森から住宅をつくる

民家研究その1「屋根のルーツ」

民家研究その2「土間」

民家研究その3「壁」

2003年9月神楽坂建築塾
講義録より

民家研究その3「壁」

講師:安藤邦廣氏

1948年生まれ。九州芸術工科大学卒業。東京大学建築学科助手(内田研究室)を経て、現在筑波大学芸術学系教授。杉の四寸柱と板倉(落とし板)による構法を提唱し実践している。
主な活動・著作『茅葺きの民族学』(はる書房)
NPO 木の建築フォラム・季刊『NPO木の建築』編集長。


神楽坂建築塾では、2001年、2002年と筑波大学教授の安藤邦廣氏を講師に、「民家研究」と題してお話いただいています。第3回目となる今年は「壁」をテーマに、民家の壁が草のシェルターから木へ、そして土へと変化する経過とその原因を、各時代背景から考察いただき、現代の壁を考える発想のヒント等をお話いただきました。



「壁」研究へのアプローチ
 民家の構法や歴史について昨年、一昨年とお話してきましたが、今年は壁というテーマでお話したいと思います。来年は「窓」でやって終りにしたいと思います。
 私は民家研究を25年やってきました。
若いと思っていたのが、もう定年を迎える年となって、なにかライフワークとしてまとめたいと思っています。やはり研究のけじめとして、大学にいる残りの10年間で民家構法の研究を「屋根」「壁」「窓」の三部でまとめたいと思っています。ここで行っている講義は、その草案というかスケッチをするような意味もあってたいへん良い機会だと思います。私の新しい視点としては、古い物から辿るというのではなく現代的な視点で少し遡ってみるということです。それは建築的な作る立場での視点です。それともう一つは、日本の民家というのも北方系、南方系という視点で研究されてきているというのが重要です。やはりそのような視点をもって日本の民家の構法や暮らしを見ていかないとなかなか理解が難しいです。日本文化も一つの国だけでなく、多様な文化が何層も積み重なって出来てきたというのが民家を見るうえでも重要な視点だと思っています。この二つの視点を持って、民家の構法や歴史についてまとめていきたいと思います。
 当初屋根について研究を展開していたのですが、今学生と共に一番力を入れているのは「壁」です。それはやはり自分が設計していて壁の問題が今の日本の住宅では最も重要だと感じるからですね。どんな材料を使ったらいいのかというと、今はまだ見つかっていないと思っています。合板やラスボード、断熱材で作った壁が恐らく問題となっていて、その代案がないということがその一つの理由です。これは重要な課題で、研究を急がなければと考えていて、その答えを探すために、歴史的に使用されてきた壁を点検する作業を行っています。また壁を考えるという時、都市を考えるというのはやはり重要だと思いますね。都市に住むということと、壁の成立との関係はとても強いので、合わせて考えていかねばなりません。みなさんも中国の安徽省に行かれた方がいると思いますが、日本と同じ様に高温多湿な気候ですが、閉じた民家なんですよね。なぜ閉じているのかということを考えながら今日の話を聞いて頂きたいと思います。
 日本の壁は始めは「草」そして「板」、「土」と変遷してきているのですが、この三つの素材がどういう社会的背景で選ばれてそしてなぜ衰退していったのかということについてお話したいと思います。その中から現代の「壁」を発想する源泉が得られるのではないかと僕は思っています。ということで、縄文時代から明治・大正・昭和まで一万年の歴史を大ざっぱですが説明して、私なりに考えることをお話したいと思います。

 

