ、と。
 古い屋根に笄が必ずあるという証拠に、伊勢神宮の屋根もよく見ると、北陸や沖縄の屋根に似ています。鰹魚木(かつおぎ:棟上に水平に並べられた断面円形の短材)の下に木の串が差さっている。これも私は笄ではないかと考えています。鰹魚木も、白川郷の棟の上に乗せられた茅束にも似ています。きれいに洗練されてはいるけれども、形としては笄棟といえるかもしれません。土器などに描かれた家の絵も、本当にあったものを象徴化して描かれていると考えられます。そこには笄のようなもの、網代のようなものがはっきりと見て取れます。

縄文の形・置千木と 茅の彫刻・針目覆
 置千木は山地の文化だといいました。
 平地から山地に茅葺き屋根が伝わる時に、板で屋根を葺き、千木で押さえていた縄文時代以来の流れを、棟の部分にだけ残した形といえるでしょう。つまり農村の茅葺き屋根が山地に入って、土着の屋根を棟に残した山地の文化とみることができます。
 平地の屋根としての象徴は、針目覆でしょう。
 これは、全て茅だけで葺いた屋根です。木を使わず、茅を葺いて竹で押さえ縄で縛る。これが、茅葺きの最も純粋な形です。針目覆は茅葺き屋根の最も純化した形だといえるでしょう。針目の最後だけはへの字型のフタをしなければならず、それが非常に難しい。縫い付ける技術の完成された形が針目覆だといえます。
 針目覆には様々な形があり、地域的な特性を示しています。遠くから見ても目立ち、美しいことから、「茅の彫刻」ともいわれています。茅を使った技術の最高峰といえるでしょう。針目や縄は頻繁に取り換えなければならない。つまりたくさんの茅や縄、竹が必要でした。
 なぜ農村の裏山に竹やぶがあるかというと、建築にたくさん竹が必要であったからです。つまり里山(裏山)の風景が建築をつくっていたのです。段々畑、田、竹やぶ、雑木林、てっぺんに茅場がある、これが里山で、日本の農村の風景をつくっている。そして里山をもった日本の農村の風景を象徴するのは針目覆だといえるでしょう。両極端にいえば平地の屋根が針目覆で、山地の屋根が置千木であるということです。

屋根に見る文化の融合
 杉皮葺きでありながら茅葺きと同じような急勾配をつけた屋根を九州でみつけました。茅葺き屋根は農耕のシンボルで、そのような屋根を作りたいわけですね。しかし、この屋根を見つけた地域は杉の産地でした。山の文化を基盤としているところに、わずかな段々畑で米をつくっていました。その地域的な背景が屋根に映し出されているんですね。よく見ると、三分の二が茅で葺かれ、その上に杉皮を葺いている。これは考えてみると合理的で、茅が断熱材となり、杉皮が防水層となっているんですね。非常に優れた、考えられた屋根だといえるでしょう。
 その棟をみると、明らかに置千木と針目覆の混合なんです。これは置千木のところで述べた仮説を裏付けていると思います。山の文化の置千木が基本で、その間に杉皮で茅束を包んだものを置いている。おそらく、平地文化の針目覆と茅葺きの形をなんとか手に入れたいという想いがあったのでしょう。しかし、材料や技術は自分たちの持っている固有なものを残したい。そして、平地の茅の文化と山地の杉皮の文化が交じり合い、非常に不思議な形が出来上がったのでしょう。文化の融合が起きたんですね。このような例をみると、屋根の持つ象徴性というものが際立ってくるのです。
 芝棟は分布からみると明らかに、北方文化です。南限は山梨県、富士山麓です。これは、縄文の文化(北方の文化)と農耕の文化が融合したものです。芝が根づけばメンテナンスもいらない、素晴らしい技術です。しかし今の感覚からいうと、茅の上に土を置くというのは不思議ですね。土を置く文化があったところに茅葺きの文化が重なった、というふうに考えたほうが自然ではないでしょうか。岩手県や青森県にはきれいな芝棟がたくさん残っていて、多くはユリ科の植物が植えられています。さながら空中庭園のようです。
 芝棟は日本の古い屋根の形を今日に伝えているんです。
 農耕化は人口の増加や気候の変動により避けられない現象でした。縄文の暮らしを捨てて、新しい農耕の文化を受け入れるしかなかったのです。農耕化の象徴が茅葺き屋根です。しかし、自分たちが持っていた固有の文化を守りたかった。芝棟はその決意の現れなのです。現在もこの屋根が根強く残っているのは、近畿や北九州を中心とする渡来文化に対しての、土着文化の抵抗、プライドのようなものではないかと私は思います。覆われてもなお、その下にもぐってやまない脈々と流れる土着文化の現れではないでしょうか。

 北欧の農家には、ログハウスの上に芝屋根、という文化があります。それが南下してたどり着いたのが、箱根の山だったのではないでしょうか。昔の箱根の宿場町は全部芝屋根でした。やはり北方の文化の南限は箱根の山で、南の文化の北限は能登半島なのです。能登半島からアルプスにかけて、あるいは関ヶ原にかけて、東西南北の文化の境目となっているのです。関ヶ原の戦いではありませんが、屋根の文化をみても何かそこには気候の境目、植生の境目があるのでしょう。そしてそれが、文化の境目をつくっているんです。
 最近芝屋根が注目されているようです。芝屋根は冬を旨とした家の形で、私は冬の家を見直す流れが起きているのだと思います。その流れの中で芝屋根が復活してきているのではないかと……。
 私は高気密高断熱の家が良いとは思っていない。日本の夏はそういうものを良しとしないはずなんですけれど、稲作の時代に過度に夏向きにしすぎた弊害もあるのでしょう。日本には冬の家があったというとをもう一度考えて、夏を旨とした我々の文化を再編していくべきでしょう。屋根の文化をみてもそういった流れがあるように思います。【了】

 

民家研究その1「屋根のルーツ」

民家研究その2「土間」

民家研究その3「壁」

戻る