変わる「縄文」のイメージ
 縄文時代の竪穴住宅というのは復原が進んで、いろんなことが分かってきましたし、稲作もこれまでの推測よりも500年以上さかのぼる、3000年前から行われていたと最近報道されました。縄文時代は、狩猟採取の素朴な生活ではなく、焼畑のような農耕が既に始まっていたということです。壁の始まりの「草」と農耕というのは非常に関係が深く、草を得る=森をでるということです。高温多湿な気候のため鬱蒼とした日本の森には光が射しませんから、自然には草は生えないのです。
 縄文時代の住居はこれまで草で復原されていましたが、良く考えてみると森で暮らす人がなぜ草で住居をつくるのかとても疑問ですよね。僕も、縄文時代の家を厚い草で復原したものは嘘だと思っていました。弥生時代以降に農耕が主流になって、田畑から得られる藁や森を刈りはらったあとに生える茅、ススキを原料にしていたと考えていました。藁にしても茅にしても森林破壊の後の2次植生なのですから、森林を焼きはらわないと大量の草は取れないんです。人間が森林を切り開いて農耕を始めたことと、茅のシェルターというのは同じ時代を意味しています。縄文時代が狩猟採集だけであるなら、木の皮とか木を割ったものや土でできていたはずですからね。

夏の家 冬の家
 近年発掘されて注目されている縄文住居として、富山県の桜町遺跡【※1】で、5000年前の民家が樹皮葺きに土を載せた屋根と土の壁で復元されています。続いて、炭化したためにほぼ正確な復原が出来たという群馬県の黒井峰遺跡【※2】は6世紀頃のもので、茅葺き屋根に土を載せています。農耕もそのころは一般的になっていたでしょうから、茅で葺き、それを風や火から守るため、あるいは気密と断熱するために土で覆っていたのでしょう。また雨じまいは茅でとって、土で補っていたのです。
 ここでおもしろいのはイロリではなくカマドがあることで、カマドは暖房装置であり調理器であり、煙突から煙をだす気密住宅を意味しています。現在とは材料は全く違い、通気も今よりあるでしょうが現代の住宅と似た暖房と気密性を持ったものです。

この黒井峰遺跡にはもう一つ別のタイプの住居遺跡があったのです。茅の屋根と茅の壁でできた平地住宅が出てきたのです。竪穴住宅と平地住宅が併存して、量的には平地住宅が多かった。報告書では竪穴住宅は冬の家、平地住宅は夏の家と説明してあります。夏の家はいろりがある以上気密が低いという構造ですから、断熱・気密が優れた竪穴の土の家とは全く性格が違うんです。報告書では夏と冬で棲み分けていた、また歴史的に見ると竪穴のほうが古く、これはその過渡期ではないかと推定されています。私もその推定には賛成です、というのは縄文時代というのは北方の文化が南下している時代ですから、北方の文化が温暖な日本にきて変容していく、それが縄文の文化なのですね。

南下してくる大きな理由は寒冷化により草原だったシベリアが氷河と化し、縄文人は陸続きとなった樺太、北海道、本州と適地を求めて移動したことです。その後地球は急速に温暖化が始まり、日本は再び孤島となり、北方へは帰れなくなった縄文人が日本に定着するために新しい技術を見付け出したのではないかと私は考えています。その形が夏の家と冬の家だったのではないかと。

ではなぜ冬の家に住み続けないか、僕は日本の高温多湿な気候のためではないかと思いますよ。縄文人にとって梅雨がある日本の気候は非常に堪え難いものだったと思います。梅雨前線の北上の限界が日本の文化の切れ目ですよ。今は青森辺りですが北海道までいった時代もあって、その北上と南下の変動によって北や南の文化が日本に合流していくわけです。

しかし実は夏の家と冬の家の伝統をもともと縄文人は持っていたということも分かっています。間宮林蔵が北方を探検し、そこに住む少数民族にはいろんな住み方があり、土のムロにこもる冬の家、通気性の良い校倉の夏の家を使い分けていたと書いてある。その中でおもしろいのが、壁や屋根に土がべったり塗られら、その下から校倉が見えているものです。説明を読むと、どうやらこれは春に溶ける雪とともに土が落ちた状態のようだと分かります。これは冬ごもりをするために土をべったり塗り、春には雪とともに土が落ち木だけの家になるというものです。この場合の暖房はカマドで、外壁側の内部の壁の廻りにぐるりとベッドのようなものが配置されていてその下をカマドの廃熱が廻って暖房として利用しているのですね。韓国のオンドル、満州のカン、ロシアのペチカに良く似ていますね。調理器の熱を最大限活用することと、気密性を上げるために土で塗りこめることとはセットで、いずれの暖房装置にも共通しています。こうしてみると先程の黒井峯遺跡の冬ごもりのかたちは、これらと同じだとわかります。このように二つの家を持つという北方の暮らしかたが日本にも及んでいたということが言えると思います。

▲【※1】 桜町遺跡(さくらまちいせき 富山県小矢部市桜町)……桜町遺跡は、1988年に、行った調査により、今から約8000年前の縄文時代早期から約2300年前の縄文時代晩期まで、縄文時代の長期にわたる遺跡であることがわかっている。このときの調査では、谷の中を流れる川跡がみつかり、その中からは多くの木の道具や動物や植物の遺体が発見された。なかでも高床式建物の柱材と考えられる、ほぞ穴やエツリアナと呼ばれる加工をした木柱の発見は、それまでの米作りの技術とともに弥生時代に日本へ伝えられたと考えられていた高床式の建物が、定説より2000年も古い縄文時代にすでにあったことを証明した。その後の調査でも、縄文時代中期末〜後期初頭の様々な加工を施した多量の木材等が新たに出土。このほか縄文時代の食材や食文化をかいま見ることのできる様々な遺構や遺物が続々と発掘されている。[小矢部市ウェブサイトより引用・加筆]

▲【※2】 黒井峯遺跡(くろいみねいせき 群馬県北群馬郡子持村北牧)……「日本のポンペイ」と言われる黒井峯遺跡は、子持村のほぼ中央にある海抜250mの高台に位置している。1982年1月に初めて発見されて以来、6回の発掘調査が続けて行われ、古代の村跡のうち約3分の1ほどが発掘された。村の時代は1400年前頃(西暦500年代半ば頃)で古墳時代後期にあたる。この遺跡の特色は2mも堆積した軽石層に覆われた災害遺跡であると共に、軽石層が古代の地表面や建物を長い年月保存している点にあった。1991年に国の史跡に指定。[子持村ウェブサイトより抜粋・加筆]

 

南方の文化を受け入れた弥生文化
 弥生時代になり稲作が始まると土のムロが消え、茅の屋根と壁が主流になる。これは奈良で発掘された家屋文鏡ですが、高倉・高殿・平地住居・竪穴住居が描かれていますが、全て壁は竹の網代、屋根は茅の模様で描かれているんですね。森林を伐採して生えてくる竹や茅つまり草で住居が作られていることが分かります。土のムロの衰退は農耕の普及と重なっているんじゃないかと私は考えています。農耕の起源は中国の雲南あるいは江南地方ですが、おそらく縄文時代の後期からそいういった南方の文化が温暖化した日本に入ってきたんですよ。南方の文化を受け入れたことによって、そして北方の文化だった土のムロが衰退していったのでしょう。
 これは沖縄のアナヤという戦前の沖縄の一般的な住居です。私が始めて沖縄に行ったのは返還まもない1978年で、沖縄の一般的な住居といわれる茅葺きにチニブ(網代)壁の民家を探したんですが、戦後の復興で全部瓦葺きあるいはブロックに変わっていて見つからなかったんです。やっと一軒久米島で見つけたんですが、調査を断られましてかろうじてスケッチを許され残ったのがこれです。茅葺とチニブ壁のいってみれば草のシェルターですよね。そして沖縄は暑いですから熱を母屋に入れないよう分棟にしてあるいは外で煮炊きをしたんですね。群馬県の夏の家とは火の使い方が違いますが、草のシェルターという点では共通しています。
これはアイヌのチセを復元したものですが、茅の壁と屋根の平地住宅です。このように日本の北と南の住居は似ていて、同じ草のシェルターなんです。アイヌはあまり農耕していなかったのでちょっと不思議ですが、それ以前には土のムロがあったと私は思います。最終的にはこの草のシェルターの形を取ったということでしょう。暖房はいろりで煮炊きをして火棚で薫製を作るという火の使い方です。暖房効率はよくないが、どちらかというと豊かな森林資源をおおらかに使っています。

▲アイヌのチセ
安藤邦廣氏著『現代木造住宅論』より

▲沖縄のアナヤ
『チルチンびと4月号』より

これは長野県の秋山郷にあった18世紀ごろの民家・山田家住宅【※3】で、大阪の日本民家集落博物館に移築されたものです。これは大きな家で掘っ立てではなく礎石の上に乗った貫構造【※4】で梁も立派なものを使っています。骨組みだけみれば、完成された民家の形をもっているのですが、シェルターだけみると非常に古い構造をしている。つまり茅の屋根と壁という構造です。内部は全部土間ですね。寒冷な長野県では短い夏よりもむしろ厳しい冬に土間の熱を得て生活していたのですね。床を上げるというのは通気性という理由が一番大きくて、湿気を避ける工夫ですから、農耕の適地であった西日本の家で夏の暑さを避ける工夫でもあった。日本の民家の基本的な形は大きく見れば真ん中にイロリがある通気構造で、厚い茅で断熱を取るシェルターの形です。これは夏の風通しと、イロリで薪を焚いて暖房と調理をする考え方から成立したものです。そのルーツは縄文時代に夏の家と冬の家を持っていたのが、夏の家だけを受け継がれたということです。冬の家を造るほど日本は寒くなくなったことが一つの理由でしょう。農耕した日本人は夏を旨とする南方的な家を選択してきたと私は考えています。その場合の主原料となる草は農耕の副産物ですから。その伝統は今でも秋田県の雪囲い等のように夏向きの家を補強することで受け継がれています。

▲【※3】 山田家住宅……入り口が前に張り出した「中門造り」で、屋根や壁が茅葺きとなっている。 この家には掘立て柱が有り、古い時代の特徴を示している。[日本民家集落博物館ウェブサイトより抜粋]

 

▲【※4】 貫……柱に貫穴を掘抜いて柱をつなぐために貫き通した小幅板のこと。通し貫を用いて軸組を固める構法を貫構造という。貫の位置により地貫、胴貫、内法貫、天井貫と呼ばれる。

壁に起こった革命
室町時代から桃山時代にかけて大きな変革期がおとずれます。これは15世紀の日本最古の民家の一つ・千年家と言われる「箱木家住宅」【※5】です。民家は昔からあるんですが貫構造で掘っ建てでないものの中で最古という意味です。この頃、通気構造から一変して、土壁の多用という変化が起きるのです。縄文時代の土のムロを弥生時代に入って捨てたのだと私は思います。しかしこの15世紀にもう一度土が復活するのです。屋根は縄文以来の通気構造ですが、壁は気密・断熱・防火性を持ったものが実現しているというのが最大の特徴です。窓が小さく木部は塗りこめられ閉鎖的な外観で、夏を旨とした日本の住居とは全く正反対の構造しているわけです。壁については大陸やヨーロッパの住居に似ているのです。
 日本の土壁の文化はいつからあるのか考えてみると、伊勢神宮は草と木だけでひとかけらも土を使っていません。何度も建替えられ仏教建築建築の影響を受けていますから昔のままではないのですが、でも基本的な材料と形態は守っていると考えていいと思います。日本のもっとも古い南方的な高床の建築は土は使っていないと考えていいと思います。あらゆる神社建築は一部の例外を除いて土は使わず木でできていると改めて気がつきます。例外は春日大社で、なぜか土を使っている。これは謎です。
 伊勢神宮の本殿は象徴的に巨大化したもので、御食(みけ)が伊勢神宮の古い形だと言われています。四隅に建っている柱は厚板を繋ぐためのジョイナーなんですね。もとの形は御食殿のような井篭を組んだ板倉に屋根を載せたものだといえます。井篭の倉はいわば米びつですよね。伊勢神宮を米びつの象徴化したものと捉えるならば、高床にして湿気を防ぎ屋根を架けて雨露や太陽の日差しから守る形だと考えられます。屋根荷重の半分は棟持ち柱で半分持って、板がバックリングする抑えているわけです。板倉というのは建築というよりは箱にちかい、米びつを湿気から守って屋根を被せたと見たほうが良いですね。板倉の歴史は古く、穀物を入れる構造として世界で普遍的に見られる形です。つまり古いものの倉は全て木で作られていたと言えます。

▲【※5】 箱木家住宅……別名「千年家」と呼ばれ、国内最古の民家に類する。建設年代は明かでないが、部材が格段に古式であることと元禄頃すでに「千年家」の家号を与えられていることから、室町時代にも遡る民家で、非常に貴重である。主屋と後設の離れ座敷は以前は一体であったが、修理の際に主屋は当初形式に、離れ座敷は近世の姿に復原された。[文化庁ウェブサイトより抜粋]

▲箱木家住宅

土壁が選ばれた理由
 
なぜ15世紀の民家で土が使われてたのか、
 これから日本における土、あるいは木について我々はどう受け止めてきたのを考える手がかりを伝えてくれます。
 箱木家住宅に入るとおもしろいことが分かります。木材のほとんど松でそれも驚くほど細い軸組を使っています。また屋根の垂木や小舞、壁の下地など竹の多用が見られます。古い民家程太い材料を使っていると思ったら違うんですよ。古いものほど細く、だんだん太いものを使っている。それはその時代の森林資源、あるいはそれを背景にした民家に対する規制が民家の構造を作ってきている。この当時の民家は森林資源の非常に乏しい時期に作ったということがわかります。松というのは森林の破壊の後に生える2次林で、この神戸の辺りが松林であったということが分かります。その中で表の間1部屋だけ板が使われています。寝殿造りの時代から客間は板敷きで、板がもっとも高級な仕上げだったのです。箱木家でも客間だけは松の落し板壁です。それ以外は土と竹と藁で出来ている。箱木家は豪族の家で裕福な家であったにもかかわらず客間だけ板の間・板壁というところに当時の森林資源の状況の厳しさが表れています。
 この18世紀の四国の民家・細川家住宅は曲がった栗の細い柱で丸太に近い。竹簀子とムシロの座敷に土間、そして圧倒的な土壁ですよね。土が完全に民家の主材料となっていることが分かります。最低限の圧縮力を伝える柱と貫構造。貫があるということは木材が細くなった証拠で、木材が太ければ頭つなぎと足固めで良いわけです。貫構造は相互に繋いで壁を作り厚く土壁を塗って地震力に耐える構造で、板壁に変わる新しい構造を民家の主たる構造に変えたということです。
 逆にいうと民家は庶民の家ですよね。民家が成立したのは15世紀、戦国時代です。戦国時代は下克上の時代で、民衆が力をもって政権を取る時代です。その前の時代は一部の支配階級が寝殿造りと書院造等を作ったのですが、力を持った民衆が本格建築を望んだ時代。その結果、木材資源の不足、それに伴い板壁に変わる新しい技術の開発が求められたわけです。それが土壁だったわけです。
 土で塗りこめることは最終的に天井まで至り、大和天井という竹簀子の上に土を敷いた形ができます。それと同時に木材資源の有効利用と暖房の装置あるいは火の使い方の燃料革命が行われます。この時代暖房がイロリから木炭を燃料とする火鉢に変わります。関西など寒さが厳しくない地域で普及しました。
 今の話は近畿地方を中心とする西日本だけで起こっていて、東日本の変化はずっと後のことです。応仁の乱から天下統一までの100年間はまさしく戦国時代で西日本はその戦乱の舞台でした。その時代都市は焼かれ、再建のために木材資源が使われ枯渇した時代に、庶民の家を造るための知恵が土を使うことに転換したということだと言えます。

▲土を主体とした造りの民家 香川県 18世紀
安藤邦廣氏著『現代木造住宅論』より

数寄屋に込められたメッセージ
 ではその時代に民家以外ではどういう建築があったかというと、やはり新しい建築が出現しています。それは数寄屋です。これも15世紀に始まり完成されたのが桃山時代です。
 数寄屋というのは杉を使う建築です。日本の古い建築は檜そして欅を使いました。杉を構造材に使ったのは数寄屋が始まりです。数寄屋の特徴を構造から言うと杉普請ですよ。細い丸太を取るために杉を密植して園芸のように杉を育てる北山林業の歴史をを調べると、始まりは室町時代後期とされています。数寄屋は面皮や丸太を使う、収まりが悪いから土で目止めする。それが数寄屋のマナーなんだけれど、ではなぜそのマナーができたのか。それは細い材料を使うためです。あるいは木材の歩留まりを上げるためですよ。丸太は歩留まり100%です。これをピン角で使うと歩留まりは60%に落ちる。木材を有効利用するために丸太を使ったのです。また竹の多用も数寄屋の特徴です。そうしてみると、先程の千年家に見られる特徴と全く同じなのです。同じ時代背景の中生まれた民家と数寄屋は兄弟だと私は思います。数寄屋は民家を洗練したものであるという美学的なとらえ方ももちろんあるでしょうが、その背景には森林資源の枯渇と土の文化の導入があったと思います。

 これは桂離宮の中にある松琴亭【※6】です。下地窓がありますが、これは利休が農家のあばらやの崩れゆく美しさを見て考案したと言われていますが、私は竹を誇張しているのだと思います。竹はとても美しい、民家や数寄屋を作るときには竹を使おうではないかという表現だととれます。日本の文化は木に頼ってきていましたが戦国時代、農耕の展開や農機具や武器を作る製鉄のために森林は衰退した。西日本の山はこれではげ山になったと思いますよ。その時出現したのが利休で、荒廃した日本を建て直すための暮らし方と建築様式を提案したといっていいと思いますね。それが数寄屋に込められたメッセージだと思います。
 待庵は利休作の遺構とされていて、これはそれ以前の建築と圧倒的にに違うものです。木材を完全に消しているんです。見えるのは床柱と床框と落し掛けだけで後は土で塗りこめられています。床は藁畳、天井は網代、この時代にもっともふさわしい建築として提案されたものでしょう。数寄屋に使われるものは主に草や竹、藁です。
 土壁の意味の一つは暖房です。草庵茶室で使われるのは炉と炭と決まっています。炭は数寄屋とともに普及したという説があるくらいです。炭を使って部屋を暖め、熱いお茶でもてなすというのが草庵茶室の形です。わずかな燃料で暖めるために気密性・断熱性を上げた土壁で囲っていたのですね。つまり土壁は新しい暖房装置と一体となった構造だったということです。
 平和な江戸時代になると茶室は遠州好みの開放的な構造となります。戦国時代に復活した土壁というのは江戸時代に衰退し300年の間に夏の住まいに戻っていくのです。茶の世界には受け継がれるのですが、民衆の住まいとしてはこの形は長くつづきません。これはなぜかというのを考えてほしいのですが、私の意見としては、土壁は戦国時代が求めた独特な形だということです。木材資源の枯渇と節約の問題が一つ、そしてもう一つは戦乱の時代に命と財産を守るために囲うという建築や都市のあり方と言えます。この戦国時代各地に土塁に囲まれた防衛都市・寺内町が生まれています。戦乱の時代に命と財産を守るという強い社会的心理が働いたとすることができます。資源の枯渇と社会的な不安という二つの要請が土壁の文化を作ったのです。

▲【※6】 松琴亭……桂離宮の本館である三書院の南で、大池の対岸にある建物で、大きな入母屋の萱葺き屋根をもっている。草庵風の小間の茶室。

滅びない文化への憧れ
 
これは朝鮮の民家です。藁の屋根に土壁に小さな窓。15世紀の日本の民家に非常に似ている。ただ暖房はオンドルが発達し徹底している。また朝鮮は日本よりもっと農耕が進み、荒れ地がなく茅ができなかっため田畑でとれる稲藁だけを使って屋根を葺いています。稲藁は毎年とれますからこれはこれで循環していて効率的です。茶室のモデルは朝鮮の民家だという説もありますが、利休が発想の原点をそこに求めたことはあるかもしれないと思います。というのは、茶室で使う器は楽焼きと決まっていて、楽焼きの楽さんとは渡来人で、今も十何代と京都に続いています。その茶わんは土で出来た武骨そのものの分厚い茶わんです。それまで日本の食器は漆器でしたから、住まいだけでなく器も変えようというのが利休の提案だったのだと思います。焼き物の燃料のために森林破壊を促進したとも言えます。利休の教えにはいくつか教えがあるのですが、飾る花もムクゲの花と決まっています。これは朝鮮の国の花なんです。夏に限りなく咲く花、ムグンファ(無窮花)と言いい、無限という意味があります。日本の桜に象徴される滅びの美学に対して、朝鮮の人々の価値観は滅びないということなんです。利休はムクゲを飾りなさいと言っている。朝鮮の土の文化を相当意識して待庵をデザインしたといえます。朝鮮の家は木材を捨てるとこなく利用している。この土と木の利用の仕方を現代も見習うべきだと思いますね。室町時代に始まった松と土、竹と藁を使った新しい建築の循環のシステム、その始まりが箱木家住宅であり、もっとも端的なものが利休の待庵と言えると思います。

繰り返す壁の歴史
 今日また松の文化は衰退しました。松は2,30年で伐採するからこそ松林が続くのですが、松を使わなくなると西日本では常緑の広葉樹林、楠とか椿とか椎木に負けてしまいます。西と東では全く森林の形が違って東日本は自然の森の中で暮らすことがかろうじて可能だったということでしょう。西日本では森の文化は室町時代に破局を迎えて、二次林としての松の文化という新しい森林利用の形を見つけた。それが民家であり数寄屋であるということです。日本の建築の大きなドラマが展開した時代です。もちろん戦国時代は日本の歴史を変えた時代であったけれども、建築革命が起きた時代ともいえるのです。
 現代もその時代に似ています。戦争で家が焼かれた後、都市の中で命と財産を守るということが家のもっとも重要な役割となったのです。江戸は平和な時代で、快適性、庭を眺める、人を迎え入れる空間が重要視されたけれども、今は自分を守るための建築の時代でしょう。だからあらゆる建築は閉じていて、高気密・高断熱住宅もそういった社会背景で導入された技術だと思います。ただ、昔の自然素材を使った通気性のある閉じた空間とは違って、今のベニヤとクロスでは空気も通しませんからシックハウスの問題は当然起こるべくしておきたのです。
 一万年前の縄文時代に土のムロを捨てた日本人を考えれば、空気も通さない家が日本に合わないことは明らかだと思いますね。平和な時代になれば、囲われた茶室も開放的なものに変わったように、土で囲ったムロは存在価値を失うということですね。庭を見る、風を通すことが優先された建築にまた戻っていくということです。
 15世紀から17世紀までは土壁で囲われた閉鎖的な民家が特に西日本で多く、東日本もその普遍的な技術を受け入れその傾向があるのですが、18世紀になると平和な時代が続き、また建具も民家に普及してどんどん開放性を高め、民家から壁が消えていくんです。その代わりに、命と財産を守る囲われた空間が必要になった。それが土倉が生まれた背景です。それまでは校倉あるいは板倉だった倉が土倉となったのは室町時代以降とされています。

▲韓国の民家
安藤邦廣氏著『現代木造住宅論』より

▲土壁がはげ落ちた井籠蔵。長野県茅野市
安藤邦廣氏著『現代木造住宅論』より

土倉の壁の変遷
 土倉の壁の作り方の変遷を見ていきます。
 荒壁は基本的に村人の協同作業で行われます。軸組は大工さんが、土をこねたり塗ったりするのはみんなで協同してやります。こうして見ると田植えを思い出しますね。田んぼの泥をこねてたりすることの延長にこの土壁の作業が素直に浮かびます。このように協同で行うことも自然の流れです。
 やはり民家を考えるときは、建築だけで閉じて考えては分からないということです。生業や食べ物等の社会構造の中で民家が造られていることを考えれば、なぜその技術が採用され発達したのか初めて理解されるのです。土倉は米を保管するもので、田んぼの土と藁そして竹で作ってその居住性を確保したことが理解されるんです。土のアクを取ったり割れを防ぐ方法も、田んぼを作る技術から培われていると思います。戦国時代の土壁を作った技術も、もとは軍事施設である燃えない構造を持った城郭を造った技術だといえます。城郭建設に借り出された民衆が、土壁の技術をもって民家を造ったのでしょう。
 これは八ケ岳山麓の板倉なんですが、先程の間宮林倉の描いた絵に似たものを見つけたのです。剥がれかかった土壁の下に板倉が見えた状態です。八ケ岳山麓は諏訪大社があるように縄文の文化を受け継いでいます。諏訪の御柱(おんばしら)の祭りも有名ですね。山から巨木を切って立てるだけですが、神社の始まりとも言われています。森の文化の象徴みたいなものですよね、それを残しているという地域にはこういう板倉の家が多いのです。この板倉がおもしろいのは、土で塗っているということです。真ん中の柱があるのは短い材料でも継いで使うためです。庶民の板倉の板は薄く暴れてすき間が出来ています。木だけではまともな倉が出来ず、土を塗って補強していたのです。そしていずれ漆喰で仕上げるというゆっくりとした流れで倉は完成されていました。また倉は、維持できなくなると人に譲られていましたから、移動が繰り返されていました。

▲腰回りに大谷石を積んだ蔵
安藤邦廣氏著『現代木造住宅論』より

 明治以降になると鉄平石を使った倉や、F.L.ライト【※7】の帝国ホテルのように大谷石等が使われるようになり、組積造へと変化していきます。
 日本建築で壁が支配する時代は短いのです。やはり基本的には開いた空間を好み、それを補ったのは倉であったということです。
 現代は「壁の時代」です。囲われた空間は現代の社会的な要請です。その中でどういった壁を使うかが問題となってきているのです。何を閉じ、何を開くか。これは朝鮮半島の東に浮かぶウルルン島(ド)なんですが、朝鮮人参等を作って山地に暮らす山の文化を受け継いだ人々がいるということで訪ねたんです。外から見ると藁葺きでトタンの壁の壊れそうな民家なんですが、中に入ってびっくりしました。中には丸太で組まれ、蓄熱のため土で塗りこめられた井籠倉(せいろうぐら)があり、この部屋はオンドルで暖められていました。閉じられたオンドルの部屋と開かれたマル【※8】のある韓国の民家は良い例です。
 社会的に守ることと開くこと、寒さをしのぎつつ通気性を確保すること。日本列島の建築の宿命としての課題が、現代もつきつけられているのです。【了】

▲【※7】 フランク・ロイド・ライト……

1967年6月8日ウィスコンシン州で生まれる。落水荘、自由学園明日館、 旧帝国ホテルの設計などで知られる建築家。

 

▲【※8】 マル……オンドルとは対照的に開放的に作られた板の間の室。

 

民家研究その1「屋根のルーツ」

民家研究その2「土間」

民家研究その3「壁」

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